若者よ、もっと屁理屈を!

屁理屈.jpg二年ほど前に「もう少し議論してみないか」という記事を書いた。「たまにでいいから、大樹に寄らない姿勢、長いものに巻かれない覚悟、大船に乗らない勇気を。同論なら言わなくてもよく、異論だからこそ言わねばならないのである」と結んで、論議にあたっての精神のありようについて触れた。

最近の親もわが子に「屁理屈を言うな!」と口うるさく言うのだろうか。会社の上司は若い部下がこねる理屈に一言注意をするのだろうか。ぼくの幼少期から青年期にかけては、当たり前のように耳にしたものである。半世紀以上生きてきた人なら、子どもの頃に屁理屈を言うなと親からたしなめらたことがあるに違いない。反抗期を迎えて、屁理屈を咎められ、「屁理屈じゃなくて理屈だよ」などと反発したりすると、「それを屁理屈と言うんだ」と浴びせられる……そんな経験を一度ならずしたに違いない。

屁理屈でも理屈でも呼び方はどっちでもいい。もう一歩踏み込んで言うべきところで、言わないほうが無難だと刷り込まれるのは不幸である。社会に出ると、自分の親と同じことを諭す先輩や上司がそこらじゅうにいる。強引な屁理屈は封じ込められるし、喉元まで出てきたまっとうな理屈さえ呑み込んで我慢させられる。これに順応してしまうと、人は寡黙という差し障りのない処世術を身につける。そんな若者たちが今どんどん量産されている。


 ほんの少し論理的に考えてみれば、テーゼという意見があれば必ずアンチテーゼという異種意見がありうることに気づく。論理的に考えるなどと言うと大袈裟に聞こえるかもしれないが、ちょっと冷静になればいいだけの話である。どんな事柄にもイエスとノーという価値判断があって意見が対極に分かれる。人間は多様性の生き物なのだから、イエスとノーの間でもさらに意見がかぎりなく分岐する。

 多様な意見をみんなが好き勝手に言い放つか、言っても仕方がないので黙るか……いずれにしても不器用な対処である。意見を好き勝手に言わない、言うのなら必ず理屈をくっつけようというほうがずっと健全なはずだ。技術の巧拙はさておき、意見の背後にある理屈を述べるのは理由や論拠を持ち出して説得しようとする試みではないのか。「あなたはこの意見についてどう思うのか?」と聞かれて、心底ノーなのに、相手の顔色を見ながらイエスで済ましていれば、理屈を並べる機会を失い、口数が少なくなってしまう。しかし、鬱憤と我慢が限界を超えて卓袱台をひっくり返すのは、たいてい普段屁理屈を言わない連中なのである。

 ディベートの教えに「言いたいこと、言うべきことは先に言っておく」というのがある。だから、「立論」と呼ばれる冒頭スピーチで、意見の全体と理屈と拠り所となる証拠を述べるようになっている。これで論が一応立つわけだ(立ったはずの論は、相手の反駁を受けて倒れるかもしれないが……)。もう一つ、「主張する者に証明の義務がある」というのもある。証明とは、つまるところ、理屈を言うことだ。それゆえに、親であろうと子であろうと、上司であろうと部下であろうと、先に意見を言い出したほうが理屈を述べ、その理屈に対しては「理屈はわからん」とか「屁理屈を言うな!」で片付けてはいけないのである。

意見を交わす、理屈を言い合うことを人生一大事のように肩肘張って考えることなどない。議論に馴染んでいけば、それは相互理解のための軽いジャブの応酬だということがわかるようになる。入社式シーズンの今、社長が社員に求める筆頭のスキルはコミュニケーションらしいが、そんなわかったようでわかりにくい言葉を持ち出すのではなく、「若者よ、もっと屁理屈を!」と訓示すればいいのだ。もっとも屁理屈はコミュニケーションなどではないと考えているのなら、社長、あなたこそ勉強し直すべきである。

投稿者:

proconcept

岡野勝志(おかのかつし) 1951年大阪生まれ 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター 岡野塾主宰 ヒューマンスキルをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。 マーケティング、コミュニケーションにまつわる企業や人

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