「義理チョコ」の是非

「義理チョコの是非」を本気でぼくが問うことは絶対にない。結論から言うと、是でも非でもなく、好きか嫌いかの話にすぎないと思っている。たとえ百害一利であろうと、はたまた百利一害であろうと、一人ひとりが義理チョコを贈るか贈らないか、あるいは貰うか貰わないかを、自分自身で判断するしかない。また、貰った義理チョコに対して一ヵ月後にお返しをするかしないかも男性諸君の判断に委ねるしかない。

バレンタインデーが近づいてくると、「バレンタインデーなんかいらない」という論題や「バレンタインデーの義理チョコをやめるべきである」という論題を思い出す。ディベートの議論のテーマを論題と呼ぶが、バレンタインデーとチョコレートは入門者向けの格好の価値論題になってくれる。実際、かつてぼくの二日間ディベート入門研修の初日に実施する「ミニディベート」では、バレンタインデーをネタにした論題をよく扱った(なお、ミニディベートとはぼく独自の簡易ディベートの命名で、ふつうは「マイクロディベート」と呼ばれている)。

バレンタインデーの由来にまで遡って論争するまでもないだろう。また、いつ義理チョコが始まったかを追及しても意味がない。国や地方自治体、あるいは職場で義理チョコを制度にしているわけではないから、嫌なら習慣に縛られなければいい。そう、義理チョコの是非は政策論などではないのだ。だいたいがチョコレートを贈るのに「本命」も「義理」もないだろう。ダイヤの指輪を義理でプレゼントする男性はいないだろうし、一人の愛する女性に贈るときに「本命ダイヤ」ということばが彼の脳裏をよぎることもあるまい。職場の好きな人にチョコを贈っていたが、その人だけに贈ると目立つので、カモフラージュするためにその他の男性にも配った。それを義理チョコと呼ぶようになっただけの話ではないか。お中元・お歳暮もよく似たものである。

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繰り返すが、義理チョコの是非は政策論ではない。広く容認された社会的慣習やしきたりでもない。あくまでも個人の判断に委ねられる年に一回のパーソナルイベントにすぎない。ゆえに、是非を議論するのなら、価値論でなくてはならないだろう。価値論は「本来白黒のつかないことを、白黒をつけるべく相反する議論を交わす」。最終的には本人が決めればいいのだが、せっかくだから遊び心で是非の白黒をつけようじゃないか――こんなふうに構えて議論するならいい。アームチェアーに座ってのディベートならともかく、実社会では成人が真顔で義理チョコの是非を論争したり論評したりしないほうがよろしい。あまりにも幼すぎる。

新聞に次のような四十過ぎの男性の投稿があった。

「『義理チョコ』をもらった男性が甘いものが嫌いだったり、お返しとかで経済的にも精神的にも負担をかけたりする場合があるからです。(中略)バレンタインデーにチョコを贈るのは製菓会社の商戦と割り切り、商魂に踊らされた贈り物、特に『義理チョコ』の習慣はやめるべきではないでしょうか。」(傍線岡野)

反論の内容よりも、下線部の問いかけが詮無いことなのである。制度でも何でもないのだから、投稿者が何と言おうと、義理チョコの習慣をやめるかやめないかは当事者たちが決めればいいことだ。いや、この投稿者だって「やめるべき」という個人的な意見を述べたにすぎないという見方もあるだろう。それならば、「製菓会社の商戦」とか「商魂に踊らされた贈り物」などという社会的な理由にまで論点を広げなくてもいい。バレンタインデーシーズンに限らず、製菓会社はいつでも商戦を繰り広げているし、商魂に踊らされた贈り物を持ち出すのなら、ビールも海苔もハムも同じだ。そもそも企業は商戦と商魂によって商売を成立させているのである。甘いものが嫌いな男性にチョコレートを贈るように、アルコールを飲まない人にビールを贈ることだってある。それが社交や交際の常である。

