ノウハウと固定観念の紙一重

 ノウハウ。いちいち考えなくても、条件反射的に成果を導ける。見覚えのある場面で発揮する熟練の技。無意識的に何事かを成し遂げる力。

 固定観念。事にあたって取るべき方法や手段をパターン化する。辿り慣れた常識の絶対視。なじみ親しんできた慣習、法則、かくあらねばならないという強迫観念。

 二つの概念は酷似している。ノウハウだと思って身につけたものが、見方を変えれば明日の臨機応変を阻む固定観念であったなどということはよくある。かと言って、固定観念のない赤子のような精神作用だけで高度な仕事をこなすことはできない。何か「定番」と呼ぶに値するノウハウが欠かせない。

 困ったものだ。ぼやぼやしたり安住したりしていると、ノウハウはすぐに固定観念に化けてしまう。技を磨いてきたつもりが、気がつけば身動きできぬ状態になっている。

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 両者の紙一重の違いをどう察知すればよいのか。ぼくは、ノウハウを「型に溺れない型」、固定観念を「型に溺れる型」ととらえている。あるいは、それぞれを「変化に強い型」と「変化に弱い型」と言い換えてもよい。

 固定観念は行く手に立ちはだかる内なる壁である。財産であるとかたくなに信じてきたものが壁となって新しい仕事の邪魔をする。地図の読み方は習得した。しかし、地図の縮小率や色分けが変わってしまうと途端に窮してしまう。

 ノウハウは行く手を切り開く道具である。手に入れてきた道具を微妙に調整し、時には敢えて陳腐化したものを捨てる勇気である。地図の種類が変わっても自分が置かれた場所が変わっても、習得してきた地図の読み方が生かせる。

 ノウハウを固定観念という過去の遺物へと凋落させるのは未練であり執着である。加速化し多様化する時代にあって、ノウハウは短命を余儀なくされる。ノウハウを駆使できる仕事の賞味期限も短い。大胆に修正したり、場合によっては潔くシフトしたりすることが、真にノウハウを生かす道なのだろう。

 こうして切磋琢磨され取捨選択された結果、それでもなお残りうるものこそが、普遍的ノウハウの地位を築く。それはもはやノウハウの域を脱して、「知恵」と呼ぶにふさわしい。  

「問題ない」という問題

MONDAINAI(モンダイナイ)。

ローマ字・カタカナのいずれの表記も、いまや堂々たる国際語になったMOTTAINAI(モッタイナイ)と酷似している。だが、モンダイナイは世界の市民権を得るには至らなかった。

1980年頃からアメリカ人、イギリス人、オーストラリア人らと一緒に仕事をしていた。日本企業の海外向けPR担当ディレクターとして英文コピーライターチームを率いていたのである。彼らはみんな親日家であり、日本の企業で生き残ろうと自己アピールをし、自分の文章スタイルに関してはとても頑固であった。

日本語に堪能なライターもいればカタコトしか解せぬ者もいた。しかし、どういうわけか、「ノープロブレム(心配無用)」を「モンダイナイ」と言う傾向があった。これはあくまでも想像だが、彼らは「日本人が問題を水に流したり棚に上げたりするのが得意」ということを知っていて、別に解決していなくても当面問題が見えなければ良しとする習性に波長を合わせていたのではないか。

「モンダイナイ」とつぶやいておけば、とりあえず日本人は安心するだろうという一種の悪知恵であり処世訓だったかもしれない。しかし、彼らを責めることはできない。「腫れ物と問題は三日でひく」という諺があっても不思議でないほど、この国では「問題の自然解消」に期待する。さらに、小学校から慣れ親しんだマルバツ式テストのせいで、当てずっぽうでも50%の正解を得てしまう。問題がまぐれでも解けてしまうと錯覚している。

問題に対する姿勢を見るにつけ、日本人にとって問題解決は厄払いに近いと親日家たちが判断したのも無理はない。問題を水に流すなど、まさに厄払いそっくりだ。問題を棚に上げるように、祈願の札も神棚に奉る。TQCさえやれば問題なんてへっちゃらと思うのは、厄をぜんざいの中に放り込んでみんなで食べてしまうみたいだ。

こうした観察が「モンダイナイ」を生み出した。しかし、彼らは日本語の助詞が苦手である。そのため、三つの文脈すべてにおいて「モンダイナイ」を使ってしまう。正しく言えば、「モンダイナイ」は、(1) 問題(にし)ない、(2) 問題(を見)ない、(3) 問題(は解決して、もうここには)ない、というニュアンスを秘めている。

