検定流行現象

いろんな出版社が読書人に向けた無料の小冊子を発行している。ずっと以前から岩波の『図書』や講談社の『本』や筑摩書房の『ちくま』などを愛読している。書店のPRコーナーなどに置いてあって、お持ち帰り自由だ。先日、いつもの書店で手に取って立ち去ろうとしたら、棚の下段にずらりと並んだ検定の案内パンフレットが目に止まった。適当に持ち帰ったものが手元にある。

日本仏像検定(第1回)
「立ち止まって、仏像を見てみると、新しい発見がありました。」

日本さかな検定(第2回)
「さかなの国、ニッポンの検定」

家庭菜園検定(第3回)
「めざせ! 野菜づくりの達人」

インドネシア検定(第1回、ASEAN検定シリーズの一つ。他に第2回タイ検定、第1回ベトナム検定がある)

会議力検定(第1回、正式名「会議エキスパート認定試験」)
「乗り遅れるな。10万人の会議革命。」

キャッチフレーズらしき文言を付け足しておいた。いやはや、「検定」と入力してツールバーをクリックすれば、現在わが国で実施されている検定が果てしなく登場するに違いない。しかし、敢えて検索しないでおこう。検定流行現象を語るのに上記の5種類もあれば十分である。

なかでも「会議力検定」に注目だ。パンフレットの中面を開けば「会議が変われば、日本が変わる。」と書いてある。そして、本文の末尾には「あなたから、変わりませんか?」の呼び掛け。いったい何から変え始めればいいのか混乱してしまう。「人が変わる→会議が変わる→日本が変わる」という流れだろうか。大仰に日本を変える話にまで発展させることはないと思う。もし「人が変われば会議が変わる」なら「人間力検定」が先だろう。


人間力検定では、いったい誰が出題して誰が採点することになるのか。「人間力有段者」か。そこらの胡散臭いマナー講師にだけは評価されたくない。冗談はさておき、人間力を検定するような問題作成も採点もできるはずがないのである。同様に、会議力も、それが「コミュニケーション力」の評価であるならば、できそうもないのである。パンフレットの別の箇所にちゃんと「会議力=コミュニケーション力」と書いてある。このイコールが曲者だ。なぜなら、会議は上手だが、コミュニケーションが下手という手合いも大勢いるからである。どう考えても、「コミュニケーション力⊃会議力」という関係が正しいと思うが、どうだろう。

パンフレットに書いてある「人と人が向かい合い、何かを決める、アイデアを出す。」ということを実践しようと思えば、会議のファシリテーション・ノウハウを学ぶ必要などない。ただひたすら、そのように毎日の人間関係を生き仕事に臨めば済むことだ。「あなたから、変わりませんか?」という呼び掛けがホンネなら、会議の上達の前に、行き詰まっている人は自分が真っ先に変わればいい。会議が本番の仕事よりも難しいということなどありえないのだから、ちゃんと仕事をしてコミュニケーションしていれば、会議はうまくいく(それどころか、会議の数を減らすことができる)。

一定の基準さえ設けることができれば、どんな対象も検定として制度化できる。正しい息のしかたを評価する「呼吸検定」や散歩にまつわる薀蓄の力を認定する「散歩検定」もありうる(冗談のつもりが、実在していても何ら不思議がない)。総元締めは「検定力検定」だ。以前、ぼくもディベート検定を手伝わされかけたので、これ以上の主催者批判を控えたい。いや、それどころか、どんな検定でも趣味や学習の動機づけとして試行してみてもいい。

課題はむしろ受験者側にある。そもそも検定というものはことごとく、知識の多寡しか採点できないことを心得ておくべきである。家庭菜園1級や会議力2級が意味するものをよく考えてみるがいい。現実に「できる・できない」とは無関係だ。この国には、無理やり覚えたことを紙の上で再現するのが好きで、それを他者によって採点されることを喜びとする人々が大勢いる。この種の検定が受験勉強の構造と酷似していることを思うだけで、ぼくなどはうんざりしてしまう。社会で重要なのは、自分で出題し自分で白紙に解答を書き自分で評価するという「仕事検定」や「人生検定」である。こちらを忘れてはいけない。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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