「占い」雑考

みずがめ座.gifのサムネール画像のサムネール画像朝の支度中に、テレビの画面に食い入る時間はない。見るとすれば、かなりニュース性の高い映像に限られる。つけっぱなしの朝のテレビはラジオのようなもので、もっぱら音声を聞いている。いや、音声が流れてくる。このことと、自分が「みずがめ座」に属することを知っていることが一つになると、特別に関心があるわけでもない星占いの声も耳に届いてくる。

周囲には星座や血液型占いの好きな人がいる一方で、誰かが話題にしても素っ気なく反応する人もいる。ぼくはと言えば、占星術、手相、血液型などによって心を動かされたことはない。けれども、かつて占いに凝っていた母親が生年月日でぼくを専門家に占ってもらい、「あんたはこうこうだよ」と告げてきた時などは頷いておいた。正直なところ面倒なのだが、親孝行だと思って聞いた。

同様に、何かの拍子に運勢判断の話が出ると、心中まったく関心はないのだが、冗談を少々交えたりしながら調子合わせをすることがある。ぼくも一人で生きている人間ではないから、ほどほどの社交辞令で場をなめらかにする術を心得ねばならない。ただ、「うらない」という発音から先に浮かぶのは「売らない」のほうであって、「占い」という参照はめったに生じない。

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仕事柄どんなことでもまったく知らんぷりできない。新聞の小さな記事や隣のテーブルのよもやま話から何かのヒントが生まれることだってあるから、占いの話題を門前払いするのもどうかと思う。というような寛容な姿勢なので、冒頭に書いたように勝手に星座占いが耳に入ってきてしまう。そして、苦笑いする。先月のある日の話である。ラッキーアイテムが「さざえ」であった。手の届かぬものではないが、出張中だったから口に入れるのは容易ではない。気が付いたら夕方だったし、少々酒を控えているから、この日は縁がなかった。

別の日。「みずがめ座のあなた、自分の意見が通らずストレスがたまります」と注意された。「他人の意見を参考に」という処方箋。いつもいつも自分の意見を抑制し反論もせずにイエスを捻り出しているぼくだ。いつも他人の意見を聞いてあげて、とんでもないトラブルに巻き込まれているというのに。

さらに別の日。「過去の経験を生かして大飛躍できる日」ときた。占いというものはヒントにはならないものである。過去のどんな経験かが不明であり、威勢よく「大」とついているが飛躍のほどがよくわからない。それはそうだろう、ぼくのための占いではなくてみずがめ座のための占いだ。克明に描写してしまうと大勢の人に当てはまらなくなってしまう。とはいえ、「メールは早めに返事しましょう」などとあると、後期高齢者がターゲットでないことはすぐにわかる。なお、この大飛躍のできる日のラッキーアイテムはババロアだった。毎日12の星座を占うのも大変な仕事である。

テレビコマーシャル考

television commercial.jpg今もマーケティングの企画をしたりコピーを書いたりもする。かつては広告の仕事をしたことがあるので、少しは制作の裏事情もわかっている。デフォルメはやむをえないが、ウソをついてはいけない。このことは心得ておくべきことだ。