この用語の使い手の名人はアメリカ人のCだった。

ぼく 「(英文を見せながら)Cさん、これで大丈夫?」
C   「うん、それでモンダイナイ」
ぼく 「もし、誰かが文句をつけてきたら……」
C   「でも、モンダイナイから大丈夫」
ぼく 「ちょっと待ってよ、それでいいの?」
C   「そう、モンダイナイから平気」

と、まあ、会話の中にキーワードがふんだんに織り込まれるのである。これは禅問答ではない。彼は理路整然と受け答えしているのだ。上記の会話にニュアンスを足し算すると、次のようになる。

ぼく 「(英文を見せながら)Cさん、これで大丈夫?」
C   「うん、その文章の問題はすでに解決して、もうここにはない」
ぼく 「もし、誰かが文句をつけてきたら……」
C   「仮に問題があっても、それを見ないから大丈夫」
ぼく 「ちょっと待ってよ、それでいいの?」
C   「そう、問題にしないから平気」

ここまで解釈できない日本人スタッフはみんな「モンダイナイ」の三連発に安堵して、後日責任を負ってしまう。リスク管理に神経を使うぼくだが、それでも二度痛い目に合った。これは容赦できんとばかりに二度目の後に徹底的に詰問した。

Cさん、あれだけ自信をもって大丈夫だと繰り返していたくせに、問題が出たじゃないか! どういうつもりなんだ!?」とぼく。Cは身長190cmの巨体を縮め肩も狭め、小さくかすれた声でつぶやいた。「ごめん。モンダイナイ……つもりだった」。

彼はまだ素直なほうなのだ。彼以上に日本慣れしてくると、「どうしてくれるんだ!?」という怒号に対して、「じゃあ、もう一度モンダイナイようにしてあげよう」とケロリと言ってのける。そして、このときにかぎって英語で”ノープロブレム”と付け足すのだった。

「問題ない」を口癖にしている問題児、水に流し棚に上げて知らんぷりしている社員、あなたの回りにも必ずいる。たぶんそいつにオフィスの着席権を与えてはいけない。

プロの醜い泣き言

この企業名は明かせないが、トップが知ったら中間管理職の実態に絶望するだろう。

もちろん重体をみすみす放置しようと思ったわけではない。研修所感というものが講師には義務づけられているので、絶望に近いコメントをしたためはした。しかし、悪いことをいくら嘆いてもしかたがないというスタンスに立つぼくは、問題分析よりも対策を中心にまとめて報告した。したがって、現状のまずい部分は軽く読み飛ばされたかもしれない。いずれにせよ、この種の所感がトップまで届く可能性がないのもこの企業の特徴である。

研修で学びながら、ほぼ全員がネガティブな姿勢を崩さない。これだけ見事な悲観的空気を漂わせようとしたら、普段から習慣的にマイナス思考をしておかねば無理である。上司に何を提案しても通らず、顧客からも厳しく反応される。どうしようもない現実……その現実を前にしての己の無力……演習時も休憩時も嘆き節の泣き言を漏らす。

こうして生涯、定年を迎えるまで、泣く泣く仕事をし続けるのだろう。傍らから見ていると、いくらでもアイデアの出る業界であり、どうにでもおもしろくできる仕事に思えるのだが、渦中の人々にはそれがわからない。

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休憩時間。一人の、いくらかでも他の人よりも憂慮の度合いが薄そうな人が質問してきたので、現実的なアドバイスをした。ぼくの話にうなずきながらも、「そうはおっしゃっても」と前置きして、厳しい現実を語り始めた。その厳しさ、ぼくにとっては何がそんなに厳しいのか理解できない。

「はは~ん、なるほど」と気がついた。この集団は、愚痴・不満・弱音・泣き言が趣味のサークルであり、挨拶代わりの共通言語にしているのである。プロとしての自覚はある。にもかかわらず動かぬ現実に直面する辛い思いの日々。「サークルの一員でもなく、オレたちと言語を異にし、研修という瞬間の窓から覗くあんたにはわかるまい」とでも言いたげなのだ。

泣き言を初対面の人間に平気でぶつけてくるこの神経はどうだ。仕事というものは、「大変だ」と嘆くほどに実際は大変ではなく、「簡単だ」と片付けるほどには簡単ではない。だが、これだけは言っておこう。楽しまずして何が仕事か、どんだけ~のプロか!? 極まったら、泣くのではなく、笑うのだ。プロが泣き言を垂れるときはギャグでなければならない。

辛い、疲れた、利益が出ない、アイデアに困る、外部環境が悪すぎる、今日の受講生はレベルが低い……たしかにぼくも泣き言とは無縁ではない。だが、ぼくがこのようにぶつくさ言うときは、つねにギャグなのである(笑)。 

“彼”はなぜ褒め、なぜ問うのか?

