断編残簡の日々

書くことについて気まぐれに考えて、本ブログでも拙文をしたためてきた。たとえば、二年前の1,000回の節目として投稿した書いて考えるなどがその一例。その中で、「拙く書くとは即ち拙く考える事である。書かなければ何も解らぬから書くのである」という小林秀雄の一文を紹介した。未だ拙く書くことしかできないぼくは、考えも拙いということになる。異論はない。しかし、それでもなお書き続けてきた。まさに「書かなければ何も解らぬから」書いてきた。

書くことによって――少なくとも書かずにいるよりは――自分が何を考えているのかに気づきやすい。腕組みして沈思黙考したり軽薄気味に喋ったりしている時の考えはおぼろげで、自分の考えのくせに摑みどころがない。ところが、書けば少しは明快になってくれる。書きながら、そうか、自分の考えていること、言いたいことはこういうことだったのかと、書く前よりも書いた後に考えの輪郭が濃くなっていることがある。

本ブログは20086月から始め、先月で丸九年になった。そして今日のこの小文が1,200回目の節目になる。自分が何を書いてきたか、もちろんだいたい覚えている。他人が書いた本を再読したくなるように、自分の書いた文章も読み返したくなる時がある。すぐには見つからないが、検索窓にキーワードを入力し、少々苦労してでも探し当てる。数年ぶりに再会する拙文を読んで、稀になかなかいいことを書いているではないかと自賛することもあるが、書き足りぬ不完全な文章、言わば断編残簡だんぺんざんかんを目の当たりにして道の険しさを知るばかり。もとより完全など目指していないが、何かが欠落している。文のみならず、考えも足りないのである。


一文すら書かずに過ぎゆく日々は、何も気づかず何も考えずに消え入るかのようである。だから、気づいたことはとにかく書く。少考したらそれなりに書く。拙い考えでも、書かないよりはいいだろうと思い、ひとまず拙く書いておく。生きるとは、呼吸して食事して働いて遊ぶなどの行為の寄せ集めでは決してない。生きるとは、他者と交わり、環境や季節や諸事・諸現象を感覚することである。ここに気づきが生まれる。気づくのはぼくであって、それは固有の体験だ。古来、高度な理性の持ち主は、気づきや体験を実に丹念に記してきた。

書く行為は文筆・著作の人たちだけの特権ではない。その気になれば、誰もが書くことができる。日々の感覚的体験を思うがまま書ける。ところが、書く人はいつの時代も少数派だ。だからと言って、少数派の習慣が特殊であり例外であると決めつけて退けるべきではない。誰もが吉田兼好になれるし、そのようになるほうが、おそらく生きることは何倍も愉快になるはずである。自分が何を考えているのかをはっきりさせたいのはもちろんだが、固有の気づきや体験を愉快に思うからこそ、書き続けられるのだろう。

文というのは書き始めてから書き終わるまで、思惑通りに綴れることなどめったにない。書き終えてうまく筋が通っていることもあるが、話があちこちへ飛んで乱れているのが常だ。それでも、何も書かずにぼんやりと考えているのとは大いに違う。文字にしてはじめて、考えと表現の間の落差が見えてくる。文と意を一致させること。ほとんど一致することはないのだが、一致させようとして書くこと、それがすなわち考えの深化につながる。考えていることを書いているのではない、書くから考えることができると実感するのである。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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