ことばが陳腐にならないように努めて意識するようにしている。語彙不足だと同じ表現を使うしかない。その時、思いとことばが乖離し、とてももどかしい。その表現で手を打っていていいのか。以前、次のような文を書いた。
美しい花を見て「美しい」と言い、青い空を見上げて「青い」と言うのが真っ直ぐな心の表われだとしても、美しいや青いで済ませているのはある種の怠慢、あるいは対象とことばの馴れ合いではないのか……
美しいとか青いと言う以外に候補がないのならやむをえない。しかし、どの花にも美しい、いつの空にも青いと言えてしまうなら、感覚の機微が大雑把ということになりはしないか。いや、感覚の機微はことば以上にデリケートなはず。しかし、その機微に見合った表現ニュアンスを持ち合わせていなければ、いかんともしがたいのである。
ぼくたちはある対象だけを、対象と自分だけの関係においてのみ、純粋に感じているのだろうか。一切の雑念を無にしてそこに佇んで向き合っているのだろうか。そんなことは不可能な気がする。すでに知っていることばが介入して、ことばで感覚を処理しているのではないか。美しいとか青いということばを知らなければ、実は対象もそのつどの感覚で捉えることができないと思うのである。
「秋が深まった」。秋本番を感じたからそう言ったのか。いや、そればかりではないだろう。秋ということばや長年にわたって刷り込まれてきた概念がそう言わせているのではないのか。秋と言うだけでは物足りない時がある。秋口や初秋や新秋に夏の疲れを忘れ、次いで仲秋や涼秋に入って秋たけなわを堪能し、やがて晩秋を迎えて行く秋を惜しむ。肌だけで感じるわけではないだろう。表現が大いにそういう感覚を鋭敏にしているはずである。
初めて訪れた場所を、「まち」「町」「街」「都市」のいずれで表記するかによって感覚は変わる。その場所に脱言語的に接するよりも意味が変化するかもしれない。同じものを見ていても、それを言い換えてみて違ったものが見えてくる。ことばの言い換えが、場や対象を陳腐化させず、新鮮な印象を刻んでくれるのである。