考えることを再考する

完全オフ予定の昨日、急ぎの依頼があった。日本語から英語への翻訳である。翻訳と一言で片付けられればいいが、原文の完成度が低ければ翻訳以上の作業が求められる。文章量の調整、文体の統一、翻訳不能文の割愛または言い換えなど、作業は編集にまで及ぶ。一から自分で日本語を書いて英語にする、あるいはヒアリングしながら直接英語を書くほうがよほど楽なことか。

テーマの難易度はさておき、考えることの裁量の大きい・小さいが決定的な意味を持つことがある。たとえば、このブログは誰かから強制されて書いているわけではない。主題を気まぐれに拾い、いや、場合によっては、主題などなく書き始めるから、たとえ小難しい話であっても何を考えるかという裁量は大きい。別の言い方をすれば自由度は高い。うまくいかなければ書かなければいいし、話を変えてしまえばいい。

若い頃に従事していた英文コピーライティングは難易度は高いが、裁量は大きい。これに比べて、翻訳は、難易度は様々だが、間違いなく裁量が小さい。つまり、多かれ少なかれ原文のスタイルと意味に縛られる。原文をある程度裏切ることが名訳の条件であるとよく言われるが、そんな高尚な考えが翻訳依頼者の誰にでも通じるわけがない。したがって、泣く泣く訳のわからない原文に分け入って裁量なきありさまで翻訳作業に打ち込むことになる。


たとえ難しくても裁量の大きい思考作業ではさほど疲れず、易しくても裁量の小さい思考作業はかなり疲れる。翻訳がいかにデリケートであるか、この国ではよく理解されていない。翻訳者への気配りもなく、訳すことなどGoogleでもできるではないか程度に思っている。ゆえに報酬も労力や工夫に見合わない。

仕事で考えようとして考えられない状態の時に突然の依頼があって、そっちに頭を使ってしまう。無事終えて、ああ疲れた、もう考えるのはやめようと決心すると、ふと考え始めたりする。「ふと考えてしまう」……結構なことではないか。考えなければいけないのにまったく考えられなくて困っている人が多いのだから。

問題は、考えなくてもいいこと、考えても仕方のないことばかりに関心が向いてしまうことだ。あるいは、今回の翻訳のように、厳としてそこに変えることのできない原文があって、考えたとしても考えたことがうまく反映できない場合である。日々の仕事や生活を振り返ってみてつくづく思うのだ、まことに考えなければならないことに向く注意はいつも大したことはないと。

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proconcept

岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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