感性と理性

はじめに。よくテーマになる「感性か理性か?」ではなく、「感性理性」。「と」に意味がある。

感覚で認識し、論理で伝える  感性も感覚も一括りにして感性と呼び、理性も悟性も一括りにして理性と呼ぶことにしておく。さて、感性や直観で何事かがひらめいたとしても、それは個人の内なる話である。感性で受けとめた印象や認識は、他者に向けて語り書く時は、印象や認識を論理に転換しなければならない。論理的に考えるから論理的に語り書くことができるわけではない。むしろ、論理的に語ろう、論理的に書こうと努めるからこそ、論理的思考が様になってくる。

論理を身に付けるための出発点は、多分に漠然とした思いである。その漠然とした思いを試行錯誤しながら相手に伝え、分かってもらおうと意識してようやく論理が構築される。一人ではいかんともしがたい。他者を意識しなければ論理に出番などはない。言い換えれば、コミュニケーションの工夫が思考に論理を授けるのである。

客観的ルールで考える習性  この世界にある事物は、ぼくたちの関心や視点に応じて多様な意味を伴って現れる。にもかかわらず、学習や経験を通じて、無意識のうちに「しかるべき客観的観点」が強要される。十人十色の十人一色化という現象だ。

客観的ルールとは定説であり、常識や通念である。ある時、人々が一堂に会して取り決めたわけではない。一般的な結婚式では、知人や友人がはずむ祝儀には全国津々浦々ほぼ3万円が包まれる。根拠はない。主観的に見つめ直して、たとえば4万円にするとか18,000円にするには勇気がいる。

客観的ルールに従っていれば楽だ。いちいち面倒くさく考えなくても済む。但し、ルールに従ってさえいれば、世界を手の内に入れることができると思うのは錯覚にすぎない。

認識から思考へ  左手で対象をキャッチして、それを右手に持ち替え、握り直して誰かに投げる。左手が感じることの作用、右手が考えることの作用。感性と理性の関係、役割の分担はこれに近いと考えられていた。花を見て感じる。自分一人ならもうそれで十分で、ことばにすることもない。しかし、花について考え誰かに伝えようとすれば、概念化が必要になる。カント以前の合理論では、花という誰にとっても同じ客観的存在があって、それを主観的に認識するという考え方だった。

しかし、カントは「対象は知りえない」と言い出して、見方を変えた。コペルニクス的転回と呼ばれるほどの変化だった。花という対象は、人それぞれの認識によってのみ現れると考えたのである。人の主観の枠組みに花という対象のほうが従うという逆転の発想だ。

感性と理性、そして、直観と論理  高度な論理処理をしなくても、感性と直観だけで十分に経験知は積み重ねられる。ある職業分野ではもちろん、すべての仕事の一部は、そのような感性と直観だけの諸感覚だけで対処できている。しかし、いったん言語や概念を用いようとすれば、理性的かつ論理的に考えることは不可避になる。

現実問題として、「経験知となる感性・直観」と「思考源となる理性・論理」は、明確に分別されるのではなく、往ったり来たりを繰り返す。だから、「私は感性人間です」「直観だけで生きています」などと広言するのはよろしくない。人は行き当たりばったりで対象を捉えているのみならず、理性と論理で主観的に認識しているのだから。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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