蔵書と読書の関係

自宅の数千冊の蔵書をどうするかは数年来頭の痛い問題だった。ようやく解決のメドが立った。オフィスの一室を「書斎」兼「公開勉強室」兼「セミナールーム」に改造することにしたのである。現在、別注した書棚の取り付け工事の真っ最中。書棚用の板の数、80枚余り。職人さん二人で丸3日かかる。

言うまでもなく、本の数と読書量は比例しない。ある程度熱心に読書をしている時には本が読書行為の後を追う。しかし、読書習慣がなまくらになってくると、読みもしないくせに本だけを買う行為が先行してしまう。必然読まない本がどんどん増える。本を買うのも読書行為の一部なのだと自分を慰めることになる。

蔵書について考えるとは読書について考えることである。「読書? そんなの、本を読むことに決まっている」と言えれば簡単だが、「定義される用語が定義することばの中に含まれてはいけない」というパスカルの説に従えば、この定義はルールに反するのでアウト。「読」ということばが使われているからだ。とは言え、このような厳密な法則を徹底すると、権威ある辞典類の大半の定義は成り立たなくなってしまう。


読書とは「本の体裁に編集された外部の情報と、自分のアタマの中に蓄えられている内部の知識を照合すること」。ぼくが以前試みた定義だが、生真面目に過ぎるだろうか。この中の「照合」がわかりにくいかもしれない。広辞苑によれば「照らしあわせ確かめること」。えらく差し障りなく定義するものだ。そのくせ、さきほどのパスカルの法則には堂々と反している。

いろいろと考えを巡らしたが、やはり読書している時には本の情報と自分のデータベースを重ねようとしていると思う。重ならないなら、取り付く島がないほど難しくて面倒見の悪い本か、自分のデータベースが貧弱すぎるかのいずれかだ。たいていの書物と読書家の知識は、程度の差こそあれ重なる。重なる部分を確認したり記憶を新たにしたり、本に攻められて一方的に情報を刷り込まれたり、何とか踏ん張って持ち合わせの知識で対抗したり、コラボレーションしたり完全対立したり、好きになったり嫌いになったり……。照合とは、縁の捌き方でもある。

ともあれ、蔵書を収め公開する場は確保できた。しかし、このこと自体はそれ以外に何も意味しない。読書というものは、誰にでも同じ効能を約束してくれないし、読みさえすれば賢くなるというのも間違いだ。他人の頭から何かを学ぶよりも、自らの頭で文章を紡ぐほうがよほど思考の糧になる。書くという習慣の下地あってこその買って読む効能なのである。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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