知っていること、知らないこと

何もかも知ることはできない。知っていることは限られている。限られている上に、知りたいことや知っておくべきことを絞るものだから、知っていることなどたかが知れている。あまりものを知らない他人と比べて自分は博覧だと思いがちだが、だいたいが五十歩百歩。誰の博覧も、その意味に反して実は「狭い」のである。

魚屋であれこれ品定めし値踏みして、捌きたてのたらを買うことにした。その横に同じく「タラ」と書いてある、鱈とは思えぬ姿の一品を見つけた。どうやら内臓らしい。聞けば「タラの子」と言う。「えっ、タラコ?」 「うーん、スケトウダラのあのタラコではなく、マダラの卵巣ですよ」 「これって鍋用ですか?」 「いいえ、煮つけ用です」……正確には覚えていないが、ともあれ、こんなやりとりを交わして、これも買って帰ってきた。

鱈と言えば、銀ダラの粕漬けを焼き、マダラを鍋にし、フィッシュ・アンド・チップスなどでたらふく食べてきた。タラコも明太子もだ。しかし、この鱈の生の卵巣(別名「助子すけこ」)が売られているのは初めて見た。これまでにこの原形から調理して食したことは一度もない。

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鱈も卵巣も知っている。しかし、鱈の卵巣の姿は見たこともなく、触って調理するのは今日が初めてである。この状態を知っていると言っていいものか。名前を知っている、聞いたことがあるなどというのは「真知しんち」の域には及んでいない。であるなら、「知らないこと」に振り分けておくのが妥当なのだ。

知っていることや知っているつもりの領域に知らないことがおびただしく紛れ込んでいる。ふるいにかけてみれば残るのはわずかな知。ぼくたちはほとんど何も知らないということになるだろう。一つのことを知るまでには深い縁と長い時間を要するのだ。今日のぼくの鱈の卵巣との出合いがそのことを象徴している。

さて、グロテスクな卵巣の煮つけが出来上がった。見た目は鯛の子の煮つけに似ている。今夜はこれをあてにして日本酒を少々。もちろんその後に鱈ちりをたらふく食らうつもりである。

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岡野勝志(おかのかつし) 1951年大阪生まれ 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター 岡野塾主宰 ヒューマンスキルをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。 マーケティング、コミュニケーションにまつわる企業や人

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