物事は知識があれば一応何とか理解できる。しかし、知識だけで実現することはできない。分かっていることを実際にやってみるには知恵や経験の積み重ねが必要になる。一例を挙げよう。小学校低学年の子どもに百円硬貨を示して「これはどんな形?」と聞けば、「まるい」と答える。「硬貨=まるい」は知識だ。次に貯金箱を作らせる。誰一人として豚のお腹や背中にまるい穴を開けようとしない。長方形のスリット(切れ目)を入れる。これが知恵であり、子どもたちがそれまでに何度も見たり手にしたりした貯金箱経験である。
手段はゴールに従属する方法であって、目指すのはあくまでもゴールである。着手するまでは手段とゴールの違いは頭で分かっている。ところが、いったん手段に取り掛かると、ゴールのことを忘れ、手段という行為が主役に躍り出る。そのことで頭がいっぱいになってしまう。誰かにとっての手段が別の者にとってつねにゴールである場合もある。
三色ボールペンを使いこなすことは手段であって、ゴールではない。ゴールは読書することであり、読書から何がしかの情報や考えるヒントを得ることである。三色ボールペンを手に入れた。それを縦横無尽に活用して読書をしようというハウツー本も読んだ。たしかに三色の使い分けに精通したが、ボールペンを使いこなすことに神経を注ぐあまり、読書にはまったく集中できなくなった。読み終わった本のページは三色の傍線で彩られるが、本に書かれていることはさっぱり頭に入らない。知識と知恵の間の断絶は容易に起こり、手段はゴールに対して頻繁に優位に立つのである。
手術は成功しました。
開口一番の医師の一言に患者の家族はほっとし喜んだ。「それで、息子の術後の経過はどうなんですか?」と尋ねた。医師は「手術は成功しました」と繰り返し、こう付け加えた。「しかし、息子さんはお亡くなりになりました」。医師と患者の家族にとっての成功が異なっていることはよくある。
文学大賞を受賞した。
直後、テレビ局や新聞社からひっきりなしに取材の申し込みがあった。時の人にもなった。しかし、その受賞作品を最後に、一切小説が書けなくなった。文学大賞を受賞するのはゴールであった。しかし、小説家人生から見ればその賞は登竜門であり、一つの手段にほかならない。時の経過につれて、手段もゴールも変わる。
会社は儲かった。
いや、儲けすぎたと言ってもいいほどだった。役員は歓喜し、毎夜豪遊した。やがて倫理観が歪み、組織にひび割れが起こり始めた。翌年、会社は倒産した。現代版キリギリスだが、よくある話である。儲けること、利益を出すことをゴールだと見誤ることが多い。それは持続可能な経営を続けるための一つの手段にすぎない。
念願のマイホームを新築した。
働き盛りの世帯主は肩の荷が軽くなったのを感じた。しかし、勤務先が遠くなり、通勤疲れがひどくなり、ローン返済のために残業の日々が続いた。生活のリズムが崩れ始め、家族との会話も少なくなり、やがて家から笑顔が消えた。マイホームは人生のゴールではないのである。狭い賃貸マンションでの四人暮らしには会話があり笑顔があった。
企業理念を策定した。
その企業理念を社長が発表した。翌日、社員全員が辞表を出した。
フランス料理店を予約した。
わくわくして早めに店に入り席に着いた。しかし、彼女が姿を現わさなかった。
日々の生活、仕事、ひいては人生の諸々の場面の、些事から一大事に到るまで、手段とゴールの取り違えや地と図の読み間違いなどの主客転倒がつきまとう。ゲシュタルトの崩壊である。