紙面編集をテーマとする研修の依頼がある。情報誌やリーフレットなどの編集制作や印刷にお金をかけているが、なかなか読んでもらえないというのが発行者の悩みである。どうすれば手に取ってもらえるのか、読んでもらえるのか。媒体もコンテンツも多様化した現在、ペーパー編集物は苦戦している。
「読まれる」の前に「書き表わす」がある。総じて言えば伝える技術なのだが、表現もさることながら、記事の魅力がなければ話にならない。誰にとっても魅力のある記事などそうそうあるものではない。書き表わす前にコンテンツの精査が必要になる。それができた上での表現伝達である。
誰かに伝える前に書き手自身が内容を理解していないという問題もある。本人が書くのだからテーマも記事もわかっているのは当たり前だと思われるが、実はそうではない。意味の明快さとは人それぞれ、理解の程度も違う。時間に追われたりすると、あまりよくわからないままでも書いてしまうものだ。相手に伝わるかどうかなどは二の次になる。
「ちゃんとできているのか?」
「ええ、大丈夫です」
「後は頼んだよ」
「了解です」
上司と部下のこの短いやりとりのうちにコミュニケーションの等閑と甘さが凝縮している。たしかに会話はそうかもしれないが、書く段になればじっくり腰を落とす、だから精度が高くなる……こう思うのは錯覚である。
紙面づくりはコミュニケーション。マーケティングにしても危機管理にしても、一見事務的な会計もコミュニケーションだ。人間どうしや組織において、曖昧性や多義性を排除してお互いの意味を明快にする。コミュニケーションは人間関係の根だが、幹や枝葉として行動や考えにまで派生する。人と人はそこでしかつながらない。何もかもコミュニケーションなのである。
紙面編集は編集者や書き手が読み手とつながることである。つながりやすさ――伝わりやすさ、読みやすさ、理解しやすさ――には人間工学的な法則が少なくない。最低限の法則に従えば、ある程度効果が生まれるものだ。
デカルトの『方法序説』がわかりにくい、「我思う、ゆえに我あり」って何のことかさっぱりわからないと言う。少しでも興味をもって一考してもらえないものか、コンテンツが難しければいかんともしがたいのか……。紙面編集は読ませるためのあの手この手の創意である。
ポスター風に紙面を編集したデカルトの肖像を背景に、哲学命題の見出しを入れた紙面を自作した。研修で事例として使う。四つの規則を読んでもらう可能性は高まる。但し、理解できるかどうかは別問題。書き表わすにあたっては読む相手を見ないといけない。情報誌が読まれるか読まれないかは、この読者対象の特定に関わっている。