義理チョコ。贈りたければ贈ればよろしい。貰いたければ黙って貰えばよろしい。経済的・精神的負担になるなら贈らねばいいし、お返しが経済的・精神的負担になるならば貰わねばよろしい。そんなことをすると職場の人間関係がギスギスするなら、つべこべ言わずに、その程度の人間関係の職場だと割り切って義理チョコを贈り贈られ続ければよろしい。なお、聞くところによると、バレンタインデーが日曜日だとほっとする人が多いそうだが、案外その点にこそ義理チョコへの本意がありそうだ。   

適者生存について

オフィスのぼくの椅子の後ろの本棚に、ジェームズ・アレンの『「思考」が運命を変える』がずいぶん以前から収まっている。最近はこの手の生き方の手引き書をあまり読むことはないが、若い頃はデール・カーネギーなどを英文でよく読んだものだ。アレンの本も二、三冊読んだ記憶がある。「思考が運命を変える」という主張に対するぼくのスタンスは賛否五分五分。思考要因もあるが、環境や風土などの構造要因もあって、思考もその枠内で決定されるはずとも考えている。

その本のまえがきには次のように書かれている。

進化論には「適者生存」という考え方があるが、思考や行動においても、よい思考や行動が環境にもっとも適した「適者」として生き残り、悪い思考や行動は滅んでいく。

人類の歴史全体で見れば適者生存してきたかもしれない。また、好ましい思考や行動をする者が適者として残ってほしいという願望もある。だが、悲しいかな、現実が必ずしもそのようになってはいない。馬鹿げた思考をしたり愚かな行動に出たりする者が案外うまく立ち回って生き残り、適者を従えて威張ったりしているではないか。アレンは「原因と結果の法則は完璧な法則」と言うが、部分的・個別に見れば、好ましくない原因が成功という結果をもたらしているケースが結構目立つのだ。

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というふうに、一見アレンにイチャモンをつけたようだが、原因と結果の法則がほぼ完璧に当てはまる例がある。それは飲食業界である。「まずくてぼったくり」は不適店であり必ず淘汰され、「うまくてリーズナブル」は生き残る。顧客獲得競争にあって、前者は滅びてしまうのである。年が明けてから、出張も少ないので、プチマーケティング研究を兼ねてオフィス近くの飲食店をつぶさに観察し、実際にランチに立ち寄ってもみた。この界隈で創業してから23年目、飲食店事情には店舗側のオーナーや料理人以上に精通していると自負している。

アレンの適者生存論が見事に当てはまる。勝ち組と負け組の鮮明な構図が浮かび上がるのだ。現在は勝敗が明確になって、負け組が閉店・廃業しつつある。つまり、店舗減少期に差し掛かり、少数の勝ち組が生き残ってそれらの店に客が集中している状況だ。競合激化から寡占共存の様相を呈している、と言ってもよい。隣のビルの地下のテナントなどはこの一年で三回変わった。現在の店も風前の灯、まもなく消えそうな雰囲気だ。おそらく、しばらくは少数の勝ち組だけが客の常連化に成功し、客を奪い合うのではなく分かち合って繁栄していくのだろう。勝つ者は鬼のように勝ち続け、負ける者はあっけなく滅びてゆく。

ところで、朝青龍はどうだったのだろう。最後の一事は論外だが、ある価値観から見た好ましくない行動の数々にもかかわらず、彼は頂点に君臨してきた。そういう意味では絵に描いたような「最適者生存」の例であった。だが、意に反して相撲界引退という幕切れは、彼が結果的に適者ではなかったことを意味する。彼に同情することはないかもしれないが、記者会見を見ていてぼくは思ったのだ。世界に出て行き活躍しているわが国のアスリートたちの、いったい誰があのような場面でその国の言語で質疑応答がこなせるのか。わずかに中田がイタリア語でヒーロー会見したのを知っているだけである。

見誤ってはいけない。顔は日本人のようで同じアジア人と思ってしまうだろうが、彼は騎馬民族の末裔、大草原で生まれ育ったモンゴル人なのである。思考構造は日本人とはだいぶ違うのだ。その彼の言語能力にぼくは舌を巻く。問われているのは、彼の品格や身の振り方なのではなく、相撲界という鎖国社会の中途半端な規範主義なのではないか。国技なのか国際的格闘技か? 日本固有の古典的興行なのかオープンなスポーツなのか? 自らの適者生存の危うさに気づかねばならないのは、相撲協会のほうだろう。  

