新聞という旧聞

月極で新聞を配達してもらっている。わざわざ配達してもらうのだから読むことにしている。記事によって、ざっと目を通したり、しっかり読んだり、気になるものは切り抜いたり。周囲では月極購読者は半数にも満たない。二十代、三十代世代には新聞をまったく読まない人も少なくない。彼らの情報源はネットやテレビだ。時たま「月極などしなくても、必要や興味に応じてコンビニでそのつど買えばいいではないか」と思うことがある。たしかにニュースだけをかいつまむなら紙媒体以外のもので十分にまかなえる。

新聞は発行部数も購読世帯数も漸減しているが、2016年の一般紙の購読世帯比率を知ってちょっと驚いた。今も全世帯のおよそ70パーセントが新聞を月極で取っているのだ。もちろんどれほど読んでいるかは定かでない。長年の癖で月極購読しているだけで、読んでいるのは世帯主一人、家族の他の面々はたまにテレビ欄を見るだけかもしれない。ともあれ、新聞は案外しぶとく粘っているという印象を受ける。

朝刊で読むニュースの大半はすでに前日のテレビ報道で知っているし、ネットで閲覧してわかっている。迅速な情報伝達という点では新聞は劣っている。新聞は「旧聞」のコンテンツを編集しているにすぎない。それでも購読するのにはワケがある。年配者は紙のほうがなじみやすいというのもその一つ。高い信頼性で事実を報道する強みもある。しかし、今となっては、単純な事実に関して言えば、新聞とテレビとネットに著しい差は見当たらない。敢えて言えば、旧聞の復習という機能が新聞の特性かもしれない。


オフィスではずいぶん以前に一般紙の購読をやめ、長年購読してきた日経も昨年やめた。スタッフ全員がいらないと言ったからである。仕事柄あるほうがいいという理由で週3回発行の日経MJだけかろうじて残っている。自宅で購読している新聞もほんとうにいるのかと、最近よく思う。以前に比べて魅力に乏しくなった気がするのだ。先日、やめる選択を後押しするような文章に出合った。『知的な痴的な教養講座』で開高健は次のように書いている。

新聞というものを、わたしはすでに数十年前からほとんど読まないことにしている。(……)なぜ読まないか、話は簡単である。(……)久しく前から、新聞をつくる人たちが自分は言葉のプロであり、文章を書くことによってメシを食う職業人であるという意識を、徹底的に喪失してしまった。(……)ジャーナリズムとは、文章である。もちろん、事実は伝えなければならない。が、その事実を伝えるにも無限の方法があり、発想があることを、みな忘れてしまった。二足す二は四という文章ばかりである。この退屈さ、凡庸さ、陳腐さ――

そうか、最近の新聞がおもしろくないのは、こういうことなのだとえらく共感した。開高は1989年に59歳で亡くなっている。いつ頃書かれた文章か不明だが、三十数年前にこんなふうに新聞に見切りをつけた。いや、文中「すでに数十年前から」と書いているのだから、少なくとも三十代かそれ以前に新聞を読むのをやめたことになる。なるほど、やめるという手がありそうだと思った。だが、踏みとどまることにした。文章の工夫の退屈、凡庸、陳腐というならネットも変わらないからである。同じ退屈、凡庸、陳腐なら、長年読み続けてきた新聞にもうしばらく寄り添って、読みごたえのある記事の一つや二つを見つけてみようと思い直した。

数年前から記事の切り抜きを再開している。若い頃のように厚紙やスクラップブックに貼り付けたりはせず、一週間分を切り抜いて透明ファイルに挟み、後日再読して傍線を引く。気にとめておきたい記事のさわりはノートに転記して、自分なりの意見を書き込み、記事の一部は仕事に生かし、一部はこのブログで取り上げる。なぜこんな面倒な切り抜きをしているのだろうかと、切り抜きしながら思っている。まじめに理由を挙げるとするなら、コラム記事や旧聞の事実を二度読みして、広く浅く今生きている世間と時代を概観するためということになる。冗談っぽく答えるなら、ハサミを動かしていると、なにかしら達成感が得られるからである。しかし、何が達成されているのかはよくわからない。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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