行きつけの店

昨夜、半年ぶりになじみの蕎麦屋に寄り、ざる蕎麦を注文した。徒歩圏内には名の通った蕎麦屋が数軒あるが、蕎麦はここでしか食べない。実は、ぼくが勝手になじんでいると思っているだけで、店にとってぼくは常連客ではない。十数回ほど足を運んでいるが、月に二、三度という頻度ではない。それどころか、半年や一年空くことすらある。顔を薄っすらと覚えている店員がいるかどうかも怪しい。

タイトルを書いてから、山口瞳に『行きつけの店』という本があるのを思い出した。池波正太郎の『ル・パスタン』にもその類の話が出てくる。行きつけとは気になる表現である。今朝、ドイツ文学者の池内紀の新刊『すごいトシヨリBOOK』が朝刊の広告欄に出ていた。抜き書きに「自分の居酒屋、自分の蕎麦屋を持つ」とある。はたしてぼくに「自分の」と言えるような飲食店があるのか。

働き盛りの二十数年間、接待をする側でもありされる側でもあり、ずいぶん贅沢な店でご馳走をいただいてきた。元々食材や料理に人並み以上に食い意地が張り、強い好奇心があったので、私費でもいろんな店を覗いてきた。今のようにスマホで食事処を事前にチェックすることはなかったから、見当をつけた店に入るのは賭けだった。どちらかと言うと、一見の勘は良いほうで、十軒のれんをくぐったらだいたい八勝二敗という感じである。


昔はジャンル別に行きつけの店がそれぞれ二、三軒あった。複数の店でぼくは確実に常連扱いされていた。今ではほとんどない。広告にあった前掲の本では、歳を取ってこその行きつけの店を「自分の居酒屋、自分の蕎麦屋」と言っているようだが、ちょくちょく行く店で、店主がぼくをよく知っている店は数えるほどしかない。オフィス近くなら、隣りのつけ麺店と二つ通り向こうの喫茶店くらいのものだ。酒がなくて困るタイプではないので居酒屋にはほとんど足を運ばない。自分の居酒屋は過去にもなかったし今もない。

「行きつけの」とか「自分の」とか言えるような店などいらないとずっと思ってきたが、昨夜久々の蕎麦屋に行き、今朝偶然に本の広告を見て、ちょっと考えが変わった。行きつけの蕎麦屋、行きつけの立ち飲み、行きつけのバー、行きつけの食堂……この歳だからこそあってもいいのではないか。周囲にこれといった居酒屋はない。気に入っていたバーは閉店した。おかずを選べるような大衆食堂は消えて久しい。まずは昨夜の蕎麦屋をもう少しひいきしてみようと思った次第である。

いきなり二八のざる蕎麦のつもりが、夜の九時前だというのに先客たちはみんな料理を食べて飲んでいる。釣られるように瓶ビールを注文した。グラスはヱビスだがビールは黒ラベル。あてにはいつもの裏ごしおから。この店でこの一品を所望しなかったことは一度もない。

辛味大根にほどよく刺激され、蕎麦の噛み心地、喉越しは申し分なかった。久しぶりなのに落ち着くのは、心のどこかで「自分の蕎麦屋」と思っているからだろう。大晦日に訪れるだけではもったいない店だと思いながら店を出た。いい夜風が吹いていた昨夜であった。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

「行きつけの店」への2件のフィードバック

  1. 山口瞳の いきつけの店 好きなエッセーですが、酒や肴の美味いのは勿論ですが、自分のスタイルに合うか否か
    いきつけ は主観 常連は店からの客観ですかね。年齢を重ねるといきつけ にしか足が向かなくなります
    冒険しなくなります

    1. 宮崎さん、こんにちは。
      ぼくは常連で賑わう店が苦手だったんです。加えて、的を絞るまでに数をこなしたい人間で、行く店は多いけれど、なかなか同じ店に頻繁に行かなかった。まさに広く浅くという具合。最近はどこに行くか考えるのに疲れてきて、この拙文で書いたような心境に変わってきた次第です。

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