多様性という逃げ道

「個々特有の性質や事情を考慮せず、何がしかの規格に従って全体やすべてを一様にそろえること」。これを画一という。画一には「主義、的、化、性」などの接尾語が付くことが多い。こんな接尾語がくっついてしまうと、ただでさえわかりづらい概念がいっそうわけがわからなくなる。

かつて画一がもてはやされた時代があった。画一的に大量生産されたテレビを買い、画一的価値観を持つ大衆が画一的な番組を見、画一的な居間で画一的な感想を述べ合い、画一的な喜怒哀楽を分かち合った。当然反作用が起こり、高度成長時代の真っただ中に生きた世代には画一という現象とことばにアレルギーを持つ者が少なくない。


反作用は当然ながら「多様」へと向かった。多様性は今では絶対的に歓迎されているかのようである。生き方の多様性、場や役割の多様性、意見の多様性、何よりも種としての人間の多様性……。グローバルという、一見画一的に世界を眺望する捉え方も、根っこのところでは多様性を前提としている。

反面、この多様性を肯定することが、公平や平等などと同じく、その万能性によって逃げ道を用意することになる。つまり、「多様性はいいことだ」と言い終えて黙り、他に何も言わない。高度成長時代の「大きいことはいいことだ」を暗黙のうちに認めたのと同じような空気が漂う。

「多様性はいいことだ」。たしかに。しかし、多様性ゆえにどうなのだ、どうするのかという問いが続かねばならない。多様性の時代や社会でいったい何を決断し何に向かっていくのか――このことが不問に付されている。多様性は固有の価値を見つけられない者にとっては逆風になることを忘れてはいけない。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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