「時間をかける」と「時間がかかる」

 「世の中は澄むと濁るで大違い」などと前置きすることば遊びが懐かしい。ここでの濁るは「濁点()」のつく濁音のこと、澄むは濁点のない清音のことだ。最初に覚えたのが「刷毛(はけ)に毛があり、禿(はげ)に毛が無し」。あまりにもよく知られている。他に、「福に徳あり、河豚(ふぐ)に毒あり」というのもあった。調子もあって、なかなか粋である。

 たった一字の助詞をいじるだけで、全体の文意が大きく変わる。実話らしいが、ある女性に「私とA子さんとどっちがいい?」と聞かれた男性が、「お前いい」とつい言ってしまったとか。ここは「お前いい」でなければいけなかった。「お前いい」も少々場違いだし、「お前いい」となると不幸の二択に迫られて我慢している心境になってしまう。

 「時間をかける」と「時間がかかる」も、格助詞の一字変更で意味が大きく変わる。たとえば「手料理に時間をかけた」の場合、「を」の一字によって、「かける」という動作の対象に意図的に時間が置かれることになる。「手料理に時間がかかった」なら、時間を要してしまったのは成り行きという意味になる。ともかく、たった一字、「を」が「が」に変わるだけで、意図的な行為が成り行きの状態に転じてしまった。

☆ ☆ ☆

 数年前にコーヒーの苗木を一本買って帰ったことがある。あいにくぼくの自宅のベランダは北向き。「室外だとダメですが、室内の暖かい場所なら育ちますよ」と店の人。「ほんとうに育つの?」と聞けば、「上手に育てていただければ・・・・・・」と言うから、どのくらいでコーヒー豆が収穫できるのかと尋ねた。コーヒーカップを口に近づけるジェスチャーをしながら、「数年くらいで、この苗木一本でコーヒー一杯分」という答えが返ってきた。ギャグか真実か判断しかねたが、苦笑いしながら買った。

 茎も葉も三年間ほど大いに成長したが、ある日を境に枯れ始め、見るに耐えなくなって葬ることにした。むろんコーヒー豆の焙煎どころか、実すら見ていない。この苗木において「時間をかける」と「時間がかかる」はほとんど同義というか、完全に両立した。一人前になるのに年月がかかる。そして、それを見守り面倒見るのに年月をかける。時間がかかることには時間をかけねばならない。

 桃栗三年、柿八年は自然の作用だから、果樹の成長にぼくたちも付き合う。だから「時間(に象徴される手間暇)をかける」。しかし、このことを一般法則化するわけにはいかない。お分かりのように、時間がかかることには、自然的なものと人為的なものがあるのだ。本来三日でできそうな仕事に一週間かかったことを、時間をかけたとは言わない。下手くそゆえに時間がかかってしまったのだ。油断すると、仕事は時間を食う。つまり、「仕事に時間がかかる」。つねに自らが主体となって仕事をしていくためには、しっかりと時間をかけることができたか、それとも何となく時間がかかってしまったのかを、仕事が一段落するごとに評価しておくのがよい。

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岡野勝志(おかのかつし) 1951年大阪生まれ 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター 岡野塾主宰 ヒューマンスキルをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。 マーケティング、コミュニケーションにまつわる企業や人

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