時間と時計

時計を見る。「今が午後7時」であることを知る。別に何時でもいい。なにげなく見る。癖のように見る。毎日何度も時計を見る。いったい何を確認しているのだろうか。数字を見て時の流れに印を付けているのか。はたして時計は時間の象徴なのだろうか。

今週、時間をテーマにした書物を十数冊オフィスに運びこんだ。並べているうちに、再び「時間とは何か?」という難問に襲われた。脳に何がしかの異変が起こるのを感じる。脳のキャパシティ以上の難しい命題を抱えこまないほうがいいと思うが、若かりし頃はその方面の思考に入れ込むことが少なくなかった。そして、宇宙や人生以上に悩まされたのがこの時間という概念である。しかも、宇宙や人生と違って、時間を意識することなしに日々は過ごせない。

時間は曲者である。歴史上の錚々たる哲学者――カントもフッサールもハイデガーも――時間の不思議を哲学した。さらに遡れば、古代ギリシアのヘラクレイトスが「時間が存在するのではなく、人間が時間的に存在する」と言った。少し似ているが、「人間が存在するから時間が存在する」とアリストテレスも考えた。そして、時間特有の自己矛盾のことを「時間のアポリア」と名づけた。アポリアとは行き詰まりのことで、難題を前に困惑して頭を抱える様子を表わしている。それもそのはず、時間という概念は矛盾を前提にしているかもしれないからだ。

〈今〉はあるのだが、〈今〉は止まらない。感知し口にした瞬間、〈今〉はすでにここにはない。では、いったい〈今〉はどこに行ってしまったのか。それは過去になったと言わざるをえない。では、過去とは何なのか、そして未来とは何なのか……という具合に、次から次へと懐疑して苦しむことになる。ぼくたちは途方に暮れるまで考えることなどさらさらない。疲れた時点で思考を停止すればよい。だが、世に名を残した哲学者たちはこの「臨界点」を突き進んだ。思考のプロフェッショナルならではの一種の意地ではなかったかと思う。


未来に刻まれる時間を感覚的にわかることはできない。未来を見据える時と過去を振り返る時を比べたら、後者のほうが時間を時系列的に鮮明に感知できる。その時、時間は〈今〉という一瞬の連続系だと思われる。〈今〉という一瞬一瞬が積まれてきたのが現在に至るまでの過去。過去を振り返れば、その時々の〈今〉を生きてきた自分を俯瞰できるというわけだ。

もちろん、感知できている過去は脳の記憶の中にしかない。記憶の中で再生できるものだけが過去になりえている。記憶の中にある過去に、次から次へと旬の〈今〉が送られていく。時間の尖端にあるのは現在進行形という〈今〉。それは一度かぎりの〈今〉、生まれると同時に過去に蓄積される〈今〉である。ぼくたちは、過去から現在に至るまでの時間を時系列的に感知しながら生きている。記憶の中にある過去は体験されたものばかりではない。知識もそこに刻まれている。

人生における〈今〉は一度しかなく、誕生と同時に過去になる――これはまるで「歴史における人生」のアナロジーではないのか。こう考えてみると、月並みだが、時間の価値に目覚めることになる。いや、煎じ詰めれば〈今〉の意味である。つまらない〈今〉ばかりを迎えていると、記憶の中の過去がつまらない体験や情報でいっぱいになる、ということだ。

時間は時計を通じて体感するものとはかぎらない。時計と時間は切っても切れない関係にあるようだが、もしかすると、似て非なるものどうしなのかもしれない。時間は時計の針のアナログ性あるいは数字のデジタル性では説明できない何かのような気がする。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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