とは言うものの、この「ウソ」の解釈がむずかしい。ありもしないストーリーづくりをしても商品の特徴を偽らなければウソにはならない。時には過剰演出もあるだろうが、それもウソではない。小説のことを「虚構フィクション」と呼んで「虚偽」とは言わないように、広告における虚構性をウソと決めつけるわけにはいかないのである。しかし、ウソではなくてもノンフィクションだと胸を張れるかと問えば、やっぱりフィクションも混じることを否めない。テレビコマーシャルはフィクションとノンフィクションのはざまで揺れ動く。
あることを誇大に強調し、別のことを語らないというのも、たかだか15秒枠で訴求せねばならないテレビコマーシャルの宿命である。「歯医者さんが薦めるPCクリニカ」というのがあったが、どこの歯医者さんかは不明である。もしかすると適当な歯医者さんかもしれないし、第一人者の歯医者さんかもしれない。「やっぱりDHCだね」と言われても、何が「やっぱり」なのかわからない。売上ナンバーワン即納得でもないからだ。
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何度見てもぼくが苦笑いするのが、「う~がい、手洗い、にんにく卵黄~」である。健康の三点セット? たしかにそんなふうに聞こえる。そして、「 ばあちゃんの言う通り」と続く。ばあちゃんは年中うがいをして手洗いをしてにんにく卵黄を一日何粒かを目安に飲む。そのことをばあちゃんは孫たちに教えているようだ。孫の年齢にしてにんにく卵黄というのも不思議だが、「ばあちゃんの言う通り」というくらいだから、もしかすると愛用しているのかもしれない。極めつけは「 あ~あ、ばあちゃんにゃかなわない」だ。もうお手上げなほど、ばあちゃんは偉いのである。つまり、にんにく卵黄も偉いということだ。フィクションかノンフィクションか……わからない。
たぶん11月頃から流れ始めたコマーシャルがある。元テニスプレーヤーの杉山愛を起用した歯磨きシュミテクトだ。一部始終のせりふをここに書かないが、「歯がしみる、知覚過敏にいい」云々という内容。それはそれでいい。実証もされているのだろう。ところが、コマーシャルの最後に、懸命に宣伝したはずの杉山愛が「すぐにでも使ってみたいと思います」と言うではないか。おいおい、あなたはまだ使ってないの!? とツッコミを入れざるをえない。
コマーシャルに起用された本人が使ってから宣伝してもらいたいものである。大衆的なヘアカラーを訴求する大物女性タレントが白髪が目立たないなどとおっしゃるが、たぶん本人は自分で染めているはずがない。セレブな美容院でもっと高価なもので染めてもらっているに違いないのである。あの知覚過敏歯磨きのコマーシャル、すでに流れてから3ヵ月以上になると思うが、杉山愛はまだ「すぐにでも使ってみたい」と言っている。今使い始めても、もはや「すぐに」ではないだろう。

商売人失格

仏教用語としての正用からは外れるが、この話には「因果応報」と刻みたくなる。小さな因果が確実に働いて、いずれ応報になる話。

数年前、兵庫県のとある駅に降り立った。駅前に、最近よく見かけるガラス張りの賃貸住宅ショップがあった。仕事は翌日だが前日入り。宿泊先として指定されたホテルの場所がわかりにくかったので、その店で尋ねた。
店員が「交番で聞きゃいいだろ!」と翻訳したくなるような語気で面倒臭そうに対応をした。おそらく知っているのだろうが、教えてくれなかった。十数秒の親切をしても日銭にはならないだろうが、駅前不動産なのだから交番の役割も担って何か問題が生じるか。地域のナビゲーター役になる絶好の立地にあるのに、なんという機会損失かと思った。
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ぼくは残念に思っただけで、恨みも怒りも引きずらなかった。それでも、後日、もしこの方面に引っ越しする人がいたら、躊躇なく「あの駅前の○○不動産には行かないように」と助言する。「あの店」だけで済めばいいが、「あの会社」という烙印を押されてしまうと、同じ会社の(善良かもしれない)他のショップにも影響が出るだろう。
因果関係というものは、辿ればどれも複雑だ。特に今の時代、「一因一果」などのような単純な因果関係はほとんどありえないだろう。だが、この一件に関して言えば、一事が万事になりかねない。
ちょうどその頃は、大阪の例の名門料亭がアウトになった時期に重なる。さんざん良からぬことを重ね、バレたりバレなかったりしながらも息を吹き返して延命してきた。あの料亭は、情けないことに「ワサビの使い回し」というちっぽけな原因で終幕した。社会の堪忍袋の緒が切れたらおしまい。商売人にとって、一人一人の顧客は社会につながっている。PRとは“Public Relations”の略、つまり「社会との関係づくり」にほかならない。商売人の原点はそこにある。

食事処に物申す

 