「どうぞ戦ってください」

年明けの一月中旬にして、本年度流行語大賞の有力候補に躍り出た。「どうぞ戦ってください」は、「信じているということは、幹事長続投ということでよろしいか?」という記者の質問への答えの一部だ。正確に引用すると、「幹事長、辞めるつもりはないと、そのように申していますから、私も小沢幹事長を信じています。どうぞ戦ってくださいと、そう申し上げています」と首相は言ったのである。

下野した党は、検察への戦闘宣言だとざわめいているが、首相の言から「民主党が党を挙げて検察と戦う」などというニュアンスはぼくには伝わってこない。感じるのはむしろ、われ関せずの冷ややかさであって、「小沢さん、孤軍奮闘してください。陰ながら見守っていますから」と聞こえてくる。応援するとも言っていない。党の問題ではなく、どこまで行ってもあなたの問題ですよ、というのが本意ではないか。

結局、どこの党の誰がこの国のリーダーになっても、起こる問題も解決への姿勢もコメントも、予想される収束も同じなのだろう。言い逃れ、責任のとり方、常套句など、政権が変わるたびに毎度同じものを見聞きする。先日テレビ番組で、鳩山由紀夫から歴代総理を遡っていくクイズがあった。麻生太郎、福田康夫、安倍晋三、小泉純一郎、森喜朗、小渕恵三、橋本龍太郎、村山富市、羽田孜、細川護熙、宮澤喜一、海部俊樹、宇野宗佑、竹下登、中曾根康弘、鈴木善幸、大平正芳、福田赳夫……。際限はあるが、まだまだ続くのでここでやめるが、これだけ日替わり定食みたいに変わっていたら、変化こそ不変のような法則を感じ取ってしまう。

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福田赳夫が67代で42人目の首相。就任が1976年だ。以来、鳩山氏まで19人の総理大臣が名を連ねる。福田氏と同時期の1976年、英国ではジェームズ・キャラハンが首相だった。次いでマーガレット・サッチャー、ジョン・メージャー、トニー・ブレアと続き、現在はゴードン・ブラウンだ。わずか5人である。わが国では首相になるべき人材が豊富だったのか、それとも英国の4倍分ほど希釈する程度のポジションだったのか。間違いなく言えることは、「1976年まで首相を遡って答えよ」というクイズやテストは英国では出題されないだろう。

米国大統領を同時期まで遡ってみた。バラク・オバマ、ジョージ・W・ブッシュ、ビル・クリントン、ジョージ・HW・ブッシュ、ロナルド・レーガン、ジミー・カーター(19771月就任)の以上6名。こちらもテスト問題になりにくい。ちなみにわが国の初代首相伊藤博文から数えて鳩山由紀夫は60人目で、第93代内閣総理大臣である。この間、124年。アメリカの初代大統領ジョージ・ワシントンから220年、現在のオバマは44代目だ。一国のリーダーがわが国ほど安売りされている国も珍しい。

「官僚主導から政治主導へ」と言ってみたところで、在任期間が短ければ職務に精通している暇はないだろう。首相でこれだから他の大臣ならなおさらである。ぼくの知る大企業では、同一職場での在職期間の長い派遣社員のほうが正社員よりも仕事をよく知っている。これとよく似た状況だ。皮肉ったり苦笑している場合でないのかもしれない。ここ最近の歴代首相の「お坊ちゃまぶり」には呆れ返るばかりである。ことばに力と心がこもっていないのは言うに及ばず、なにかにつけて態度が他人事なのである。困ったものだ。 

会話に飢える人々

ものの売り買いにともなうことばのやりとりは、たとえば昭和30年代では現在よりも多かったはずだ。家族団欒にともなう談話と並んで、買物に際しての会話は日々のコミュニケーションにあって質と量のいずれも重要であった。町内では角のタバコ屋に喫茶店、駄菓子屋に金物店、二筋ほど向こうの商店街には食材の店が立ち並んだ。会話なしに買物はできなかった。いや、ものを売ったり買ったりする行為自体がコミュニケーションのレールの上を走ることにほかならなかった。

