偽るなかれと心しても、人は多少なりとも偽って生きている。「相互信頼が社会の根本、真実を語らねばならない」と言うのは簡単だ。しかし、虚偽や虚言と無縁に生きるには修行が足りない。ひとまず自己反省を先に済ませておく。
虚言とは人の口から出る嘘。弄するものであり、吐くものであり、並べるものである。虚言はエネルギーを要する。のべつまくなしに嘘を、それこそ八百も並べるのは容易ではない。嘘とは一線を画すようでありながら、「心にないこと」や「適当なでたらめ」も虚言の仲間である。
都合が悪くなるとあっちは黙る。黙られるとこっちが困るから、大人げなく、しないほうがいいとわかりながらも、つい詰問してしまう。詰問されたら今度はあっちが困るので、ないことをあるかのように作り上げ、あることをないかのように見せかける。あっちもこっちもどっこいどっこいだ。悪人でも詐欺師でもない善良なる人たちがなぜ虚言に逃げるのか。
仏教学者で哲学者の中村元の『東洋のこころ』にはブッダのおびただしいことばが紹介されている。
会堂にいても、団体のうちにいても、何人も他人に向かって偽りを言ってはならぬ。
汝は甘言で取り入ったり、二枚舌を使ったり、うそをついたりしてはいけない。
単純な道徳論ではない。道遠く険しいのはわかっているが、生き様において虚言は排さねばならない。少なくともそういう生き方を心掛けねばならない。たまには生真面目にそう思う。
嘘つき呼ばわりするのは酷だが、言行不一致も結果として虚言と見なされる。有言不実行もそうだ。言を発する行為の「口業」や「語業」を以て実行できたと錯覚するのが常。言うだけでおこなわなければ、それも虚言的行為である。
人はなぜ嘘をつくのか? これは核心の問いである。「それは何ものかを貪ろうとする執着があるからです」と中村は言う。ニーズとウォンツなどと区別するが、必要と欲望は交錯する。仕事のため、生活のためと必要を強調しているうちに、貪欲の一線を越えてしまうのが人の性なのである。