「確かに見た」の不確かさ

言った言わないでもめることがあるように、見たか見ていないかでも相違が生じる。逃げて行く男を双方が見た、しかし、一方がスーツ姿、他方が普段着だったと証言することがある。誰しも自分の見たものは確かだと思い、見たものが他人と違っていたら、正しいのは自分で、他人のほうが間違っていると主張する。

「百聞は一見にしかず」の諺が示すように、見ることを聞くことの上位に置くのが常だ。ところが、視覚もあまり威張れたものではない。「この目で確かに見たこと」を疑うとは、自らの確かさの否定を意味する。

「見たまま聞いたままのことを信じるのではなく、そう見え、そう聞こえるという事実を可能にしている〈可能性の次元〉に立って考え直す(……)」
(御子柴善之『自分で考える勇気』)

見た聞いたはある種の経験である。その経験を棚上げにして考えるには勇気を要する。「それはお前の勝手な考えだ。ちゃんと見て聞いてからものを言え」などと注意されかねない。地動説を知らず天動説だけで考えている時に、「もしかしてこれは……」と想像する感覚はほとんどありえないように思われる。勇気があったとしても、仮説が思うように立てられない。


ひとまず今見ている事柄を「真理」だと判断するしかないのだが、それが認識の限界なのである。なぜなら、「確かに見たこと」が結果的に不確かだったことが後々にわかるからだ。仮に確かに見たのだとしても、真理は未来に更新され、今日の真理が書き換えられる。見たはずの真理は常にモデルチェンジを余儀なくされるのである。

しかし、真理更新の日々にあって、今ここで見たことに基づいて何らかの意見を成すことが無意味であるはずがない。未来に明かされる真理を待っていれば何一つ語ることができないではないか。手持ちの材料によって――そして、それが確かであるという前提で――推論しなければならないのである。推論というのは仮の話にほかならない。

真理の枠組で考えるのではなく、〈可能性の次元〉に足を踏み入れて精一杯背伸びして考えるしかない。明日ヴェールを脱ぐかもしれない真理のことを気にしていたら、人は未来永劫考えることなどできないだろう。「確かに見たこと」の確からしさを保留しながら考える。いや、不確かかもしれないと謙虚になるからこそ考えることができる。何もかもが確かならもはや考える必要などないのである。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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