幼さと情報依存

企画の勉強の際にいつも注意することがある。これは先に言っておかないと、ほとんどの受講生が誤ってしまうことであり、企画の終盤になってから指南しても手遅れになるのだ。「企画の出発点において調べるな!」というのがそれである。昨今、企画らしい企画にお目にかからないのは、企画に占める調査の比重が大きくなっているからだろう。いや、実は、大きくなどなっているのではなく、企画者自身が勝手に重要視してしまっているのである。

企画が調査の同義語になってしまった。最重要な企画コンセプトをろくに煮詰めもせずに、せっせと情報で外堀を埋めてしまう。気がつけば先行企画事例やデータでがんじがらめになり、企画者の独自の視点、アイデア、思考が従属的もしくはお情け程度の付け足しになっているのである。誰もが企画の仕事に従事するわけではないだろう。だから、部分的には調査偏重の企画技法で事足りる人たちがいる。しかし、企画にはもう一つ見過ごせない学びがある。もう一つというどころか、それは根幹的命題にかかわるものだ。すなわち、「自分で考える」という能力である。

「自分で考えることは重要である」という、いかにもぼくたちの共通感覚であると思われる命題を、上滑りせずにいざ証明しようとすれば、事のほかむずかしいのである。たとえば、「考えなくっても、どこかの先行事例をちょいちょいとアレンジすればいい。どんなにあがいても、創造的な企画を考え抜くなど凡人には不可能なんだから」という、アンチテーゼになっていないお粗末な反論で自力思考の尊さが崩されてしまうのである。


企画には思考力が不可欠である。自分で考えなければ、誰かが考えたことを用いるしかない。つまり、思考を外部に依存するしかない。そして、それは情報を自分のアタマ以外のところで検索することを意味する。ろくに考えもせずに「考えてもわからない」とあきらめて、情報を取り込もうとするのは精神的幼さにほかならない。但し、幼児の場合は知性も教養も不十分であるから、それもやむをえない。そもそもそうして学習することによって彼らは自ら思考する習慣を身につけていくのである。いま問題にしているのは大人の話である。

どんなに力量を備えても、考える材料の不足はいつまでも付きまとう。だから、どこかで勇気を奮い「不足→調査」という流れを断ち切らねばならないのだ。さもなければ、「考えない」あるいは「考えなくてもいい」という習慣が繰り返され、やがて「考える」という習慣よりも強く形成されてしまうからである。これは親離れできない精神構造によく似ていて、努力しないかぎりひとりでに依存症が解消することはない。集めても集めても情報は尽きることはない。小さな池だと思って泳いでいたら知らないうちに大海で溺れていたということになる。

自力で考えるのはたやすくない。誰もが考え抜くために突破口を求める。その突破口が調べれば簡単に手に入るようになった。たいがいのことは検索すれば見つかるし、実際のところヒントにもなってくれるだろう。しかし、企画に唯一絶対の正解などないのに、調べれば答えらしきものに出合える、この「検索即解答」という便利さが、企画に不可欠な「勘」を奪ってしまう。勘とは、言い換えれば、自分で考えて蓋然性の高い方向で仮説を立てる力である。誤解なきよう。調べてもいいのだ。考えて苦悶し、勇気をもってひとまず自分なりの決断を下したあとに、ねらいを絞って情報を参照すればいい。

情報依存は親依存、友達依存、先輩依存に酷似している。その姿は独立独歩できない未熟な青少年そっくりだ。ここまで書き綴ってきて、ある書物を思い出した。カントの『啓蒙とは何か』である。機会を見つけて近いうちに続編をしたためたい。 

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

「幼さと情報依存」への2件のフィードバック

  1. 以前に、先生とお話させていただいたことがあるように思います。
    「企画」と言いながら、すでに決まった路線の論理固めのために資料を作る。ある人<ターゲット>の思考に合うように理論武装するための企画書という名の資料を作る。そんなことが普段は多いように思います。
    仕事では、それも必要なことではあると思います。しかし、本当の「企画」ということから捉えると“それは企画ではない”ということですよね。
    大げさではありますが、今ビジネスマンに求められているのは、(世の中に既にあるかもしれないけれども)自分の中で新たなものを発想し、構成し、周りにわかるように伝える能力なのでしょうね。
    これも先生が以前、言われていたように思います。本を読む行為は知識を蓄える行為であると同時に、自分の持っている考え・思いといったものを確認する作業でもあるように、最近強く感じています。その考え・思いを、自分の表現で伝えられるようになりたい、と最近強く思います。
    まだまだ、受け売り的でダメですが・・・

  2. ぼくは周期的によく似た話を書きます。意識的にそうしています。このブログを読んでいただく方々に少しでも理解してほしいからです。自分が独力で考えたことがすでに誰かによって考えられていた――こんなことはよくありますが、偶然の一致というものです。自分が考えたのが遅かっただけの話で、何らショックを覚えることはありません。しかし、もし誰かが考えたことを先に知ってしまったらどうでしょう。その方面の考えを除外するか、あるいはアンダーレイにしてアレンジするかもしれません。もはや、この時点で創造的な企画機会を失っていると言わざるを得ません。
    ぼくは自分の仕事柄、企画と呼んでいますが、これは知を用いる仕事一般に当てはまることです。その種の仕事は、考えることと素材(=情報)によって成り立っています。そして、常日頃いろいろな素材に目配りしたり素材を集めたりすることは、プロフェッショナルとして当然のことです。ある日、テーマが与えられるか自分で課題を見つける。その時点で、プロにはある程度の素材に精通していることが前提されます。だから、その時点から構想したり思考し始めるのです。とりあえず自力でやってみる。そして、何らかの意思決定をしてみてから、当該テーマなり課題なりに必要と思われるリサーチをすればいいのです。
    このような仕事の手順には、有効性と熟練可能性とやりがいがあるとぼくは確信しています。仕事の出発点で情報を収集しすぎると、知の働く出番が少なくなるのはほとんど間違いないでしょう。

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