昨日こんな話を聞いた。スーパー入口前の駐輪場で高齢の女性客と、これまた還暦を過ぎている駐輪整理係の女性が立ち話をしていた。店内で買物をすること10分弱、外に出ると駐輪場では二人が寒風の中でまだ話し込んでいたそうだ。聞き耳を立てれば、次のような声が聞こえてきたという。「一人暮らしのうえに、商店街のないこの界隈ではコンビニやスーパーばかり。ただ商品を選んで黙ってお金を出してお釣りをもらうだけ。形だけの愛想があるだけで、話す機会などまったくない」。

少し考えさせられた。核家族化が当たり前になって一人暮らしの高齢者が増えた。家庭での会話は当然消えてしまっている。かつて毎日通った商店街は重く翳り、昔なじみがどんどん廃業していく。足腰が弱って商店街を歩く元気もない。便利なスーパーで日々少量の食材をまかなうのもやむをえない。レジで立ち話はないだろうし、別のお客さんとの世間話もありそうもない。先の駐輪場係の女性が面倒がらずにお客さんと立ち話をした背景には、彼女にも会話への飢えがあったに違いない。これは高齢者限定の話ではない。

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身近な会話が消えた。町内や街中から「話のある買物光景」が消えた。とはいえ、しーんと静まり返っているわけではない。潤いのあるやりとりに代わって、処理手続のための雑音は増幅している。最近のお笑い芸人がコンビニのネタを披露し観客が笑いころげる。店員のマニュアルトークが不自然であり常識から外れているからである。多数の人々がそう感じているから舞台上で取り上げられると笑う。しかし、慣れは恐い。現実のコンビニに行けば、そのようなトークで平然と買物を済ませてしまうのだ。

魅力ある街と人間味という観点から、ぼくはコンビニと自動販売機の廃止論をずっと唱えてきた。メリットとデメリットを天秤にかけて議論する猶予はない。一切合財の経済効果や便宜性や雇用などの条件も考慮しない。ひたすらデメリットだけを取り上げれば、まず第一に、コンビニも自販機も美しくないのである。街の景観価値を高める存在ではない。第二に、売り手が商売の工夫をしないのである。商品について知らなくても売れてしまうのだ。第三に、会話の不在である。会話なんていらないという買い物客がいるのを知っているが、沈黙の売買関係はまるで覚醒剤の取引みたいではないか。

自販機に音声合成の仕掛けをしてもムダである。それこそ処理手続が最大関心事であることの証になっている。コンビニ店員のほとんどが音声合成的に決まり文句を告げる。コンビニはかぎりなく大型自販機へと変貌していく。いつぞや酒屋に行き、新製品のビールの味を尋ねれば、二代目らしき若い主人が「私は酒を飲まないんで、わからない」と答え、「じゃあ、○○をください」と言えば、「冷えたのがないので、表の自動販売機で買ってください」と言われた。なるほど、これだって会話にはなっている。但し、処理手続の会話だ。こうして、商売から味が消え、関係の妙が消え、街は会話と景観を失う。  

総意誤認する人々

「地下街を歩いている時に地震。そのとっさの状況であなたはどういう行動をとるでしょうか?」 こう質問されると、ほとんどの人は「たぶん落ち着いて行動すると思う」と答える。周囲を見渡し冷静に判断したのちに非常階段を探すのだろうか。それとも、地下街にいてシェルターになりそうな場所に身を潜めるのだろうか。いずれにしても「慌てふためくと思います」と回答する人はまずいない。

ところが、同じ質問の主語を変えて尋ねてみる。「地下街を歩いている時に地震。そのとっさの状況で、他の人たちはどういう行動をとると思いますか?」 この問いに対して、尋ねられた個人は「慌てて非常出口に向かうだろう」と答える傾向が強いというのだ。「この私を除くみんな」がパニックに陥るのである。自分だけがすました顔をして集団心理の外にいる。

