ハンコ売りのおじさん

忘れた頃にやって来るおじさんがいた。大阪の北摂から来ている、と言っていた。来るのは年に一、二度。おじさんは「ハンコ屋です」と言って入って来るのだが、実はハンコ屋ではなくハンコ売りである。おじさんがハンコを彫っているのではない。パンフレットを見せて注文を取るだけである。

いったん会社を創業したらツゲや水牛や象牙の社印や銀行印を作り直すことはまずない。ぼくの会社の印鑑も31年前の創業時のまま。個人にしても、成人はほとんど実印をすでに所有している。認印を除けば、よほどのことがないかぎり実印は一生ものだ。

おじさんはハンコの話にさほど熱心ではなく、むしろ自分が描く絵を見せたがった。誰の目にも素人絵だとわかる代物。色紙に描いた水墨画や達磨図を鞄に入れていて、十数枚取り出して見せる。色紙の裏には2000-とか1500-とかの数字が鉛筆で書かれていて、おじさんは素人なのに売る気満々なのである。


何度も会話を交わしているので、おじさんはぼくが趣味で絵を描くことも消しゴム篆刻をしていることも当然知っている。作品を見せてくれと言うから、オフィスに置いていたのをいくつか見せた。見せればえらく感動するのだが、他人の作品に関心があるはずもない。話をすぐに自作に戻す。

ある日、まったくぼくの趣味に合わない色紙をあげると言い出した。いや、もらうわけにはいかないと返せば、では預けておくと言い換える。要するに、ハンコが売れないご時世に自分の作品を売り込みたいのである。人情に辛い人間ではないから、やむなく色紙を受け取り、裏の数字を見ずに「お小遣い程度で申し訳ないが……」と言って千円を差し出した。おじさん、千円札を躊躇せずに受け取った。

おじさんが最後に来てから十数年になるだろうか。当時七十代半ばだったはずだから、ご存命なら九十前後ということになる。おじさんが残した達磨図はとうの昔に手元から消えている。どう処分したかは覚えていない。マウスを使って十数秒で一筆書きしたのが上の作品だが、こっちのほうがいい味が出ている。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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