またセールスマンがやって来た。ノックしてしばし、応答と同時にドアを開け、満面に笑みを湛え、型通りな挨拶をして入ってきた。藤崎マーケットには悪いけれど、あの「ララララ」で小躍りするときの表情にそっくりだった。

初顔である。アポでもしていないかぎり、飛び込みのセールスマンに「ようこそ! お待ちしていました」とホスピタリティを示さなくても罪には問われまい。

彼は瞬時にオフィスの中を見渡した。一人で「ラーイ?」と装っているような目つきだ。彼の立ち位置からは複合機が見える。レーザープリンター、複写機、ファックスのオールインワン機器。

 「立派なのをお使いですね」とまず褒めてきた。

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いま、話の続きを書こうとして、逡巡した。こんな小ネタを取り上げて、よくもまあへそ曲がりなコメントをしようとしている自分が、もしかすると間違っているのではないか、と。おまけにエアロビコメディアンになぞらえたりして。しかし、いくらセールスの常套手段とはいえ、やっぱり変なのだ。初対面で「そのスーツ、お似合いですね」という褒め言葉が不自然なように、「複合機が立派です」と持ち上げるのは異様である。

考えてみれば、褒めるのはむずかしい。あまり可愛くない子どもを褒めたり中途半端に禿げている人を褒めるのは苦手である。なぜなら、褒めるというのは長所の抽出作業であるからだ。それには抽出の理由も求められる。禿げている人を褒めるとき、ぼくたちは通念の逆説を正当化せねばならない。同時に、それを成熟の証明に求めたとしても、なおも、なぜ成熟していることが、この際に褒める対象になるかを示さねばならないのである。

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以上のような「考察」を常としているぼくである。違和感の強い褒めに対しては、「なぜ?」と聞き返すのが習性になっている。で、一呼吸おいて聞こうとした。聞こうとしたら、”彼”がこう続けたのである。

「調子はどうですか?」

「調子いいですよ」という波長合わせはあまりにもお人好しだろう。「あなたにこの機械のコンディションを伝える義務はない!」――これが正しい応酬というものだ。販売者でもなくメンテナンス責任者でもない”彼”になぜレポートしなければならないのか。

つい硬派な対応をしたので”彼”はひるんだ。根が人情味のあるぼくはすぐに甘くなる。そこで、好奇心から聞いてみたら、厳しい門前払いが続く昨今、辿り着いたのが「機械の賞賛とご機嫌伺い」という切り口だと言う。

もう飛び込みセールスへの硬派な対応はやめようか。「立派な機械ですね」「ほんと? 褒めていただき、サンキュー!」「調子はいかがですか?」 「結構、最高、絶好調!」  こんな具合にノッてあげようか。

その日の”彼”の営業訪問日誌にこう書かれるだろう。「P社の代表は、空テンションが高い」。ありがと~。 

はい。はい。はい。

週に一回、出社前に近くのカフェに寄ることがある。自宅でも一杯飲んでいるので、注文するのはたいてい濃くて少量のエスプレッソかカフェラテである。ちなみに、カフェラテはエスプレッソコーヒーに泡立てたミルクを注ぎ、カフェオーレはふつうのコーヒーに温めたミルクを混ぜる。今朝はアイスカフェラテを注文した。

「アイスカフェラテ、ください」 (千円札を出す)
「店内でお召し上がりですか?」
「はい」 (一度目)
「千円からでよろしいですか?」 (「よろしかったですか」よりはマシか)
「はい」 (二度目)
「シロップはお付けしますか?」
「はい」 (三度目)

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一人で来たので、さすがに「一杯ですね?」とは聞かれなかった。そう聞かれていたら、「はい。はい。はい。はい。」になっていたわけだ。四度でなく、三度で済んだことが「せめてもの慰め」とは情けない。こんなロボット仕掛けみたいなやりとりにうんざり。

職務質問時ですら、「はい」以外の会話はあるに違いない。熟年オヤジが朝から「はい。はい。はい。」を強制されて、これじゃまるで教師に諭されている小学生の気分だ。前の二つの「はい」には我慢しよう。しかし、ぼくもそうだが、ぼくの知り合いもシロップに関しては十中八九「はい」である。ホットコーヒーに砂糖を入れない人たちも、アイス系になるとシロップを使うことが多い。たぶんこの店でもきっとそうだろう。