酒はだいたいどこの店にも同じものが置いてあるが、料理にはそこにしかない品もしくは味という前提がある。たとえ他店と大差のない料理であっても、「うちにしかないうまいものを出す」という気迫が漲らねばならぬ。「この店は味自慢」と認めるからこそ、こちらも料理を決めてからそれに合う酒を選ぶ。
以上のようなことを、あくまでも個人的な意見として、「何を食べるかも決めていないのに、はじめに酒の注文を聞くべからず」と前回のブログに書いた。今日はその続編である。お品書きもしくはメニューについての話。
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以前、3500円、5000円、7000円のコース料理を出すビストロがあった。将来顧客になるかもしれない団体の代表者と公認会計士とぼくの3人での会食だ。ぼくが場所と食事を決めてご馳走するという設定だった。店に入って席に就くなり、店員が「本日はご予約ありがとうございます。5000円のコースで承っております」と言ってくれたのだ。バカな確認をするものである。
コースとアラカルトは注文のしかたが違う。アラカルトならメニューを全員に配るから、接待であれ割り勘であれ、値段は全員に知られる。それはそれでよい。しかし、コース料理の場合で誰かが他のメンバーを接待しているときに、コース名と値段を明かしてはいけない。
割烹に「おまかせ料理」を予約して行った。カウンターに座ったら「本日はおまかせ料理ですね」と確認された。よく見ると、壁に「おまかせ料理 2,980円」と貼紙がしてあった。がっかりである。
イタリア料理店でワインリストからワインを選び、「これをお願いします」と指差ししたら、「こちらの2800円の赤ですね」とご丁寧にも金額を言ってくれた。
ご馳走されるほうは、ワインリストを渡されてもなかなか選びづらい。ざっと視線を走らせても、たいてい「お任せします」と言う。しかし、店によっては値段の安いものから高いものへと「秩序正しく」ワインを掲載しているところがあるから、指の差す位置によってどの程度のものを注文したかがすぐにわかってしまう。
以上のようなデリカシー違反の店は一流にはなりえないだろう。それはともかく、接待する側でも接待される側でも疲れる手続きなので、この頃は気のおけない人としか食事に行かないようにしている。メニューの値段もオープン、店も明朗会計というのがいい。
il menu del ristorante.jpg英語とイタリア語が併記されているレストランのメニュー(イタリア・オルヴィエート)

注文の順序――食事か酒か

どう見ても居酒屋とは呼べない、ある程度の格のある割烹。あるいは少々値の張る寿司屋。こんな店で席に着くなり、「まず飲み物のご注文からおうかがいします」と促される。

庶民的居酒屋で多人数ということになれば、それもやむをえない。年配者が和を乱すこともないだろうと、一応妥協する。しかし、実のところ、「とりあえずビール」など論外だ。集まりの冒頭の乾杯で足並みを揃える必要などまったくない。これは単に幹事と店側の都合にすぎない。二十代に入って酒を飲み始めた頃から異様に思っていた。

酒を飲むことよりも食べることを優先しているからかもしれないが、「飲みに行かないか?」に未だになじめない。「食べに行かないか?」でなければならない。「飲みに行かないかには食も含まれているんだよ」と言い含められても、納得しづらい。野暮を承知で言う、ぼくは食べに行くのであり、食べたいものに合わせて飲み物を決める。ゆえに、最初にドリンクを注文しない。するときは、何を食べるかがわかっているときである。

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先月、吉田類の『酒場放浪記』で「(焼きとりの)白レバーを頬張り、生ビールで胃に流し込む」というナレーションを耳にした。不快であった。「とりあえずビール」で始め、その後お店がお薦めする一品の白レバーを注文した場面である。

胃に流し込まれる白レバーにも流し込む生ビールにも失礼である。早食い大食いコンテストでもあるまいし。じっくりと味わい、食と酒の相性を味わうべきではないか。自称グルメには咀嚼時間の短い輩がとても多い。三口ほど噛んで酒を流し込みながら、通ぶってはいけない。

場末の居酒屋とは一線を画すると自負する飲食店なら、洋の東西を問わず、食べ物の注文が先である。メニューを眺めて「ああでもない、こうでもない」と考慮する時間から食事が始まっている。よく来る店で注文するものもだいたい決まっていても、時間をかける。しかるべき後に、好みの酒を選ぶか薦めてもらう。

もちろん例外もある。高級な焼酎を一本もらったりワインの店で薦められて買ったりするときは、「はじめに酒ありき」だ。また、料理と連動させなくてもよい食前酒や食後酒もありうる。しかしながら、何を食べるかに迷い、その料理に合いそうな酒を選ぶという時間を楽しむべきである。おそらく、「飲み放題付き宴会コース」なるものが、選択の自由と時間を奪うようになったのだろう。

