様々な一節

相変わらず雑読ばかりしている。十数ページほど読むと別の本に手を伸ばし、その本の適当な場所を開けて何ページかめくる。こんなことを繰り返す。飛び石を伝うような読み方。ネットサーフィンならぬブックサーフィンだ。この一週間古書店で買い求めた数冊を昨日もそんなふうに読んでいた。本は生真面目に1ページ目から読むべきものとされているが、それは一つの読み方にすぎない。小説を例外として、かく読むべしという観念に縛られる理由はない。自分に気まぐれを許して好きなところから読み始めればいい。偶然開けるページの断章の中の一節が少考のきっかけになることがある。

『パリの手記Ⅱ 城そして象徴』 辻邦生 (p50)

自分のなかの危険の兆候を、僕は一種の物憂さの中に見いだす。僕は「他人の眼」の中であまりに暮しすぎたし、どうすることもできない習性を負わされているが、それにしても最近とみに顕著になった物憂さは、僕を、すべてのものへの関心から、引きはなしてしまう。僕には、一貫して、何かをやり通す気力がなくなった。

ぼくも他人の眼の中で暮らすことがあったが、これほど重度の物憂さに苛まれたことはないし、無関心や無気力な自分と激しく闘ったことはない。何度もきつい場面に遭遇したが、どこかで考えることをやめる安全装置が働いたように思う。パリなどに長く住むと、日本の特殊性と現実の生活との葛藤を肌で感じるのだろうか。

『食卓は人を詩人にする』 山縣弘幸 (p110)

唇は小さくあけて
舌のおさじで食べる
接吻という名のアイスクリーム
(堀口大學)

うまく表現するものである。アイスクリームがエロティシズムに化けた。官能的とも呼ぶべき食べ物がある。たとえばマドレーヌについて、「その襞につつまれてあんなに豊満な肉感をもっていたお菓子のあの小さな貝殻の形」とプルーストが書いているらしい。かなりきわどい描写だ。ところで、さらに100ページ先には牡蠣の話が出てくる。大食漢バルザックは生牡蠣を百個食べた。それだけで終わらず、仔羊のカツレツ12枚、仔鴨の蕪添え一羽、やまうずらのロースト二羽、舌平目のノルマンド・ソース一皿……などを平らげたという。食は暴力的でもある。

『ホモ・モルタリス 生命と過剰 第二部』 丸山圭三郎 (p35)

 …… 死の不安に怯える動物ホモ・モルタリス(死すべきヒト) ……
本能とは異なるコトバによって〈死〉をイメージ化し、死の不安と恐怖をもつ唯一の動物であるという意味では「人間だけが死ぬ動物」(ド・ヴァーレンス)かも知れない。しかし、同時に、「人間は死への自覚をもって自らを不死たらしめる」(ハイデガー)動物でもあろう。

人間は肉体的に滅んで死す。不安や恐怖に怯えて死す。他の動物と違って、死ぬことを知っているからである。しかし、不安も恐怖も捨て切って死を自覚すればどうだろう。それでも肉体は滅ぶ。だが、概念的には死なない。死と不死を分け隔てるのは覚悟なのか。

『ヴェネツィア的生活』 角井典子 (p40)

 昔々、アラビアの山羊飼いが、赤い木の実を食べ跳びはねている山羊を見つけた。手がつけられず困り果て、近くのイスラムの修道院へ相談に。導師はその実を調べ、生で食べてみると、これがひどい味。そこで試しに煎じて飲むと、苦い味は風変わり。

この導師が、『コーヒールンバ』の出だし、♪ 昔アラブのえらいお坊さんが……の「えらいお坊さん」と同一人物かどうかはわからない。ともあれ、コーヒーとアラブには密接な関係があったのはよく知られた事実である。「カフェなしでは生きられない」という断章からの一節だが、ヴェネツィアのみならずイタリアはどの街でも、カフェなしでは生きられないという趣が強い。ぼくの今のカフェ習慣は多分にイタリアの旅で影響を受けたと思われる。

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岡野勝志(おかのかつし) 1951年大阪生まれ 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター 岡野塾主宰 ヒューマンスキルをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。 マーケティング、コミュニケーションにまつわる企業や人

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