いや、「うちでは十中八九までいかなくて、十中六七です」と言うかもしれない。それでもだ、シロップにイエスという頻度が過半数以上ならば、黙ってシロップをトレイに置けばいいではないか。そして、シロップを使わない人に「あ、それいらないよ」という一言をもらえばいい。ぼくはたまにそう言う。ぜひそうしていただきたい。これにより、ぼくは二回の「はい」で朝を過ごせるし、シロップのいらない人も「はい以外の会話」を楽しめるというものだ。

明日のブログでは、今年3月に体験したパリのカフェの粋を紹介したい。  

謙虚なヒアリングと潔いアンサー

二十歳前からディベートを勉強し、三十歳前後から広報の仕事に身を置いた体験から、「PRと交渉」という、一見異なった二つのテーマを一本化して講演することがある。自分の中では同じ範疇のテーマとして折り合っているが、「なぜPRと交渉?」とピンとこない人もいるようだ。

PRというのはPublic Relations(パブリック・リレーションズ)のことで、「広報」と訳される。パブリックというのは不特定多数の一般大衆ではなく、「特定分衆」という意味に近い。共通の利害や関心などに応じて対象を「特定の層や特定のグループ」に絞り込むのがピーアール上手だ。だから、「広報」よりも「狭報」と呼ぶほうが本質をついている。

絞り込んだ各界各層に望ましいイメージを広めて好ましい関係を構築しておく。この点でPRはリスク回避やリスク軽減の基盤をつくるものだ。対照的に、交渉はリスク発生やリスク直面にあたっての処し方にかかわる。いずれも、企業(または行政)の対社会的組織活動である。ニコニコPRしてコワモテ交渉していたら矛盾する。一度イメージダウンすると交渉で失地回復するのはきわめて難しい。ぼくの中ではPRと交渉は一本の線でつながっている。

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「話し下手だが聞き上手」という日本人を形容する言い回しは、まったくデタラメである。同質性の高い社会で生まれ育った人間は、人の話にあまり真剣に耳を傾けない。質問にもしっかりと答えない。

謝罪のことばもワンパターンだ。不祥事の当事者の謝罪の様子を見て、テレビの視聴者は「こんなことで共感が得られるはずがないのに……」と呆れ返る。しかし、当事者側に立ったら「申し訳ありませんでした」以外に選ぶことばはない。「頭が真っ白でした」というのは、新手の苦肉の策だったかもしれない。

商売人としてブランドに安住せず、ブランドを信用の証にする。顧客より上に行かない、かと言って、へりくだり過ぎることもない。つねに人々の暮らしをよく見つめ、人々の意見に耳を傾ける。質問を歓迎し的確に応答する。謙虚さと潔さのバランス。特定顧客におもねることなく、すべての顧客に等距離関係を保つ。こうした取り組みをしていないから、一部の人々から不評が広がる。一部の人々の大半は内部の人々だ。経営者と従業員の関係もパブリック・リレーションズなのである。

「世論を味方につければ、失敗することはない」とはアブラハム・リンカーンのことばだ。常連さんの意見よりも大きな概念――それが世論だ。

一部老舗の商売道では当たり前とされる「一見さんお断り」(ぼくの自宅の近くには「素人さんお断り」というのもある)。近未来ライフスタイルや今後の市場再編を冷静に予見したら、そんな偉そうなことをほざいている場合ではないだろう。  

思考軸が変わるきっかけ

人生には方向転換する契機というものがある。それまで慣れ親しんだ思考の地軸が揺らぐ瞬間だ。ひねくれたものの見方がまっとうになる場合もあれば、「清く正しく美しく」の欺瞞性に気づいてアマノジャクにシフトする場合もある。今回の話は後者だ。

いろいろと紆余曲折はあったものの、中学生時代までのぼくは「普通に」生きてきた。ここで言う普通というのは、常識に逆らわないで、流れに掉さす生活スタイルという意味である。それまでほぼ固定していた軸が、この一件以来、タテからヨコへの大変動を起こす。

中学の卒業式。道徳と常識をこねたらこんな人物が出来上がりそうな校長先生が、挨拶のスピーチで「諸君、私とジャンケンをしましょう」と言い出す。手を上にかざして「ジャンケン、ポン」。卒業生は条件反射のようにグーやチョキやパーを出す。いったい何事が始まるのかと、戸惑ったり興味津々になったりして次の先生の「オチ」に注目する(この歳の頃からオチへの期待感をつのらせるDNAが大阪人にはある)。