まずい鯖寿司の話

今日は恵方巻が飛ぶように売れているが、ふだん食べる太巻よりも格段にうまいわけではない。ただ、通常切り分けて食べるのを「痛快丸かぶり」するから、うまさの触感が増しているかもしれない。

人から聞いた話だが、恵方巻ではなく、まずい焼き鯖寿司の話を書く。
とある店の焼き鯖寿司がうまいとテレビでべた褒めだったので、Yさんは差し入れにと買った。土産にした本人は食していない。鯖寿司をもらった女性二人は「テレビで評判のうまい」という触れ書きをアタマの片隅に置いてYさんが去った後に食べたという。結論から言うと、「とてつもなくまずかった」。彼女ら二人とYさんは一緒に働く、きわめて親しい関係にあるが、翌日会った時にさすがに「Yさん、あれはまずかったわ」などとは言わない。それが良識というものだ。
一ヵ月ほどしたある日、3人が一緒にいるときに、たまたま別の土産物をもらったそうで、味の話になった。そこで、「Yさん、言いにくいんだけど、この間の鯖寿司ね、全然おいしくなかった」と一人の女性が切り出した。告げられたYさんは驚いた。まるで自分の責任のように感じたのも無理はない。
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うまい・まずいは人それぞれだ。この焼き鯖寿司に関するかぎり、二人の証言しかないので結論を下せない。だが、Yさんはその店の評判よりも友人である二人の女性の声を信頼する。悔しいが、Yさんは店にもテレビ局にも文句は言えない。「うまいと言って買ってくださる人が大勢いる」と言われたらそれまでだ。したがって、マスコミの「イチオシ情報」を今後鵜呑みにせず、その店の焼き鯖寿司を二度と買わないようにする。むろん、Yさん一人の抵抗で店が淘汰されることはないだろう。
それにしてもだ。賞味期限や成分偽装などの品質問題には文句を言えるが、味を問題としてクレームはつけにくい。スカスカのおせち料理には文句を言えるが、てんこ盛りになったまずいラーメンには心中「まずい」とつぶやいて、これまた心中「二度と来てやるものか!」とつぶやくのが精一杯の抵抗である。
ぼくの経験では「名物にうまいものなし」はだいたい当たっているが、それでもそのまずい品が名物であり続けるのは、ぼくとは味覚が違って「うまい」と評する者が後を絶たないからだろう。加えて、人には自ら選択したものがまずかった時に「うまいと思い成そうとする心理」が働く。いわゆる《認知的不協和》の一種だ。
さあ、夕刻になったら、うまい恵方巻を買って帰ろう。買う時点では「うまい」は仮説である。頬張ってから味の良し悪しが判明する。もしまずかったら、また後日悪口を書いてみようと思う。

蒼ざめる彼がいた

地下鉄の車内。ぼくの前、一列の座席に6、7人が座っている。そのうちの半数が携帯電話を触っている。車内をざっと見渡せば、34割が画面を見ているようだ。メールかゲームかツイッターかのいずれかに違いない。リベラルに考えるほうなので、マナーがどうのこうのと目くじらを立てない。一人で移動中なら本を読むのも瞑想するのも携帯を操るのも大差はない。

少々残念に思うのは、家族連れなのに、子どもそっちのけでメールに没頭している親の姿。それに、二人でいるのにそれぞれが携帯を眺めているという光景。会話することもないのなら、一緒にいる必要などないだろう。かく言うぼくは、出張で長距離・長時間の車中ではほとんど読書をするか何かを書いている。時々うたたねをし、時々携帯で将棋をする。しかし、アプリの対戦相手であるコンピュータは上級モードでもあまり強くないので、すぐに飽きてしまう。

相談をよく受ける。ぼくから招くことはほとんどなく、たいて相手から相談事があると言ってオフィスにやってくる。ほんの半時間のうちに相手の携帯が二度三度と鳴る。メールの音、着信の音。「ちょっとすみません」と言って部屋を出て応答しても、ぼくは顔色一つ変えないで戻るのを待つ。着信音が鳴り遠慮して応答しなければ「電話に出てくださいよ」と促す。話に熱が入って予定の時間を過ぎると、相手は部屋の時計にちょくちょく目をやる。おそらく次の予定の時間が迫っているのだろう。「今ここに集中できない、気の散る人だなあ」とは思うが、知らん顔している。

