職人とサラリーマンとアルチザン

職人とサラリーマンは根本が違う、いや、そんなことはない、雇われ職人もいれば職人的サラリーマンもいるではないか……など、いろんな所見があってよい。職人とサラリーマンを二項対立で捉えてもよし、併せて一つになるのも一方で他方を兼ねるのもよし。職人がサラリーマンよりも上等であるなどとは微塵も思わない。

三年ほど前だったか、マンション建設にともなう一連の不祥事があった。法令遵守コンプライアンスしなかったと言って片付く話ではない。技術や倫理上の現象として生じた問題のゆゆしさもさることながら、仕事人が何を生業とし、何をよい仕事と考え、いかに顧客の期待に応えるかという根本的な問いを怠ることに問題の根深さがあった。職人が品質よりもコストや効率を優先すると困ったことになるのだ。

1970年代の自動車や電気製品に見られた〈計画的陳腐化〉を思い出させる。計画的陳腐化とは故意に劣化しやすい部品を製品に組み込み、寿命を短くしようとするけしからぬ企図だった。作るほうも作るほうだが、製品サイクルが短くなって新しい製品を手に入れたいと願う消費者もその片棒をかついでいたのである。今日、事業は当時とは比べものにならないほど超大であり、かつ生命や社会的損失に直結している。経済効率のためについ不正を犯してしまった、申し訳ないでは済まされない。

CSRでキレイごとを並べ立てても企業倫理の襟は正せない。企業に勤めながらプロフェッショナルたる職人がいかに矜持を保ち続けるのか。効率を最優先するあまり、「よい仕事」は二の次。職人とサラリーマンが相容れないのではない。そもそも職人には経済効率やぼろ儲けが似合わないのである。


「よい仕事(good work)とは出来のよい仕事である」とC.S.ルイスは言う。分業化社会の仕事には二種類あって、一つは「やる値打ちのある仕事」、もう一つは「金儲けだけを目的とする仕事」。当然、前者が「よい仕事」であり、よい仕事というかぎり出来が問われる。ルイスによれば、自給自足的社会に悪い仕事はなかった。自分が住む家の造りに手を抜くはずがなく、また自分が口にする農畜産物には安全を期した。しかも、よい仕事を自他の分け隔てなくおこなった。職人は人が誰であるかを問わない。仕事の出来のみを問う。

中身を偽るのは顧客を欺くばかりでなく、回り回って自己存在を揺るがすことになる。だから一流の職人は手を抜かないし、依頼人が十分に満足したとしても、そのレベルを超えてもなお手を止めない。

二年前に大阪歴史博物館で『近代大阪職人図鑑』を鑑賞した折り、細部の技巧にどれだけ凝れば気が済むのかと驚嘆した。大胆な全体構想にアート感覚を漲らせ、細部へのこだわりに執拗なまでの時間と手間を施す。アートと技が一つになる。「アルチザン」とはそういう資質に恵まれた職人を意味する。

よい仕事や値打ちのある仕事とは社会公共的あるいは芸術文化的になくてはならぬ仕事でもある。つまり、買い手がいなくても国や地方自治体が従事する者の職業と生活を担保するに値する仕事だ。医師や僧職者の仕事もそういう類なのだが、金儲けを目指すけしからん輩がいたりする。他方、一流のアルチザンでありながら恵まれない人々がいる。国家や都市は、自らの品格や気高さを願うのなら、アルチザン指数と言うべきものを高めてしかるべきである。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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