学学

読書の方法について、図書館の活用法について、あるいは文章の綴り方や推敲のやり方について、きちんと教わったり学んだりしたことがあるか? コミュニケーションすることについて――そのために必要な読み書きの技能について――国語の授業はいったいどれほど有効なヒントを与えてくれたのか? 

しかも、こうしたリテラシー一般に関して、誰かが教えてくれないのなら、自分で試行錯誤して技能を身につけようと一念発起した人がどれほどいるだろうか? ほとんど誰もがそれぞれの生きている「ことばの環境」の中で成り行きのやり方で、さほど工夫もせずにやりくりしてきたにすぎないと思われる。「学ぶことについての学び」と真剣に向き合ったことなどまずないのである。

学び方の学びのことを、ぼくは〈学学まなびがく〉と命名して、社会人に遅まきながらも実践するように推奨してきた。ずいぶん前に本ブログでも『学び学でリテラシーアップ』と題して書いたこともある。リテラシーとはおおむね「読み書きの技能」である。しかし、読み書きの技能は読み書きだけを目的としない。言語を高度に運用するために、ひいては思考力を高めるために、読み書きの効用を再考すべきだと思う。


何事であれ、最も成果を生みやすい習慣ほど地味である。但し、並大抵ではない継続と集中を要する。自分の仕事でそれが想像しにくければ、好きなスポーツの一流選手の練習ぶりを見ればわかりやすい。ありていに言えば「コツコツとハードワークをこなしている」。自分の仕事がそれを必要としないのなら、程度はたかが知れている。もっともリテラシーのことなど放っておくという生き方の選択肢はあるかもしれない。

しかし、リテラシーを放置していては言語生活は豊かにならない。たいていの大人はことばを第二の天性として鍛錬することに怠慢になっている。実は、ぼくたちが抱える諸問題の大半はリテラシーの強化によって解決することができるのだ。仕事上の業務や課題はある意味で言語的なのである。うまくいかない理由のほとんどがリテラシーの機能不全に関わっている。

自然流ではいかんともしがたいのである。本を読みながら、ノートを書きながら考えるという習慣を意識的に続けないかぎりリテラシーは高度にならないし、それどころか、加齢によって劣化するばかり。どうすれば上手に学べるかという方法を教わるか、もし教われそうにないのなら自ら編み出さねばならない。

日々揮発していきそうな諸々をノートに綴ってみる。本に書いてあることを覚えようなどとせずに、何度も読んで自分の知識や経験と刷り合わせる。気に入った文章を音読しながら意味や主題を考える。こういう習慣の繰り返しによって、語感が鋭敏になり構文が作れるようになり、やがて思いとことばがつながってくる。リテラシーの強化は練習に比例する。驚くようなノウハウの練習ではない。一日三度の食事のように、普通の行いを集中して継続するだけである。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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