考えることの正体

考えるということは一筋縄ではいかない。考えると口で言うのはたやすいが、もっと考えようとかちょっと考えてみるかといつも言っている割には、それが一体どういうことなのか、実はよく分かっていない。食べること、出掛けること、趣味に励むことについては考えもするだろう。しかし、考えること自体についてしばし立ち止まってゆっくり考えることはめったにない。そこで、反省を兼ねて考えることについて考えてみることにした。正体が暴けるかどうかは分からない。

考えている時に一つ自覚できることがある。ありったけの分かっていることを起動して、分からないことを探ろうとしている点。既知から未知へと心を馳せている。我を忘れるほど考えることなど年に何度もないが、ある種の結論や判断に向けて一心不乱に考えることが稀にある。知っていることを前提にして、知の枠組みの中で参照できるものを見つけようとする。見つかる保障はない。支えとなるのは、先人たちの一見ありそうもないことを考えてどこかに辿り着いた実績である。不足気味の材料を以て、部分の総和以上の照見へと到ろうとする行為がまさに考えるということのようだ。


考えることは言語による未知の探索である。イメージの役割は想像と言えば済む。思考は想像と無縁ではないが、イメージも何もかもを集約した表現の内において、個々のことばの意味を考え、未だ知らざるものを既知や体験から類推していく過程である。これは面倒であるから、ついついさぼってしまう。しかし、冒険的で魅力のあるおこないである。これを放棄しては、人が人としての生き方を叶えるのは望みづらい。

考えることに関して、その機能の輪郭を明らかにする難しさに比べれば、考えないことは分かりやすい。考えないとは脱言語の状態である。言語不在の時でもイメージを浮かべるかもしれないが、それを考えるとは言わない。極論すれば、思考停止とは言語的行為の停止にほかならない。カフェに手ぶらで入るとする。コーヒーを啜りながら一見考えているようであっても、そこにイメージの言語化が起こっていなければ、店を出てから成果がなかったことに気づく。一冊のノートを携えて、イメージを丹念にことばで仮止めしてはじめて、少しは考えたと胸を張れる。

うわべの言語操作をして考えた振りをすることは可能だ。たとえば、ネット上の情報をコピーしたりペーストしたり、場合によってはシェアするのも、ある種の言語操作ではある。だが、そこに言語脳が参加したかどうか振り返ってみればいい。肝心の自分の脳が言語を機能させていなければ、考えていたことにはならない。では、会話をすればどうか。喋ったり聞いたりすれば言語が動き、必然いくばくかの思考も促される。ところが、音声は長く留まらず、やがて揮発する。と言うわけで、後々になっても読み返せるようにと書くことになる。何かについて書いているかぎり、言語は起動している。そして、巧拙の程はともかく、その時、人は考えているのである。

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proconcept

岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

「考えることの正体」への2件のフィードバック

  1. はじめまして。

    私は今資格試験の勉強中なのですが、その過程で考えるとは一体全体なんなのかという疑問を持ちました。

    自分で考えて(考えるを定義できてないのに考えるという行動をするのは矛盾してるようですが)みるも答えは出ず、
    図書や検索を経てあなたのこの記述に辿り着きました。

    すばらしく簡潔でわかりやすく私自身が求めていた考えるの答えの足りない部分が満たされ、私なりの定義が定まりました。

    ありがとうございました。

  2. 拙い一文をお読みくださり感謝申し上げます。

    基本は知り合いの方々を対象にして書いているのですが、勉強にはなるが理屈っぽいという理由でなかなかコメントをいただけません。コメントをお寄せいただけるのは貴重です。

    ぼくが大仰に書いたこととは裏腹に、断片的に考えることはさほど難しくないでしょう。問題は断片間を横切る論理の線だと思います。ぼくたちが何とかしなければならないのは、点と点をつなぐ思考です。そして、それができているかどうかをチェックするには、自分の考えていることを客観的に眺める必要があるでしょう。論理の線とは客観視して初めてわかります。わかりやすく言えば、ぼんやり系の考えを明快系の考えに昇華することだと思います。

    いろいろと何かないかと考える時、考えを自覚する手っ取り早い方法は書いてみることです。思考的体験の言語的行為化です。ことばにして初めて気づくことがあります。いま自分の脳内で起こっていることを知る唯一の手立ては書くことでしょう。小林秀雄流に言えば、書かなければわからないから書くということです。

    考えて何かがわかるものでもありません。考えることの報酬は案外小さいものです。しかし、わからないことをわかるためのみならず、わからないことを確認するためにも、考えるという、もしかすると無駄な抵抗をしてみなければいけない。書くことはもちろん、読むことも、覚えることも、対話することもすべて考える行為にほかならないと思います。つまるところ、考えるということは固有の自分の確認なのではないでしょうか。

    また覗きに来ていただければ幸いです。

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