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電源オフかマナーモードに設定するのを失念して、講演や研修の最中に携帯を鳴らせてしまう人もいる。案外多いもので、三回に一回の割合だろうか。こんなときもポーカーフェースで話し続ける。携帯の音に負けないようにほんの少し地声のボリュームを上げる。と、こんな話を知人にしていたら、その知人もほとんどの場合意に介さないと言う。ぼくも知人も寛容の人なのである。但し、この知人は同一人物に対しては二度までしか許容しないと付け足した。

業者さんの一人で、若手だがなかなか見所のある男がいたらしい。気に入ったので応接室に招き、談話をした。かかってきた電話にその彼はそのつど応対したらしい。知人は別に何とも思わなかったと言う。次に会ったときにランチに誘った。そのときも一度だけだが、席を立ってレストランの外へ出て電話に応答したようだ。ランチの最中に数分間中座したので、「食事に誘われていながら……」とは思ったが、「まあ、いいか」と思い直した。

後日。いい仕事もしてくれるので、行きつけのちょっと高級感のある小料理店に連れて行った。知人は極力仕事とは関係のない世間話や自分の経験談を肴にした。若い男も料理の三品目くらいまでは問いかけたり身の上話をしたりしたそうだ。しかし、ふいにスマホを取り出して、「すみません、ここは何という店ですか?」と尋ねてツイッターをし始めたというのである。三度目の正直、知人は切れた。「顧客と飯食って会話しているときに、携帯に触るな!」と一喝した。状況を飲み込めず、呆然と蒼ざめる彼。

その後の取引関係がどうなったのか知らないが、知人は「過去形」で語っていたので、だいたいの見当はつく。ぼくは同じような場面でこのような一事が万事の行為をめったに取らないが、知人の対応に理不尽を唱えることはできない。いや、むしろ共感する次第である。携帯やスマホが悪いのではない。「心ここにあらず」が目の前の人に失礼なのだ。

有名人とコマーシャル

あの人たちはテレビコマーシャルで自分が宣伝している商品を、日々の生活の中で実際に使ったり用いたりしているのだろうか。宣伝していながら、宣伝している商品とは別のものを使用しているとしたら、そのつど心理的違和感やちょっとした罪悪感などにさいなまれはしないのだろうか。ぼくなどは、ことばと考えと行為が大きくズレてしまうと、浮遊したような二重人格性を強く己に感じてしまうので、なかなか不一致を受容することはできない。

とは言え、あの人たちの生活は日夜スポンサーによって監視されているわけではない。だから、おそらく当該商品に束縛されることはないだろう。同業他社のコマーシャルに出演しないかぎり、現スポンサーに文句をつけられる筋合いはない。数千万円(場合によっては億以上)もの契約金は、スポンサー商品の日常的使用に対してではなく、あの人たちのスポンサーへの忠誠に対して支払われるのである。「契約期間中は、他社に浮気するような背徳行為はいたしません」という、「制約の誓約」への報酬と言い換えてもいい。

生真面目で几帳面な有名人は、年間数本のコマーシャルに出演しながら、もしかするとすべての商品やサービスを愛好しているかもしれない。公私を問わず、誰に見られようと、まったく後ろめたさもなく正々堂々と正真正銘の消費者として生活していたら、これは大いに褒めてあげてもいいことだろう。

古い話ゆえ叱られることはないから告白するが、ぼくは大手家電メーカーのP社とS社の広報・販売促進を同時に手掛けていた時期がある。どちらかと言えば、P社は他社の仕事をすることに寛容であったが、S社は一業種一社を絶対条件としていた。オフィスで使っていたテレビは両社いずれでもない他社製であったから、テレビのない部屋で打ち合わせをしていた。いつまでも隠し通せないと観念して、徐々にテレビやオフィス家電をおおむねS社製に買い換えた。このように、大変な気遣いをしたのを覚えている。二股には勇気がいるのである。

