信と疑の再考

イエスのほうがノーよりも聞こえがいい。述べた意見に「その通り」とうなずかれると快く、「違う」とか「賛成しかねる」ときっぱり言われたら気持ちは穏やかではない。人は否定されるよりも肯定されるほうを好む。そして、肯定されるためには、自らが他人を肯定せねばならないから、みんなが互いに褒め合うようになる。そんなやわな褒め合いが昨今の風潮である。

思考のどこかには、「既にあるもの」への疑問や、他人の意見や常識を単純になぞってたまるかという意識が潜むものだ。ほどよい懐疑と自覚が理性的思考の前提にある。懐疑するには、懐疑する対象を動かす「テコ」を持たねばならないのである。だが、テコがなければ、反証できずに泣く泣く受容せざるをえない。褒め合う風潮の背景には、このテコを持ち合わせない人が増えてきたこともあるのだろう。

神々の支配下にあった古代末期から中世初期にかけて、ヨーロッパでは神に従ってさえいれば万事無難という生き方が趨勢であった。ところが、そうしているにもかかわらず、生活も良くならず生きがいもない。ならば、人が人として生きてみよう、考えてみよう……ギリシアやローマの古典古代に生きた人々のような人間性を復興させよう……そんな気運になってきた。この人間復興が文化復興へと発展し、ルネサンスと呼ばれる時代を迎えることになる。危機への意識は、イエスや肯定などの信によってではなく、ノーや否定などの疑によって芽生えるものだ。常識を疑う批判精神が創造への道を切り拓いたのである。


ここで「シャルリーエブド」の話を持ち出すつもりはない。風刺の話ではなく、あくまでもぼくたちが縛られている信と疑のありきたりな観念を見直してみたいというのが動機である。疑が信よりも重要だという幼い主張をするつもりもない。無思考的に〈信〉に流れている風潮に対して、〈疑〉というものの本来的な力にも目配りをすべきではないかという問題提起である。

明暗信疑2

そこで、先人の知恵を渉猟することにした。そして、信と疑について、さらにポジティブとして、あるいはネガティブとして語る言説を分類してみたのである。

信と明をつなぐもの。すなわち、信への信。

自分自身を、自分の力を信じることが才能である。(ゴーリキー)
自分自身を信じてみるだけで、きっと生きる道が見えてくる。(ゲーテ)

信と暗をつなぐもの。すなわち、信への疑。

誰でも恐れていることと願っていることを易々と信じてしまう。(ラ・フォンテーヌ)
物事は確信を持って始めると、疑惑に包まれて終わる。(ベーコン)

疑と明をつなぐもの。すなわち、疑への信。

まず疑う、次に探究する。そして、発見する。(バックル)
初めに疑ってかかり、じっくりそれに耐えれば、最後は確信に満ちたものになる。(ベーコン)

疑と暗をつなぐもの。すなわち、疑への疑。

自分が相手を疑いながら、自分を信用せよとは虫のいい話だ。(渋沢栄一)
惚れていて疑い、怪しみつつ愛する男は、呪われた月日を送る。(シェークスピア)

言うまでもなく、偉人の言を鵜呑みにしてもいいし、それらに首を傾げてもいい。これらを統合的に眺めてみれば、疑と信のいずれも、一本槍では済まないということが学べるだろう。相手関係や世間の価値観の呪縛から逃れて、疑も信も使いこなせというわけだ。これが基本である。ポアンカレの次の言が結語にふさわしい。

すべてを疑う、またはすべてを信じるというのは都合のよい解決法である。どちらにしても、われわれは反省しないで済むからだ。(ポアンカレ)

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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