内容と表現の馴れ合い

ずいぶん長い間、情報ということばを使ってきたものだ。まるで呼吸をするように使ってきたから、立ち止まって一考する機会もあまりなかった。実に様々な文脈で登場してきた情報。ぼく自身も知識という用語から峻別することもなく、情報、情報、情報と語ったり書いたりしてきた。但し、数ヵ月前に本ブログの『学び上手と伝え上手』で書いたように、見聞きする範囲では情報という語の使用頻度は減っている気がする。

それでもなお、この語がなかったら相当困るに違いない。見たままなら「情けを報じる」である。「情け」というニュアンスをこの語に込めたのはなかなかの発案だった。一説に森鴎外がドイツ語を訳した和製漢語と言われているが、確かなことはわからない。確実なのは、広辞苑がここ何版にもわたって「ある事柄についての知らせ」という字義を載せていることだ。「知らせ」であるから、知識でも事件でも予定でもいいし、情けであってもまずいわけではない。

情報ということばは多義語というよりも、多岐にわたる小さい下位の要素を包み込んだ概念である。固有の対象を指し示すこともあるが、ほとんどの場合、具体性を避けるかのように情報ということばを使ってしまう。「情報を集めよう」とか「情報化社会において」とか「情報発信の必要性」などのように。つまり、内容を明確にしたくないとき、情報の抽象性はとても役に立ってくれるのである。


先に書いたように、情報は「事柄」と「知らせ」の一体である。内容と表現と言い換えてもいい。ぼくたちが欲しいのは情報の内容であることは間違いない。ところが、情報はオーバーフローするようになった。そして、ここまでメディアが多様に細分化してしまった現在、内容よりも「知らせ方」の意味が強いと言わざるをえない。知らせ方とは受信側からすれば「知り方」である。その知り方を左右するのは、情報を表現するラベルや見出しだ。

こうなると、内容あっての表現という図式が怪しくなってしまう。内容がなくても、表現を作ってしまえば内容らしきものが勝手に生まれてくるからである。情報価値などさほどないがラベルだけ一人前にしておく、あるいは、広告でよく見られるように、同じ商品だが表現だけをパラフレーズしておく。実際、近年出版される本の情報内容は、タイトルという表現によってほとんど支配されているかのようである。さらにそのタイトルが帯の文句に助けてもらっている。

眼が充血したので眼科に行けば、その向かいに耳鼻科の受付。『春子は、春子なのに、春が苦手だった』というポスターが貼ってあった。かつて見出しは『花粉症の季節』のようなものだったに違いない。そして、それは花粉症対策の必要性という情報と乖離することのない見出しだったはずである。ここに至って、本来の医療メッセージが、花粉症に苦しむ女性、春子さんに下駄を預けている恰好だ。これなら『夏子は、夏子なのに、夏が苦手だった』も『冬雄は、冬雄なのに、夏が好きだった』も可能で、これらの表現に見合った情報内容を後から探してもいいわけである。

情報内部で内容と表現が馴れ合っている。そして、ぼくたちはろくでもないことを、目を引くだけの表現で知らされていくのである。ことば遊びは好きだが、情報を伝えるときに表現を弄びすぎるのはいただけない。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

「内容と表現の馴れ合い」への2件のフィードバック

  1. テーマとはズレますが・・・
    ブログに「情けを報じる(ほうじる)」と先生が書かれています。
    私が働く会社の社長が社員にこう話したことがありました。「『情報』とは“情けに報いる(むくいる)”と書いてありますね。何か連絡をいただいた、知らせを受けた、情報を得たなら、それに対し何かをお返ししないといけない。もらいっぱなしはダメ。必ず返信をする、返答をする、何か行動を起こす。そうしてはじめて生きた情報になります。」
    この解釈は、辞書には間違いなくないだろうと思いますが、これを聞いたとき、また今日ブログを拝見してあらためて、『そうやなー』と賛同しました。情報はあふれかえっていますが、情報は集めるものでなく、生かすもの。自分自身が、高い感度と関心、思いを持っていれば、流され、溺れることなく、必要なものをキャッチし、行動、形にしていけると思います。

  2. 土屋さんの会社の社長の「情けに報いる」は、ぼくの論の次のステージの話だと思います。情報は”information”の訳であることは間違いないので、原義は「誰かに何かを伝える」という意味では「報じる」でしょう。情けというのは、おそらく「思い」の言い換えです。だから「思伝」と訳してもよかったかもしれません。もともと”inform”という動詞は「inform+人+of+事柄」という構文なので、誰かを想定して思いや事柄を伝えるという形式を持っています。「誰かに情を伝える」のですね。
    伝えてもらった相手からすると、今度はその情に報いなければなりません。情報の交換です。あるいは対話です。誰かが自分に何かを伝えてくれたのなら、その誰かの情に反応(”respond to”)しなければ、人間関係は成り立ちません。打てば響く必要があるのです。この”respond”から”responsibility”(責任)が生まれました。「反応しようとする責任能力」のことです。これが「情けに報いる」ではないでしょうか。つまり、「情けを報じられたら、次はその情けに報いる」。土屋さんのコメントからぼくは以上のように類推してみました。ハズレかもしれませんが・・・・・・。

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