詳しいことは知らないが、この種の話はその分野のいろんな本で取り上げられているに違いない。書名は忘れたが、ぼくもだいぶ前にパニックか心理学かの本で上記の事例を読んだ。コメントをする。総意はこうだろう、但し私は例外――というのはよくあることだ。「ユダヤ人差別を論じる著者のほとんどが、自分だけは差別とは無縁だと決めてかかっている」(オーウェル)ということばもそれを示している。「われわれみんな」という一人称複数で誰かが何かを語る時、当の本人を含めているか除外しているかを聴き分けてみれば、話に違った含みが感知できる。

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おもしろいことに、この逆もあるのだ。そして、そこにも人間のエゴイストぶり、我田引水の生き様が見え隠れする。それは他人の態度分析における《総意誤認》である。「ある大阪のオバチャンが自分の着ている服の豹柄が全国区であると信じ、それが誤まった認識であることに気づいていないこと」と言えばわかるだろうか。「デパートで午後3時にタイムサービス。奥さん、あなたは行かれますか?」と尋ねたら、「もちろん! みんな大勢行かれますよ」と、先の地下街とは違う答えが返ってくる。「私の思いは総意を反映している」という確信がそこにある。

あることについて感想を述べる時、人は自分の感想をコメントする。「私は〇〇だと思う」というように。同時に、その個人的感想なり意見は、暗黙のうちに「他の人たちも自分と同じように考えている」と推論している。一般的に、自分の考えは総意に近いと思っている。自分の常識は世間でも常識だと信じる傾向が強いのだ。個人の見方が総意と重なれば常識人なのだろうが、周囲を見渡すかぎり、そんなに常識人が大勢いるとも思えない。むしろ総意誤認している人だらけである。ぼくが総意誤認グループの一員かどうかは自己診断しにくい。そういう類のものなのだろう。

「私が考えること」と「他人が考えること」が同じなのか違うのか――当てずっぽうでは困る。ここはちゃんと冷静に弁別しておく必要がある。つまり、持論が少数派なのか多数派なのかを知っておくことは、人間関係や組織力学のバランスをとるために欠かせない。フランソワ・ラブレーの「汝の欲することを成せ」を鵜呑みにしていると、総意誤認が起こってしまうから気をつけよう。他人はあなたの善行を迷惑がっているかもしれないからだ。

それでも差異はつくられる

「メニュー全品280円」を売りにする居酒屋がテレビで紹介されていた。ビールも一品料理もすべて280円という。この値段をどう見るか。誰も高いとは言うまい。ならば、安いかリーズナブルか? コストは、味という”パフォーマンス”によって人それぞれが感じるものだろう。

変えてはいけない(あるいは、変える必要がない)価値と、積極的に変えねばならない価値を見極めるのが商売の心得。料理店にとってはここが腕の見せ所だ。その店は今のところ繁盛している。その店では廃業したテナントが残していった什器や備品で使えるものはそのまま流用している。これが不変の価値。と同時に、何でも280円というのは、かつての百均革命に相当する、異端領域への踏み込みである。これが変化の価値。

「居酒屋は安くて旨ければそれでよし」と、満足げな常連たちが異口同音に評価しているらしい。家族で来ていたある主婦は「食べるために来ているのだから、雰囲気は関係ない」と、暗に雰囲気がイマイチであると匂わせながらも、この店のやり方に賛辞を送っていた。賑わっている、客の評価も良好、わかりやすくて安い価格……これら三拍子が揃えば、居酒屋は「形より中身」と結論づけてよいか。「旨ければ付加価値はいらない」を普遍的な公式にしてもよいのか。あいにくなことに、話はそんなに簡単ではない。

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ノーと力強く叫ぶ自信はないが、さりとて手放しでイエスとも言い切れない。優柔不断だが、半分イエス、半分ノーである。半分イエスの根拠は「オール280円の低価格」と「過剰投資をしないインテリア」。この二つは一つのビジネスモデルになりうる。安くて旨いものに憧れる人間心理は、おそらく十中八九不変だろう。

しかしながら、半分ノーにも有力な根拠がある。この280円路線と低コスト内装を他の居酒屋がマネて「売りの目玉」にしはじめたとき、店選びは偶然に委ねられるのだろうか。いや、そうではない。先発・後発とは無関係に、店と店の間にまったく別の差異化ポイントが生まれることになる。安いだけではない何か、旨いだけではない何か、雰囲気以外の何かを求めて人々は店の選択を検討するようになるのだ。