校長先生 「パーを出した人。その人は、これからの人生を寛容な包容力で生きていくでしょう。チョキを出した人は、目の前の困難を切り拓いていくはずです。そして、グーを出した人は、強い意志をもって自分自身を貫くのです。」

パーが包容力、チョキが開拓力、グーが意志力。これを聞いた直後、さほど斜めにものを見なかったぼくの思考軸がアマノジャク軸へと転化したのだ。「何、それ? 占い? 人生の美学? これから高校に進学して、その後に大学受験も控えて、そんなきれいごとで生きていけるのだろうか?」 これがぼくの批判精神の最初の芽生えだった。

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 団塊世代の次世代であるぼくは、どちらかと言うとペシミスティックだった。これからの三年間は勉学の競争で明け暮れねばならないという不安心理に染まっていた。だからこそ、そんな美しい、みんなハッピーなんてありえない! と内心反発したのである。

しかし、結果的にぼくはこの転機に感謝している。他人のマネをしたり常識的考え方に安住しない発想を持ちえたからである。絵を描くのも鑑賞するのも好きだったぼくは、写実的な絵からシュールな抽象画に傾いていった。俳句から川柳へ、受験勉強から遠回りな独学へ、ベストセラーや推薦図書から一風変わった読書へ。このように正統軸から異端軸へと好奇心の矛先を変えた。

仕事柄、新しいものを次から次へと生み出さねばならない現在も、この姿勢を維持しようと努力はしている。歳を重ねるにつれ、気がつけば常識や正統側に回っていることもあるが、自らに警鐘を鳴らして、敢えて逆を行く場合もある。

中学卒業式で、ぼくはグー、チョキ、パーのどれを出しただろうか? 正直言って、覚えていない。もしかすると手を挙げていなかったかもしれない。出していたとすれば、間違いなくチョキだっただろう。理由? とっさにジャンケンを迫られたら、チョキを出す癖は今も変わっていないから。

空気の読めない「お邪魔します」

「お仕事中、お邪魔します。私、……」

ドアをトントンと叩く音が聞こえ、「ハイ」と応答したら、ドアが開いて、その営業マンは喋り始めた。よくある切り出し方、よくある口調、よくある服装の立ち居振る舞い。こっちは中断されたくないPC作業の真っ最中だったので、上目づかいで「何か?」とぶっきらぼうに尋ねる。

「突然の訪問者」は冒頭の12分は丸暗記しているので、「ご用件は?」と聞こうが「何か?」と聞こうが、お構いなく話し続ける。「こんなやり方で成果が上がるのだろうか……」――あまり頻繁に飛び込みセールスがやって来て仕事の邪魔をしてくれるので、10年ほど前に『セールスマンの通信簿――うちのオフィスにやってきた50人の話し方・売り方』という本を真剣に書いてみようと思ったくらいだ。

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彼らのステレオタイプな文言は次の通り。

 1.「私、このたびこの地域の担当になりましたので、ご挨拶にうかがいました」(地域の担当? 知らない会社の人事異動事情を知ったってしかたがないじゃないか)

 2.「ご多忙だとは存じますが、少しお時間いただけますでしょうか?」(察しの通り忙しいので、パンフを置いていってくれればよろしい)

 3.「私、新入社員研修の一環で、企業訪問させていただいています」(つまらないことさせるね、どこの研修会社?)

 4.「代表者の方は、いらっしゃいますでしょうか?」(あ、代表は出掛けています、と代表のぼく)

彼らに共通する特徴は、社交辞令的でフォーマル過剰、にもかかわらず空っぽのテンションだけが高い。少し興味を示す振りをして話しかけても、カジュアルトークができない。何よりも苛立つのは、用件が後出しであり、やっと用件を言い出したと思ったら、その用件そのものがまったく不明であることだ。

どう好意的に解釈してあげても、新人の飛び込みセールスにプラス面が見えてこない。ガンバリズムの醸成? そうかもしれないが、それは顧客には関係ない。

「私のプロフィール」なるものを置いていった別のセールスマンがいたそうだ。彼が訪ねたのは、どう見たって、資産のない小さな小物のお店である。その店に「資産運用」の話である。そのプロフィールにはこう書かれていた―「先の読める人間を目指しています」。おいおい、そんなことよりも、当面の空気を読める人間になりなさい!