文章、一字一句

文章推敲の依頼をよく受ける。テーマに応じていろんな程度の推敲がある。手間暇は元の文章の質と出来次第である。今月依頼された文章は日本語も英語もひどいのが多かった。文字づらの表現だけを触って事足りれば作業も楽だが、理解不能な難儀な文章が多く、流れや筋まで見直さねばならなかった。文の構造まで手を入れたら、もはや推敲ではなく、一からの書き換えに近くなる。整体マッサージのつもりが、メスを手にして外科手術を施すようなものだ。

誰に読んでほしいのかがわからない。いや、そもそもどんな動機と理由で書いたのかがわからない。残念なことに、一音ずつ丁寧に楽譜を作曲するように、あるいは一筆一色ごとに丹念に絵を描くようには、ことばの一字一句が紡がれない。音楽や絵画に比べて、文章はこれほど安直に綴れてしまうのかと愕然とした。作曲はできない、絵は描けない、でも文章なら書けるのだとみんな思っている。

すぐれた音楽や絵画、彫刻や建築に「理」を感知することがある。まるで詰将棋のように、その方法以外に詰ませる手順や手の組み合わせがありえないかのように、作品が代替無き必然の完成型に映る。それに比べたら、ぼくたちのしたためる文章はなんと刹那的でいい加減なことか。


ことばの出番がもっとも多く、日常身近であるためか、手慣れた表現だと思い込み錯覚している。この文脈でこの概念を捉えるのはこの表現しかありえないという探究などふだんすることはない。いちいちそんなことをしていたら文など編めない。そこまで凝る必要などさらさらない、と思っている。もっとも、よく手を加えたはずの行政文書が魅力的であることなどめったにないが……。

しかし、俳人や歌人や作家でなくとも、この主題ならこう書くしかないと覚悟して仕上げるべきではないか。経験によって巧拙はあるだろう。それでも、最低限の工夫はできるものである。たとえそれが月に一度でもいい、今の自分に書ける最善と思えるような文章や表現を目指して、少々時間をかけて一字一句吟味することは無意味ではない。

一度書いてそれで満足ということなどまずない。それでこその推敲なのである。何度も何度も書いた文章を読み返さないといけない。たいていの読み手は一度しか読まないが、書き手は何度も読むことになる。たぶん終わりはない。期限というものがなければ、永遠に読み返し書き直すことになるのだろう。そういう過程を経て出来上がった文章とそうでない文章は一目瞭然である。上手であっても見直す。下手なら言うまでもない。下手が下手なりに見直した文章と下手が書きっ放しにした文章にも歴然とした差が現れる。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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