機嫌が良いこと

久しぶりに入った蕎麦屋でお気に入りの裏ごしおからを注文する。ざる蕎麦の前の一杯のつまみである。箸を動かして口に入れた瞬間、良くも悪くもなかった機嫌が良い方に動く。

オフィスに閉じこもって考え事をする。仕事が前に進まない時、機嫌が悪くなっている。そこで、遠回りかもしれないが手を動かしてみる。具体的には紙の上にペンを走らせるのだ。やがて凝り固まった考えがほぐれてくる。手を動かすという方法は「手法」である。理屈の技法よりも手法のほうが進展の可能性を秘める。腕を組んでいるよりも手を動かすほうが、少しは機嫌が良くなる。

もっといいのは、特別な用がなくても、川辺に行ってしばらく佇んでみることだ。川面に視線を落とし、溜め息か深呼吸か見分けのつかない動作をして空を仰いでみる。晴れていれば木漏れ日に巡り合う。この時、機嫌が悪いはずもない。裏ごしおからに舌鼓を打つのとは違う機嫌の良さ、気分の快さを自覚する。こんなタイミングで知り合いとばったり遭遇すれば、ちょっとコーヒーでもと声を掛けることになる。

誰にも不機嫌な時がある。その不機嫌を他人の前で露わにするのはなるべく避けたい。人間誰しも機嫌にむらがあるのはやむをえないが、それを見せてはいけないだろう。大人だからと言うつもりはない。ただ、明らかに機嫌にむらのある人を相手にしていると精神が消耗する。


無愛想な店主がいる。それが一つの個性になっているのなら、気にならない。無愛想と不機嫌は違うのである。必要以上に愛想を振りまかないが、淡々といい仕事をする一流の職人。それでまったく問題はない。機嫌が良くなくてもいい、悪くさえなければ。

こんな話を聞いたことがある。一時間以上も待たされた後に店に入り、うまい寿司を食った。しかし、店主はずっと不機嫌だったらしい。愛想も悪く機嫌も悪い。それでよく長蛇の列ができるとは不思議だが、それを受容する客がいるのも現実だ。店主は変人でも頑固でも無愛想でもいい、しかし、不機嫌がこっちにまで感染してはたまらない。不機嫌とうまさを天秤にかけたら不機嫌の方が重すぎると知人は感じた、そして二度と行かないと言った。

泣きそうな表情もだめだ。いつも暗い顔して負け犬のような生き方をして何が楽しいのか。人は勝ち続けられない。だから負ける。負けるのは非常事態ではなく常態だ。負けてへらへらと笑う必要はないが、暗い表情を浮かべることもない。もちろん、体調が悪くてつい顔に出ることがある。そんな時は人に会わなければいい。もし会うと覚悟したのなら、何があろうとも機嫌良く振る舞う。にこりと愛想することはできなくても、せめて機嫌だけを安定させる。

愛想とは「人あしらいのよいこと」であり、愛嬌があって、親しみやすさがあること。愛想がない、つまり無愛想でも許容できることがある。他方、機嫌が良いとは気持ちや気分の良さである。たとえば上機嫌と言うように。しかし、別に「上」でなくてもいい。気分が、機嫌軸の悪い方にではなく、少しでも良い方に振れていればそれで十分なのだ。最近、機嫌の良し悪しをテンションの高低と勘違いする向きがあるが、テンションが度を越す連中と一緒にいると、こっちの方の機嫌が悪くなる。独りよがりなハイテンションを機嫌が良いなどとは言わないのである。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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