賞賛と批判

プレゼンテーション、ディベート、企画コンペなどの審査員として年に何度か出番がある。公的な性格のイベントもあれば、私的な会合の場もある。利害関係があろうとなかろうと、一切忖度や贔屓をせず、また先入観にもとらわれず、内容と説明だけを勘案するように努める。忖度や贔屓、先入観を抜きにして評価をするのは難しい。だから、強く意識して「努める」。

異業種交流会などの企業プレゼンテーションでは、仲間が発表者の準備努力を知っているので、心情を汲み取って辛口コメントを控えがちだ。実際は内容にも大した見所がなく発表も拙いのだが、主催者や同志が表立って批判することはめったにない。異口同音にねぎらい褒めるのである。歯に衣着せず批判するのはゲストとして招聘されているぼく一人ということがよくある。よほどのことがないかぎり、出来が良くなければぼくはお世辞で褒めない。まずい箇所を指摘し、今後の改善努力を促す。とことん硬派である。

褒めるの対義語は「そしる」や「けなす」。響きはよろしくない。褒めないからと言って、別に謗ったり貶したりするわけではない。そんな否定的な責めをしても、成長は望めないからだ。褒めるを「賞賛」と言い換えれば、「批判」という対義語が浮かび上がる。良ければ賞賛し、かんばしくなければ批判する。ここに何の問題もないはずだが、人間関係だの言いづらさだのがあって、批判の場面はめっぽう少ない。賞賛と批判。賞賛のほうが批判よりも上手な人間関係を築くという考えがあるが、説得力のある根拠はない。


上司や周囲の人たちがあなたを褒める。あなたは別にファインプレーをしたわけではない。ふつうに仕事をして、その出来も目を見張るほどのこともない。それを自覚していても、褒められて気分が悪いはずがない。こうして60点程度なのに、あたかも80点くらいの過分な評価を受ける。これにすっかり馴染んでしまったあなたはよほどのことがないかぎり、現状に甘んじる。

さて、そんなあなたが、出向いた顧客先でこっぴどく叱られるとする。理不尽な仕打ちではなく、あなたの仕事ぶりが期待外れだったことに対する当然の指摘である。しかし、批判されることへの免疫をすっかり失ってしまったあなたは、批判される辛さに耐えられない。褒めることを推奨し、自らも他人を褒めることを実践している人たちは、こんなに落ち込んだあなたの面倒まで見てくれない。彼らは当事者ではないから、深く関与できないのである。あなたの落胆ぶりを見て、彼らができること。それは、励まして再び褒めることでしかない。

褒められることに慣れたあなた。先輩や仲間内に信じられ面倒をよく見てもらっているあなた。早晩、あなたは褒めが「褒め殺し」の一変形でもあることに気づく。褒める人たちの誰もが誠意の人とはかぎらない。楽だから褒めている人もいるのだ。褒める人たちが賞賛の責任をどこまで負ってくれるのか、はなはだ疑わしい。むしろ、批判の内に見落としてしまいがちな思いやりと寛容に目を向けるべきだろう。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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