続・賞賛と批判

ぼくの周囲にも「褒め上手」がいる。中には、人間関係のため、ひいてはそのほうが自分が楽だからという理由だけで褒めている人もいる。決して他人の行為や能力、仕事ぶりをつぶさに観察しているわけではない。「いいですねぇ」を機械的に連発したり平凡な成果に過剰反応したりと、かなりいい加減である。賞賛とはほど遠い、形式的な辞令であることがほとんど。ゆえに彼らの賞賛を真に受けてはいけない。

構成メンバーがお互いに褒め合う集団を想定してみればいい。のべつまくなしに褒め合うのだから、暗黙のうちに「合格ライン」が低く仕切られている。甘く点数をつけ、またつけられることに慣れてしまうと、辛い点数がつけにくくなり、また受け入れがたくなってしまう。これではごっこ集団である。ぼくの知るプロフェッショナル集団は点数の水増しをしないし、批判すべきところを賞賛にすり替えるようなことはしない。

賞賛と批判を「信と疑」に置き換えれば、おおむね信が疑よりも受けはいい。信じる者は必ずしも救われないし、懐疑する者がいつも否定的とはかぎらないが、一般的には疑うよりも信じるほうが良さそうな風潮がある。懐疑や批判が出てこない組織や社会はリスクマネジメントに問題を抱える。組織の潤滑性を重視しても問題が解決するわけではない。先送りした批判のツケはいずれ回ってくる。ツケの弁済に追われる頃には、競争力を失うことになる。棘を無視しても棘は残る。棘は早めに抜くに越したことはない。


褒めるという道理だけではいかんともしがたいのである。賞賛に批判は含まれない。しかし批判の後には賞賛もありうる。大は小を兼ねるに従えば、批判こそが大で賞賛が小ということになる。誤解を招かないように書こう。批判というのは、当面の対象に対して「あるべき姿」を想定してこそ成り立つ。それはあくまでも一つの代案に過ぎないが、その代案によって検証するには真摯さと覚悟が必要なのだ。あるべき姿を思い浮かべながら、対象を検証する。批判は検証であって、非難や破壊ではない。なぜなら、検証をくぐり抜けたら合格の判を押すからである。

問題解決への意欲があるからこそ、批判と検証をおこなうのだ。問題解決を諦めてない証拠である。自己批判と自己検証も同様である。それが甘くなれば、どこかの大企業のようにデータの捏造が平然とおこなわれる。問題を要素に分けて丹念に検証し、厳しくふるいをかける。その結果、合否を判定する。10項目のうち7つをクリアして合格とする場合もあれば、全項目クリアしなければ合格にならない場合もある。一つクリアしただけで良しとするのが節操のない褒めまくり体質の特徴だ。

褒めることを過剰に推奨する風潮に批判を加えてきたが、褒められて有頂天にならず、さらなる努力につなげる人もいるが、褒められるとひとまず自己満足してしまうのが常だ。「絶望的な仕事に見えても、いきなり批判せずに、まずは褒める」と言った大企業の部長がいたが、褒めた後に、いつどのタイミングで批判に転じるというのか。何とかハラスメントにならぬようにと自己保身する無責任もはなはだしい。面倒を見るという責任が負えるからこそ批判ができる。そして、批判の毒気をやわらげるためにユーモア精神を忘れてはいけない。

投稿者:

アバター画像

proconcept

岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です