ダ・ヴィンチからガウディへ

2011年のノート3冊のうち1冊を捲っていたら、最初のほうのページにレオナルド・ダ・ヴィンチの、最後のほうのページにアントニ・ガウディのことばの引用を見つけた。そして、あれこれと考えを巡らしてみたのである。

数日前、食後に入店したカフェの壁の一部が鏡だった。その鏡に掛け時計が映っていた。鏡は実像の左右を反転させて虚像を映し出す。暗号の解読ほど手間取らないが、反転時計の長針と短針の位置関係にやや戸惑う。しかし、これが文字になると判読にさらなる時間を要する。漢字ならまだしも、アルファベットで書かれた文章には辟易する。

左右反転の鏡面アルファベットで手記を綴ったのがレオナルド・ダ・ヴィンチだ。鏡面文字で書いた謎をひも解いてみよう……などとは思わなかったが、久々に手持ちの本を拾い読みしてみた。この写真の手記はイタリア語で書かれた鏡面文字である。イタリア語も他の欧米語も左から右へと横書きされる。この左右反転文字は右から左へと書かれている。右端が揃っていて左端が不揃いだから、右端が行頭だということがわかる。

ダ・ヴィンチは手記のほとんどをこんなふうに書いている。しかし、左から右へと通常の体裁で書いた自筆がないわけではない。それがこれだ。ミラノのスフォルツァ公に自分を起用してくれと陳情した「売り込みの手紙」。さすがに鏡面文字は意味伝達して訴求するには適さない。常識を心得て、読みやすい文字でしたためたのだろう。鏡面文字の身上書を提出していたら、間違いなく書類選考で落とされたに違いない。


ダ・ヴィンチの手記に意味難解な一節がある。

「感性は地上のものである。理性は観照するとき感性の外に立つ」

感性には主観が入り込む。だから生活の場である地上では感性が主役となる。これに対して、理性は観照する。主観を交えることなく冷静に観察するから、個人的な事情から離れて物事の意味が明らかになってくる。感性の外は天空が開けている場所だ。そこから理性が全体の何もかもを俯瞰している……この一文からこんなイメージが湧いてくる。

アントニ・ガウディも感性と理性を対比している。

「われわれ地中海人の力である想像の優越性は、感情と理性の釣り合いが取れているところにある」

これはラテン系のスペイン人とは違うカタルーニャ人のプライドを示している。ガウディは感情(または感性)が豊穣であることを必ずしも好ましいと考えていなかった。ダ・ヴィンチ同様に、ガウディもまた理性という天空からの俯瞰、あるいは自然を眺望することを拠り所にしていた。「自然は偉大な教科書である」ということばがそれを現わしている。サグラダファミリアは自然の模倣である。そして、自然を切り取ったハサミ、それが理性だったのである。

自然と調和する、あるいは自然の中に人間との調和的な要素や「模範解答」を求める。この作業は感性の仕業と言うよりも、きわめて理知的な行為なのである。人がありとあらゆる経験と知識を駆使しなければ、自然から教えを乞うことはできないし、自然を取り込んで人工物として再現することはできないだろう。人工物のほとんどは自然の模倣であり、よく模倣された人工物に対しては自然のほうがそれに調和するようになる。サグラダファミリアは自然の姿と写像関係にあって、自然の鏡像として眺めることができるかもしれない。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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