生真面目な話が生真面目なスタイルで語られ綴られる。それなりに響いてくることもあるし、「なるほど」「そだねー」と納得できることもある。もちろん、退屈させないようにと気配りして、生真面目な話を愉快な調子で伝えることもできる。やり過ぎては逆効果になるが、生真面目なテーマとユーモアの味付けがうまくいくことがある。
安定して笑いを取るには経験と場数が必要だ。笑いの匙加減は微妙なので、大いに注意を払わねばならない。笑ってもらえれば何だっていいというわけにはいかないのだ。爆笑や大笑いもあれば、エスプリ系の抑制のきいた笑いもある。顔色一つ変えずに胸の内だけで微笑みたくなるような笑いがある。そういうセンスのよいユーモアは好みであるが、めったに見聞きできないし、自分でも披露するのに苦労する。
大阪に生まれて暮らしてきたぼくの周辺には「おもしろい人たち」が少なくない。しかし、彼らのほとんどが笑いを取ることに意識過剰である。笑いのテイストにはさほどこだわらず、ひとまずウケようとする。いや、プロの芸人でもないのに、「笑いを取らねばならない」という、変な責任感を持っている。仲間の講師にもつかみとオチを考えるのに熱心なのがいる。
ジョークなどは地の文と会話文を絶妙に織り交ぜてストーリーを演出する笑いだ。仕込みと計算は欠かせない。何よりもきちんと覚えておかねばならない。ギャグやダジャレは違う。ストーリー性のない瞬発力勝負のことば遊びであり、おおむね即興でその場で生まれる。ウケたからと言って、性懲りもなく繰り返しているとマンネリズムで色褪せる。醤油が出てきたら、決まって「しょうゆうことです」と言うのがいるが、もううんざりである。
今まさに作られた場当たりのギャグやダジャレは少々出来がお粗末でも、即興性に値打ちを見い出してあげたいと思う。おもしろくてもおもしろくなくても、場を和ませ会話を滞らせたくないという思いは理解できる。即興なら少しくらいすべってもいい。しかし、計算をして仕込み、ウケようとした笑いはすべってはいけない。大阪ではポスターの標語などに笑いを仕掛ける傾向がある。「笑いを取らねばならない」という意識は、生真面目で公共性の強いテーマにも滲み出てくる。
ダメのことを大阪弁で「アカン」と言うが、ダジャレとしてよく公的なスローガンでも使われる。「痴漢はアカン」や「捨てたら、あ缶」などだ。そしてついに、練りに練ったと思われるポスターが登場した。「迷惑たばこは アカンずきん。」 初めて見た時も今も一度も笑わせてもらっていない。かと言って、呆れ果てているわけでもない。「笑いを取らねばならない」という制作者の思いが汲めるからだ。しかし、練りに練った割には、うーん、これしかなかったのかという気分である。