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FN香は、コマーシャルしているあのヘアカラーを何ヵ月かに一回程度使っているのだろうか。自宅で地毛を自分自身で染めているのだろうか。少なくともコマーシャルの設定はそうなっているようである。「そんなの、行きつけの超高級美容サロンで別ブランドの商品で染めているに決まってる」と誰かが言っていたが、真相はわからない。もしそうならば、その美容院であのヘアカラー商品は話題にならないのだろうか。

UAは自宅でもガスで調理しているのだろうか。まさか自宅がオール電化などということはないのだろう。いやいや、もしオール電化であったとしたら、その一部をわざわざガスへと再リフォームしたとは考えにくい。あの人は役柄上のみガスを使っていて、実際は電気党かもしれないのだ。では、YS百合とK雪はどうだろう。前者のあの人はS社のテレビ映像を楽しみ、P社製では見ないのか。後者のあの人は、その逆なのか(こう書いてから「あっ」と気づいたが、ぼくが直面したジレンマのP社とS社の実名がわかる人にはわかってしまった。書き直すのも面倒なので、このままにしておく。なにしろもう時効だから)。

ぼくはビール党ではない(ビール党のみならず、あまり熱心な左党ではない)。にもかかわらず、あのYE吉のビールの飲みっぷりを見るたびに、特にこの夏のような酷暑の夕方にはグラスに注いで飲んでみようかとそそのかされたものだ。あの人、あのメーカーのあのビールを契約期間中に飲み放題なんだろうなと想像する。だが、K社やA社のビールを飲んでいたらがっかりだろうな。いや、ビール党でない可能性だってある。TM和もハム嫌いでないことを願うが、みんな芸達者な人たちだから、本物のペルソナは素人にはわからない。

消極的な選択

「高度情報化」には少々古めかしい響きを感じるようになったが、相変わらず油断も隙もない現象である。あっという間に話題やニュースを次から次へと急流に乗せて記憶の彼方へと追いやってしまう。もちろん、尖閣諸島問題のようなこじれた事件は日々更新されるので、日中関係という大きな水脈でとらえることはできる。しかし、国内の政治経済的な事柄は、たとえそれがマクロ的な類であっても、喉元過ぎれば何とやらの様相を呈する。

「消極的な選択」が取りざたされてからまだ一ヵ月も経っていない。にもかかわらず、ぼくがその話を持ちかけても周囲の誰も反応しなくなった。いや、反応どころか、すっかり忘れてしまっている。はるか遠い昔の思い出ですらかすかに再生できるというのに、つい先日の一件に対して「そんな話、あったっけ?」という具合なのである。

菅直人が民主党の代表に再選されてから今日で丸三週間が過ぎた。選挙の翌日、一部の新聞が「菅直人再選は消極的な選択」と書き、この論調を真似たのかどうか知らないが、テレビの報道でも同様のコメントが繰り返された。党員もサポーターも、地方議員も国会議員も、菅直人の支持者はみんな「やむなく投票」した、という主張である。これを「小沢一郎に対する積極的な拒否の裏返し」と分析していた紙面もあった。マスコミが事前におこなった世論調査も「菅のほうがまし」という結果だったのか。

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ちょっと待てよ、とぼくは立ち止まる。消極的な選択に何か問題でもあるのだろうか。ぼくたちがやむなく――場合によっては、嫌々――何事かを決めるのは、なにも民主党の代表選に限った話ではない。ぼく自身の過去の投票実態を振り返ってみれば、積極的に選択したケースは圧倒的に少ないことがわかる。選挙を棄権すべきではないと殊勝な心掛けをしているので、選挙当日に投票会場に行くか期日前に投票を済ませる。そして、ほとんどの場合、消去法的に候補者を選んできた。

考えてみれば、そんなものなのである。自分が理想とする候補者がそこらじゅうにいるわけがないのだ。市長選や知事選になれば選択肢も減る。この人でなければいかんと言い得るのは後援団体に属する熱烈なシンパだからであって、無党派であれ特定の党の支持者であれ、平均的な有権者はたいていの場合、消極的な選択をしていると思われる。「五十歩百歩だが、それなら百歩のほうを選んでおくか」という決め方がだいたいの相場なのではないか。仕事上の決断でも、そんな選択が少なくない。

