ふと夏目漱石

夏目漱石の函入りの復刻版は書棚の一番下に立ててある。視線を床の方に落としたついでにふと目に入った。久々である。自分で買ったのだから当然覚えている。『道草』『明暗』『心』の三冊セット。

おなじみの三部作は、前期が『三四郎』『それから』『門』、後期が『彼岸過迄』『行人』『こころ』である(復刻版では「心」、その後「こゝろ」と表記され、今は「こころ」のようである)。代表作の『吾輩は猫である』は三部作には入らない。

少年時代に漱石はかなり読んだか読まされたかしたが、半世紀も経つと書名と物語が連動しない。書名は知っている、物語も覚えている、しかし完全一致させるのは容易でない。幼い頃に早熟気味に読んだものは忘れ、直近に読んだものは覚えている。読書とはそういうものだ。

さらに言えば、昔手に取った本のうち、読了したものはあまり覚えておらず、むしろ挫折した本の嫌な記憶だけが残っている。モーパッサンの『女の一生』はうろ覚えだが、スタンダールの『赤と黒』を読んでいて、これから先読むのはやめようと決意した瞬間と話の箇所は覚えている。


さて、漱石である。このブログを始めてから10年と4か月。1,337回書いてきた。検索窓で「夏目漱石」をチェックしたところ一件しかヒットしない。つまり、ぼくが夏目漱石と書いたのは一度きりなのだ。小説のことを書いたのではない。英語教師として二つの類義語の違いを少々ユーモラスに語った場面だ。次のように書いた。

理論上の可能性と現実に起こりうる蓋然性の違い(……)。授業中にpossible”probable”の違いを説明した夏目漱石のエピソードがある。「吾輩がここで逆立ちをすることは可能(possible)である。しかし、そんなことをするはずもない(not probable)」。

では、ブログ以外に思い出す漱石がらみのエピソードにどんなものがあるか。脳内検索してみた。そうそう、知人友人宛に出した引越ハガキの文面がおもしろかった。「手伝うなら昼から、メシだけ食うなら夜から」というような内容で、独特のユーモアなのだが、受け取ったら昼に行かざるをえない仕掛けがしてある。

もう一つ。私塾の『愉快コンセプト』の講座だったと思うが、漱石パロディを紹介したことがある。テキストが残っていた。漱石の『草枕』の冒頭とそのパロディを並べて笑ってもらったのを覚えている。

山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画ができる。
(夏目漱石 『草枕』)

耳をほじくりながら、こう考えた。
理を説けばかどが立つ。情にほだされれば流される。意地になられてはおしまいだ。とかくに女は扱いにくい。
扱いにくさが困じはてると、気安い女へ移りたくなる。どの女も扱いにくいとわかった時、あきらめが生じ、子ができる。
(郡司外史 『膝枕』)

ぼくの記憶の内にある漱石は、小説家ではなくユーモリストのようであり、またユーモリストに格好の材料を提供した人である。

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proconcept

岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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