人は飽きる。新しいもの、よりよいものを求めるのが人間の本性である。それゆえに市場価値は巡り巡る。売る人と買う人はいずれもよりすぐれた価値へと向かう。差異化の成功は「次なる淘汰試験」の始まりであり、片時も成功に安住することはできない。昨日の席次一番が、翌日落第の憂き目に遭うかもしれない。異質から同質へ、同質から異質へ……この繰り返しは終わりのない差異化競争を生む。そして、競争はますます熾烈になっている。

「10分進めています」

出張中は歩くことも少なく過食気味になる。今回は月曜日から金曜日までの45日。いつものように食べているとメタボを加速させる。と言うわけで、ホテルでの朝食ビュッフェはパスして、朝は野菜ジュース2杯だけでしのいでいる。今朝はコーヒーを求めて会場近くの喫茶店に寄った。ほとんどのお客さんがモーニングを食べている。モーニング付きもコーヒー単品も値段は同じ400円。トーストとゆで卵に触手が伸びかけたが耐えた。

喫茶店に入ると壁に掛かっている時計を何気なく見てしまう。万が一遅刻すると大変なので、普段以上に時刻に神経質になっている。今朝の店の時計は正確だった。腕時計と携帯の時刻表示も完全に一致していた。ふと同じような雰囲気の大阪のとある喫茶店のことを思い出す。その喫茶店もモーニング目当てのサラリーマンで朝が賑わう。

その喫茶店では時計の針を10分進めている。サラリーマンが遅刻してはいけないという配慮からである。だが、一見さんは、その時計を見て「あれっ?」と一瞬ドキリとし、慌てて自分の腕時計の「正確な(?)時刻」を確認することになる。そして、念のため「あの時計、時刻は合ってます?」と尋ね、「いえ、10分進んでいますよ」と聞いてホッとする。こうなると、わざわざ10分進めている理由がよくわからない。

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別の喫茶店。時刻が正確かどうかを聞くお客さんが増えたのだろうか、その店では時計の下に貼紙がしてあった。なんと「10分進めてあります」と書いてあるのだ。これにはたまげた。とても不思議である。時計を進めた本来の目的が意味を成さなくなっているではないか。時刻を10分進めたのは、会社にせよ電車にせよ、お客さんが遅れないようにという意図だったはず。そこに注意書きがあって「10分進めています」と種明かしをしてしまったら、もはや「正確な時刻」を告げているのと同じである。

常連さんは時計が10分進んでいることをみんな知っている。だから誰も店の時計に目もくれない。つまり、常連さんにとっては時刻の狂いは想定内。ということは、一見さん向け? いや、一見さんに関しては先に書いたような反応を示すから、「お急ぎを」と促してもしかたがない。ぼくとしては、逆に時計を遅らせておき、「この時計は10分遅れています」と小さな貼紙に書いておくほうが、お客さんを慌てさせる効果があると思う。もちろん、正確な時刻の時計が一番であるが……。 

救いがたいほどの”センス”

先週の土曜日である。出張のため朝8時半頃最寄駅から地下鉄に乗った。マスク着用の乗客がちらほら見えるが、土曜日のせいか車内は空いている。ここ三年間職住接近生活をしているので、出張以外はあまり地下鉄に乗る機会はない。たまに乗れば混んでいるので車内の広告にまで目が届かない。その日はゆったり座って車内吊りポスターをじっくり品定めすることができた。

いったいどうしたんだ、大阪市交通局! 思わず内心そう叫び呆れ返った。シイタケとリンゴを擬人化したイラストが描かれた「座席の譲り合いマナー」を促すポスター。そこにはこんな見出しが書かれてあった。

互いに譲って うれシイタケ!
「どうぞ」の笑顔で すっきリンゴ!

