遠くの記憶と近くの忘却

五十歳前後になってから記憶が衰えたという話をよく聞く。実は、五十歳という数字に特別な根拠があるわけではなく、これは四十歳前後にも、場合によっては三十歳前後にも当てはまる。どうやら「昔に比べて現在の記憶力が低下してきた」という意味らしい。

考えてみれば当たり前のことである。いつの時代も昨日の情報よりも今日の情報のほうが多く、十年前と現在を比較すれば、情報量の出し入れには天文学的な差がある。仮に記憶力や記憶容量が一定であっても、記憶すべき情報だけは増える。どうしても記憶が情報に追いつかない事態に遭遇する。それゆえに、相対的に衰えた気がするわけだ。

何度も繰り返し見聞したことは記憶域の深いところに入る。だから、十年前や二十年前の思い出はしっかりと刻印されている。ところが、昨日や今日接した初めての情報は記憶域の浅瀬にとどまっている。繰り返しがなければ、すぐに揮発してしまう。


「昔のことほどよく覚えていて、最近のことはすぐに忘れてしまう」という現象は、どの世代にも共通するものだ。たとえば、時代が「平成」であるとしっかり認識していても、今年が十九年か二十年かをふと失念する。あるいは、何度も通院した医院の名称と場所は覚えているが、何の具合が悪くて今朝この病院へ来たのかを思い出せない。

仕事柄、同年代の友人知人に比較して記憶力はすぐれていると自負するぼくも、数分前に何かしようとしたことをどうしても思い出せないことがよくある。数時間してから、それが「目薬をさす」ことであったと知る。たいていその時点で目薬の必要性はなくなっている。

対策はただ一つである。新しい事柄に出合ったら、その時点ですぐに記憶域の底辺に刷り込むことだ。思い立ったが吉日、すぐにしっかりと記録し記憶する。できればアクションも同時に起こしておく。後回し・先送りは絶対しない。気に入った新聞記事はその場で切り抜く。後で切り抜こうとサボったら、記事の内容を忘れることはもちろん、切り抜こうと思ったことすら忘れてしまう。

記憶と繰り返しの関係は密接だ。繰り返し、すなわち「習慣形成」こそが末永く精度の高い記憶力を維持する絶対法則である。

ズボンのジッパーの閉め忘れなども習慣形成で防げる。トイレの直後、椅子から立ち上がった直後、歩き始めた直後に反射的にベルトのバックルに手をあてがう癖をつける。そしてジッパーのつまみに接するよう小指の先を伸ばす。そこにつまみがあればオーケー、つまみがなければヤバい。他人には、ジッパーをチェックしているようには見えないから好都合である。

但し、言うまでもないことだが、ベルトに手をあてがうのを忘れてしまってはならない。腹部のあたりに手をあてがうことは忘れなかったが、そこにあるべきベルトがなかったというのは論外である。 

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proconcept

岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

「遠くの記憶と近くの忘却」への2件のフィードバック

  1.  記憶の衰え、まったく人ごとではない話です。
    <自身の笑えるエピソード1>
    平成19年か20年かの逡巡とかは可愛いもので、以前、銀行の正式文書に平然と平成16年とか書いてケロッとしていたことがありました。後から考えるとアホな、と笑えるんですが、その時には疑いもなく記入していましたからね…。
    <自身の笑えるエピソード2>
    俳優の名前にも特に弱いスポットがあって、ソフトバンクのCMでもお馴染みのキャメロン・ディアス嬢の名前が(顔はしっかり覚えているのに)なぜかキャンディス・バーゲン姉御となって口から出てしまうんです(ぜんぜん似てないのに!)同年代と会話してるとなんとか話が通じて笑い話になるのですが、今や若者でキャンディス・バーゲンを知っている者など皆無。オチさえもつかず、一人寒い状態に。
     これらの例など、記憶域に刷り込む際にバグを取り込んだのか、ショートサーキットを起こしたのか。頭も、PCも、やっぱり高性能ハードディスクを積まないとダメか…。

  2. 残念ながら頭は今さら取り替えることはできない。仮に取り替えることができても、誰も下取りしてくれなかったりして・・・・・・。もっとも手軽なのは外部記憶装置としてのメモ帳なのでしょう。自身の笑えるエピソードの両方に共通するのは集中力の欠如。慣れ親しんだ事柄ほどよく忘れるのは油断するからだと思います。

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