ストライクゾーン

何人かで集まっていると、ストライクゾーンの広さ狭さの話題が出ることがある。野球に詳しくなくても、たいていの人はこの表現を心得ている。いきなり結論から言えば、守備範囲が何事にも広い人はおらず何事にも狭い人もいない。あることについては広く別のことには狭いというのが人の常である。

居酒屋に入る。「お飲物は?」と聞かれ、「サントリーのモルツ」と注文したら、「すみません、うちではアサヒかキリンになります」。これを聞いて、「じゃあ」と言って席を立った知人がいた。お通しも出ていたというのに……。その知人にとってサントリーモルツが絶対のビールであるかどうかは知らない。お中元お歳暮でアサヒやキリンを頂戴したらきっと飲んでいるに違いない。もしそうなら、嗜好のストライクゾーンはTPOに応じて狭くなることがありうるということだ。

学生時代のこと。まずまず英語を話し聴きもできていたが、ネイティブと出会う機会も少なければCDなどの便利な教材もなかった。まだカセットテープのレコーダーもなかった頃。幸い、わが家にはトランクほどの大きさのオープンリールのテープレコーダーがあったので、NHKのテレビ番組の音を拾って発音練習していた。とは言え、どんな単語の発音も心得ていたわけではないから、おおむね辞書の発音記号に従って間に合わせていた。少々下手な英語でも精一杯理解しようとしてくれたネイティブもいれば、ほんのちょっと発音が崩れるだけで眉間に皺を寄せて「わからん」というジェスチャーをするのもいた。“World”の発音記号は[wə:rld]だが、当時ぼくは[wauld]と発音する癖があった。長い文章を喋っているから前後関係で“world”と言っているのは自明のはずだが、あるアメリカ人のストライクゾーンではボールの判定だった。


「きみは好みの女性のストライクゾーンが広いね」という言い方がある。いつぞや誰かに「ストライクゾーン診断というのがありますよ」と教えてもらい、どうせくだらないだろうと思いながらサイトを覗いてみた。男女関係にまつわる診断項目が並んでいた。「付き合う上で異性に求める条件はいくつ?」 多ければストライクゾーンが狭く、少なければ広いと診断するのだろう。「あなたはお金と愛のどっちを取るか?」 お金なら広く、愛なら狭いのだろう。「これまで様々なタイプを好きになったか?」 イエスなら広いのだろう。「上下何歳差までなら付き合えるか?」 差が大きければ広く、差が小さければ狭いのだろう。直感通り、くだらなかった。

ホテルの朝食ビュッフェではあれもこれもと欲張る守備範囲の広いぼくだが、懇親会の30種類飲み放題メニューを見て、そこまで揃えなくてもいいではないかと思う。食に関してはストライクゾーンが広く、酒に関しては狭いというぼくの嗜好を示している。飲まなきゃ損とばかりに、ビール、芋・麦の焼酎、ワインの赤白、ハイボール、カシスソーダ、モヒート、カクテルなどを飲み干す仲間を見て、ストライクゾーンが広いにも程があると呆れる。

「あなたには器量はあるけれど、度量がイマイチ」と妻に言われた男がいた。器量と度量を並べて男性に使うと、器量は、美貌容姿ではなく、能力を意味し、度量は他人に対する寛容や心の広さを意味する。その妻は「あなたは器が小さい」と言ったのである。器が小さい、つまり、料簡というストライクゾーンが狭い。

熟年になればある種の思想を固めることになるし、思想は持たねばならないと思う。しかし、その思想がガチガチに守勢に入った性質のものになっては、逆に思慮分別に支障をきたす。ぶれない思想を持つ、しかし、つねに異種や対立に関心を向けて、必要ならマイナー修正できる余地を残しておくべきである。なぜなら、思想は時代とともに、あるいは現象や事変によって相対的意味を変えるからである。社会や他者を意識するかぎり、何事も不変のままではなく流転する。思想にもストライクゾーンの広狭こうきょうがある。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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