これではまるで「おぼっちゃまくん」ではないか。「そんなバナナ」や「おはヨーグルト」を思い出した。いや、こんな言い方はおぼっちゃまくんには失礼だ。おぼっちゃまくんにはダジャレという売りのコンセプトがあった。譲り合いマナーになぜシイタケとリンゴなのか。必然性が見えないから、単なる思いつきのダジャレなのに違いない。一方がキノコで他方が果物というミスマッチも相当にひどい。

正確に言えば、こういう類いのことば遊びはダジャレとは少し違う。技としてはダジャレよりもうんと簡単で、一文字だけ合わせたら一丁上がりだ。これがオーケーなら、「うれシーラカンス」でもいいし「すっきリスザル」でもいい。要するに、「シ」と「リ」で始まる単語なら何だって成立してしまう。

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シイタケとリンゴが大阪市の名産品なら理由もわかる。地下鉄のどこかの駅でシイタケとリンゴの物産展があるのなら、短期の季節キャンペーンだろうとうなずける。だが、そんな深慮遠謀はまったく感じられない。誰がどのような経緯でシイタケとリンゴという案に辿り着いたのか。ぼくの思いもよらぬ狙いがあったのならぜひ聞かせてもらいたいものである。

ポスターでここまで救いがたいほどのセンスを暴露しながら、車掌は「インフルエンザ予防のためにマナーとしてマスクを」と生真面目に車内放送していた。トーンが合っていない。そのポスターを見ながらマイク放送を聞いて、同一の発信源とはとても思えなかった。まあ、こんなことはどうでもいい。何よりも、財政難の折、一人前の大人にマナーを促すようなPR活動にお金を投じるのは即刻やめるべきだろう。

理由づけできること、できないこと

199519日のノートに、あるテレビ番組の話を書いている。ゲストは画家のヒロ・ヤマガタだった。「ヒロさんは、なぜこのような色づかいをされるのですか?」と聞き手が尋ねた。

自慢するほどの腕ではないが、絵を描くのが趣味の一つであるぼくからするときわめてナンセンスな質問である。この問いに対して、ヒロ・ヤマガタはしばし戸惑ってから、こう返した。

「そんなこと考えたこともない。芸術家なんて誰もそんなこと考えて描いてはいないんじゃないか」。案の定である。「なぜ納豆が好きなんですか?」と聞かれて、「好きだからです」以外にどう答えるべきなのか。「あのネバネバ感がたまらないんです」という答えが欲しいのか。よしんばその答えを引き出したからといって、その理由にたまげたり感心していったいどうなるものでもないだろう。

納豆が好きなのも、ある種の色づかいをするのも、もはや習性というものである。いまさら意識の世界に引っ張り出されてしかるべき理由を述べよと迫られても困るのだ。

誰もかれもが哲学や思想があって何かをしているのではない。何かしていることにつねに理由があるわけでもない。説明できるとかできないのほかに、説明して意味があることと意味がないこともある。ヒロ・ヤマガタがその気になれば、「そうですね、この種の色づかいのきっかけは……」と説明しようと思えばできたかもしれない。しかし、仮に説明したとしても聞き手のアナウンサー、あるいはカメラの向こう側の視聴者にどれほどの意味や発見があるというのだ。

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「沢尻さ~ん、ハワイはどうでしたぁ~?」と尋ねて、芸能レポーターはどんな答えを引き出したいのか。あんたが聞かれたら、立ち止まってゆっくり説明するとでも言うのか。ありえない。質問を無視して通り過ぎるのみである。万に一つ、「よかったです」と返事してもらって狂喜乱舞するはずもない。それは想定内の回答に他ならない。

ヒーローインタビューのあの切なさ、気まずさ、凍りつく空気はどうだ。「いいホームランでした!」とマイクを向けられて、無言でうなずくか「はい」か「ありがとうございます」以外に何があるのか。「ツーアウト、二塁、1点リードされているあの場面。どんな気持でバッターボックスに入りましたか?」 この種のインタビューはいい加減にしてほしい。このくだらぬ問いが、「何とかしようと思っていました」「来た球を思い切って打つつもりでした」などの陳腐な受け答えを招いているのである。

ある種の意思決定が下された事柄については理由が存在するだろう。その理由が予想しにくい類ならば聞けばいい。また、尋ねるだけの価値もあるかもしれない。しかし、何でもかんでも安易に「なぜ」と連発するのは聞き手として失格である。インタビューで5W1Hを押さえるのは、新聞記事を書くのと同様に常套手段である。だが、そのWのうち、Why(なぜ)とHow(どのように)はここぞというときの伝家の宝刀でなければならないのだ。