腹が減ったが、時間がない。後先考えずに飛び込んだ店のランチが三種類。解凍系のコロッケ定食に旬外れの煮魚定食、それに昨日も食べた豚の生姜焼き定食。こんなとき、入った手前、Uターンして出るに出れず、不承不承席に着いて「一番悪くなさそうなランチ」を消極的に選択するではないか。実際、そんな店で「ふ~ん」とため息ついて、「コロッケ定食でいいや、、、」と注文している客が案外多いのである。明らかに積極性はない。

それで、何か都合が悪いのだろうか。ぼくたちの日々の意思決定では諸手を上げて賛成という場面のほうがむしろ少ないのだ。とびきりの高望みをしているわけではないのに、やっぱりぼくたちにはそれなりの理想像があるし、あってしかるべきだろう。その理想像にぴったりの人物や食事に頻繁に出合えるものではない。居直るつもりはないが、消極的選択でいいのである。少なくともそれは拒絶ではなく、選択なのだから。 

人の何に賭けるのか

「賭け」と口に出しただけで危うい匂いが漂ってくる。賭け事ということばに爽やかなニュアンスはない。うしろめたく、まっとうではなく、堂々と胸を張りにくい。だから、その方面の愛好家は賭け事などと呼ばずに、「競馬」や「パチンコ」や「麻雀」などと遊戯内容を明かすことによってマイナスイメージをやわらげようとする。

それでも、求人募集に応募した面接で「趣味は競馬です」とか「パチンコファンです」などと情報公開する者はほとんどいないだろう。万が一「趣味は賭け事です」などと舌を滑らせてしまったら、競馬やパチンコ関連業でも不採用になるかもしれない。別の場面、たとえば何らかの決意表明などでも、「ここが勝負どころです」と言うのはいいが、「一か八かの賭けに出ます」は向こう見ずで物騒だ。安心して見ていられない。

ところが、ことばにして「賭け」とは言わずとも、ぼくたちは様々な状況で何がしかの賭けを人に対しておこなっている。面接をして誰を採用するか、その判断は一種の賭けである。応募者も「趣味は賭け事」と言わないし、面接官も「よし、君に賭けた」とは言わない。しかし、一方は会社の未来に賭け、他方は将来の人材に賭けている。

賭博は偶然性の要素を含む勝負事であるが、回数を重ねていくと強者・弱者に色分けされる。人材の成長可能性を読むのを賭け事と同じ扱いするつもりはないが、まったく非なるものとも言い難い。なぜなら、過去の実績と現在の技能や力量を踏まえ、将来性を見極めて採否の決定を下すのは、その人物への賭けにほかならないからだ。賭けは当たるかもしれないし、外れるかもしれない。経験を積んだ人事の眼力が問われるところである。

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だが、学校を出たばかりの若者の成長可能性を見抜くのは容易ではない。履歴書というペーパーに記載された出身大学やその他諸々の経歴・賞罰という「事実」、そして面接と入社試験の成績(あるいは縁故など)が、はたして精度の高い評価を支える証拠になりうるのか。確率論的にはなりうるだろうが、評価はあくまでも個人単位である。ところが、国家公務員住宅の家賃が相場の半額以下という事実が明るみに出た昨年11月、著名人がまさかというコメントをしているのを聞いて呆れてしまった。

元検事の評論家と行政学専門の大学教授は「家賃が高いと優秀な公務員が集まらない」と、ぬけぬけと言ってのけたのだ。彼らが言う「優秀な公務員」とは実績を積んだ社会人ではなく、新卒のことである。つまり、「優秀な公務員になるであろう新卒を集めるためには、世間の家賃相場の半分以下で住宅を用意せねばならない」と言っているのである。

優遇を期待して公務員になる人間と、そんなことなど当てにもせずに公務員を志望する人間がいるだろう。前者が優秀で後者がさほどでもないなどという推論は当然成り立たない。二十二、三才の時点で公務員マンションに格安で住もうとする連中を、優秀な公務員候補と格付けしてしまう愚かしさをわらうべし。現状の優秀性のみを見て成長可能性に目配りなどまったくしていない。まるでデータ重視の本命主義だ。安い家賃や住宅手当に期待などせぬ活きのいいダークホースに賭けてみる勇気はないのか。