小題軽話(その6)

記憶力について  知を動かすのは記憶である。ここで言う記憶とは、覚えることではない。覚えたことを思い出すことである。どんなに体系的に学んでいるつもりでも、ぼくたちの記憶は「点」を基本にしている。脳は点まみれなのだ。いつどこで誰と会うかなどは点記憶である。点を思い出すのは基本の基本だが、脳は勝手に点どうしを結んでくれないから、意識を強くして点と点を結ばなければならない。その時にはじめて知が動き始める。

一つの点記憶だけでは不足感がある。この点に何を足せばいいかと脳内検索をする。検索するには記憶しておかねばならない。微かな記憶であっても、記憶していれば点と点はつながる可能性がある。忘れないようにとノートに書く、PCに取り込む。しかし、書いた事柄やファイルのラベルを特定できなければ話にならない。加齢にともなって記憶は徐々に衰える。一般的には四十代後半から劣化が著しくなる。歳を取って記憶力を失速させてしまうのは、知を動かす上で致命傷になる。足腰も気になるが、記憶はもっと重要なのである。

読書の愉しみ  健康のために散歩する人がいる。はじめに目的ありきだ。行為である散歩が目的に従属する。目的が意味を失えば、当然手段は無用になる。と言うわけで、散歩という習慣はおおむね挫折する。読書もこれに似ている。書いてあることを学ぼうという意識が強くなると、読書は手段と化す。手段になった読書は、経験的には苦痛以外の何物でもなくなる。

本が好きだ、読むのが愉しいという単純な動機でいいのである。この動機付けによって、本を読んでいろいろと学び、教養も身につき、関心の強いテーマが徐々に明確になる。その分野の知が深まれば愉しくなる。これが自然の流れ。この流れに逆らって苦痛を感じてまで本を読むことなどさらさらない。さっさと快いことに向かえばいい。世の中には読書以上に愉しいことはいくらでもあるのだから。

「自」のこと  自という文字をじっと見つめていると不思議な感覚に陥る。それは「白」ではなく「目」でもない。「自ずから」と書けば「おのずから」と読み、「自ら」と書けば「みずから」と読む。これに別の漢字が一つくっついて数え切れないほどの二字熟語が生まれた。

自分、自力、自然、自立、自動、自慢、自信、自我、自由、自律、自発、自業、自得、自暴、自棄、自在、自体、自主、自覚、自前、自首、自論……。

辞書に頼らずとも、いくらでも並べられそうな気がする。ひょいひょいと二字熟語を生成できるが、自ずからであれ自らであれ、あるいは別の意味に転じたとしても、概念も行為も手強いものばかりである。

浮くスローガン  スローガンが大好きな人や組織がある。「チャレンジ」「希望」「未来」「夢」「ふれあい」などのことばを含むスローガンがあちこちで目につく。政府や企業や地方自治体にもスローガンを多用する向きがあるし、小さな任意のグループも例外ではない。

真っ白い紙にこうしたスローガンを書けば、少なからずわくわくするのだろう。ある種の快い緊張感をもって清新の気を漲らせて筆を運んだ様子が想像できる。しかし、時は過ぎて初心の思いがやがて薄らぎ、スローガンの文字はメッセージ性を失う。陳腐な表現だけがぽつんと浮いて見向きもされない。これではいけないと学習すればいいのだが、性懲りもなく別のスローガンが次から次へと安直に掲げられることになる。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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