抜き書きの意味

こんな拙いブログでも、毎月のべ何十人もの人たちが文章や段落をコピーしてくれている。「してくれている」と書いたのはありがたいと思っているからだ。なぜコピーされているのがわかるのか? “Check Copy Contents”というプラグインを入れていて、誰かがコピーするたびにメールでコピーされた箇所を知らせてくれるのである。

著作権防衛のためのプラグインではない。ぼくが綴るテーマのどんなくだりに食いついてくれるのかを知りたいだけで、別に何かの役に立てようなどと思っていない。ちょっとした好奇心にすぎない。コピーされた文章がどこにペーストされたのかはわからない。追跡する気もまったくない。

活字になっている文章を数行あるいは全文コピーして、そっくりそのままOne NoteDropboxEvernoteなどのアプリに貼り付ければ便利に違いない。電子書籍は利用していないので詳しいことは知らないが、スクリーンショットはできてもコピペはできないと聞いた。コピペのできるブログを重宝する人がいても不思議ではない。

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ぼくはアナログの抜き書き派であり、今も性懲りもなく紙の上にペンを走らせている。プロの読書家には「若い頃に何十冊ものノートに抜き書きしたが、所詮自己満足であった」とか「抜き書きなど何の役にも立たない」と言う人がいる。たしかに、書き写す労力と見返りは比例しない。読みっ放しにしておくのと抜き書きするのとを比較したら、記憶という点で前者が劣っているとは言い切れないのだ。

しかし、もし書いたものを後日繰り返し読み返すのであれば、本を読んだ時点で気づかなかったことに気づける可能性はある。抜き書きした時から数年の歳月が過ぎていれば、少しは理解力や思考力もましにはなっているだろう。幸いにして、自分で書いた文章であれ、本の抜き書きであれ、読み返す習慣が身に付いている。うろ覚えの記憶がよみがえり明快になることもある。今日はヴィーコの『学問の方法』の抜き書きに何度目かの刺激を受けた。

「才能は言語によって形成されるのであって、言語が才能によって形成されるわけではない」

自分で書く駄文も抜き書きもすべてノートに一元化する。仕事、考えること、語ること、本の一節、日々の衣食住の生活での発見など何でも書く。人生という見えづらい座標には、ハレもケも主観も客観も分け隔てなく、またカテゴリーをまたいで経験が統合されているはずなのに、めったに実感はできない。しかし、ノートという小道具なら、人生経験の出張所として手触りを与えてくれるのである。

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proconcept

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岡野勝志(おかのかつし) 1951年大阪生まれ 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター 岡野塾主宰 ヒューマンスキルをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。 マーケティング、コミュニケーションにまつわる企業や人

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