粋と野暮

粋の世界は難しい。今も昔も、上方の「粋」と江戸の「いき」はおそらく違っている。一般的に上方では漢字で、江戸ではひらがなで表記されることが多かった。人によっても使い方が異なる。九鬼周造のあの本は『「いき」の構造』である。

遠目に粋に見えていたものがクローズアップされたり身近に迫ってきたりした瞬間、野暮に映ることがある。何かしら妙味や面白味に欠けてしまって見える。その逆に、副次的なディテールがうまくいっても、大局を誤っていると話にならず、これもまた粋でなくなる。匙加減が微妙なのだ。


芥川龍之介に鹿鳴館を舞台にした『舞踏会』という短編がある。話の終わり近く、フランスの海軍将校が舞踏室の外にある星月夜の露台に明子を誘う。それに先立って明子が将校に「お国のことを考えていらっしゃるのでしょう」と尋ねるシーンがある。将校はフランス語で「ノン」と言い、何を考えているのか当ててごらんと返す。

露台からは赤と青の花火が見える。花火は闇を弾きながらまさに消えようとしていた。将校は明子の顔を見おろしながら言った。

「私は花火の事を考えてゐたのです。我々のヴィのやうな花火の事を」

少年の頃に読んだこの小説の、このくだりが鮮やかに記憶に残っている。気障ではなく、これをこそ粋と言うのだろう。

仕事場から徒歩圏内の天神祭が一週間前に終わった。毎年思うのだが、あの祭りにはギョーカイ的なクロウト臭が漂う。船に乗っている連中が橋の上の人々を見上げて、しかし見下げているような……。偏見かもしれないが、特権的な何か……。表向きは誰にでも開かれているようで、独特の閉鎖性を祭りに感じることがある。花火一つ取っても、ことばと空気が粋と野暮の分岐点になる。

最近耳障りな不粋はあのコマーシャルだ。「文字が小さすぎて読めない!」と怒って企画書を放り投げるのは筋違い。「オレの目のせいで字が読めない……」とうなだれて静かにつぶやくべきところではないか。おとなの粋がない。野暮である。少々どころか、キャストにはかなりがっかりしている。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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