仮面の営業スタッフ

知り合いか自分のどちらかが、この男たちに対応されていたらと思うとぞっとする。「顧客の立場から考え振る舞う」などとキレイごとを教えても、無意識世界の人間の本性は変わらないし変えることができないかもしれない。そんな絶望感に襲われる。

日曜日の昼下がり、とある商店街で買物を済ませ帰路についていた。その商店街に何度か通った整形外科がある(美容整形ではない)。そこからわずか20メートル、交差点角の調剤薬局で薬をもらったのを思い出す。見れば、その薬局はない。そこは賃貸住宅の営業所になっていた。外からよく見えるガラス張りでスタッフが数名いる。交差点で信号待ちしていると、そこから男性スタッフが二人出てきた。ランチに出掛ける様子だ。

信号を渡る。彼らはぼくのすぐ右前を急ぎ足で歩く。二人のうち年上の三十代半ばのほうが、向こうから歩いてきた若い男に声を掛けた。「さっきの親子、どうやった?」 若い男は照れるように首を横に振り、左右の手でバツのジェスチャーをした。「何しとんねん、つかまんかい!」と年上の男。ぼくの前をさらに急ぎ、男二人は商店街から脇道にそれ大衆食堂に入った。不況忍び寄る不動産業界よ、「何言うとんねん、誠意見せんかい!」

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 壁に耳あり障子に目あり。耳と目は壁や障子の向こう側だけにあるとはかぎらない。顧客の耳と目はそこらじゅうにある。耳と目はぼうっとしていることも多いが、ここぞというときには聞き耳を立て目を凝らす。そのことに気づいていない売り手はやがて二枚舌を暴かれ、表と裏、ホンネとタテマエ、天使と悪魔のいずれであるかを見破られる。

通りの角をお客が曲がって消えるまで見送り続ける料亭の女将。見送り届けた直後のことば遣いを聞き、表情を見てみたい。そこに落差ありやなしや。あるとすればどんな落差か。上客におべっかを使ったと思えば、帰った客の金遣いの悪さにチェッと舌打ち。従業員の不手際を怒鳴り散らした直後に、ささやくような声で平身低頭で詫びを入れる。

電話中と電話を切った直後の態度とことばの落差。得意先訪問中と社屋を後にした直後の態度とことばの落差。講演直後には褒めちぎられたものの、パスした懇親会でボロクソの欠席裁判。時々そんな悪夢を見る。だいたいにおいて、異様なほど過分に褒められているなと感じたときは、褒めた連中が陰に回ってから悪口を楽しむだろうと推察していい。

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ある駅に降り立った。徒歩10分ほどの位置にあるホテルがよくわからない。駅前にある賃貸オフィスは、接客中でないにもかかわらず、場所を尋ねるぼくに「知らない」と軽くあしらった。その土地の顧客になりえない出張族への接し方一つで人と店の質がわかる。真剣にこちらが対峙すれば、粉飾された束の間の誠意を見破るのはさほど難しくない。ふだんの習性は、たとえ必死にカモフラージュしても、ことば遣いと立ち居振る舞いに滲み出るものだ。

舞台の上と楽屋での言動を完全一致させることはないし、そんなことは無理な話だろう。しかし、感謝や誠意や親切などは「時と場合に応じて」というものではない。「精神的お辞儀の角度」は表でも裏でも同じだからこそ尊いのだ。営業スタッフよ、むくれた顔になりたくなければ、即刻仮面を外したまえ。

「よく言うよ、あんただって他人批判をよくしているじゃないか」という声が聞こえてきそうだ。たしかにぼくも本人のいないところで毒舌を吐く。しかし、本人がいるところでも同じように毒舌を吐く。相手が無理難題を突きつけてきたとする。泣く泣く持ち帰って陰で悪態をつかない。その場ではっきりと自論を述べる。若い頃は他人の仮面を剥がそうとしてできず、よく失望した。ここ数年は自分自身の仮面と闘っている。仮面は他人に向けられた詐術だが、欺かれる第一の犠牲者は自分自身である。