雑談を学ぶ? そんなバカな!

雑

雑〉にはおおむね二つの意味がある。

一つは、粗野に近い意味で、細かい注意が行き届かないさまを表わす。「仕事が雑だな」と指摘されたら、マメさが足りないとか出来が悪いと言われているのに等しい。もう一つは、ある尺度に基づくと分類しづらく、仮に分類できるにしても取るに足らないという判断から「その他」や「基準外」の扱いを受けるもの。このようにカテゴリーに収まらないのが普通だが、時にはカテゴリーをまたぐこともあり、その点では異種混淆の趣を感じさせる。

明確な帰属先を持たない、二つ目の意味の〈雑〉に並々ならぬ愛着がある。雑学、雑感、雑食、雑書、雑文などのまとまりの無さはレアで原始的で野性的であり、はっきりと定義され分類された学問、思考、食事、書物、文章などよりも創発の可能性を湛えている。とりわけ、ぼくは雑談にことのほか熱心である。議論の精度や明快性を重んじるディベートの学びと指導に力を入れてきたが、何を隠そう、実は、不定形で摑みどころのない雑談こそがぼくの本場所と思っている。雑談なのだから、目的も意味もない。しかし、そこに想定外の談論風発が巻き起こることがある。

さて、その雑談だ。雑談に悩む人が多いという話を聞いた。ふと読んだ新聞記事でも、雑談が人材育成や研修の対象になっていると知って、腰を抜かすほど驚いた。新聞記事にも書いてあったが、そもそも雑談とは「中身のない」話である。これが言い過ぎなら、「中身にこだわらない」と言い換えよう。雑談に目論見などない。意識しなくても、勝手に雑談になるのである。ちょうど雑草と同じ。手を加えなくても、雑草はたくましく生え成長する。


新聞記事には雑談力研修を受けた受講生のことばが載っていた。

「何を話せばよいか不安だったが天気の話でいいと分かり楽になった」。

何という感想! 話すことが特になければ、無理にではなく、自然に天気の話をするものだ。雑談入門として天気の話でいいんだよと励まされてほっとするとは嘆かわしい。雑談に方法やテーマを持ち込んだ瞬間、それはもはや雑談ではなくなっている。それを対話とか議論と言うのである。雑談が雑談として値打ちがあるのは、そこに意識が働かず、気がついたらそうなっているからなのだ。

何でも研修できるわけではない。科学やシステムを持ち込むのは、雑談が一般化できると錯覚し、なおかつ仕事に役立つなどという不純な動機を前提にしているからである。好き嫌いを問わず、仕事上のプレゼンテーションや会議はやらざるをえない。こういう類いのものには一般化できそうな技術がいくらかはある。雑談は中身ではなく「場と他人との波長」なのだ。相手が気に入らなければ雑談は成立しないし、たわいもない話題に興味を示せないなら、無理して場に座することもないのである。

〈雑〉をもう一度噛みしめることにしよう。誰も意識して雑事に手を染めようとしない。気がついたら、とりとめのない用事が重なり、それをこなしている。雑学にしても、それを究めようとすること自体が不自然だ。雑学など最初から存在しない。気の向くまま学んだ結果、既存の体系の足跡を認めることができなかったが、後日または後年、雑学が身についていたことがわかる。何を雑談するか、どうすれば相手との距離が縮まって人間関係がよくなるかを学んでいる人間から仕掛けられる雑談、そこに和気藹藹と談論風発が起こることはありえないのである。

しっくりこない時

ずっと以前から「適材」という表現に違和感を抱いている。辞書的には「ある仕事に適した才能を持つ人」で、この字義に特に不満はない。しかし、仕事や場所のことに触れずに、ぽつんと適材とは言えないのではないか。「~に適した人材」という意味だから、「~」が特定されてはじめて適材が明らかになるはずだ。だから、人材と任務・地位を組み合わせたセット表現、「適材適所」が慣用句として使われる。それでもなお、魚の小骨が喉に引っ掛かっているような気分がぬぐえない。

場所が先にあり、その場所で適切に何事かを成すための基準があって、その基準を満たすから、「場所に適した材」が決まってくるのだろう。これは人材と仕事に限った話ではない。素材とテーマのマッチングにも同じことが言える。テーマがあって素材が決まるのである。たとえば、あるカフェの雰囲気づくりというテーマに合ったインテリア、絵、音楽をどうするかと、ふつうは考える。一般的に、カフェに演歌、居酒屋にクラシック音楽だと適材適所とは言えない。

以前ランチによく通った、誰が見ても明らかなイタリア料理店があった。この店のオーナーはルパン三世の熱烈な愛好者で、蒐集したフィギュアを店に飾っていた。つまり、彼が好きな「適材」がまず存在した。それが場にふさわしいかどうかにはまったく意を注いでいなかった。「イタリアンぽくないね」というぼくの指摘に、彼は「好きなんですよ」と返答してけろりとしていた。BGMがいつもボサノバなので、「カンツォーネのほうがよくない?」と言えば、「うちは地中海料理なんで」とおざなりな回答。手打ちパスタとニョッキが自慢ならイタリアンではないか。よろしい、地中海料理だと認めよう。それでも、ボサノバを流す理由にはならない。つまり、彼はルパン三世とボサノバが好きで、それらの素材が客が感じる場の雰囲気に合うかどうかにまったく配慮していなかったのである。


 挿入曲

先日、「世界遺産への旅」というような題名のテレビ番組を観ていた。挿入曲――映像の背景に流れる音楽――は、聞き覚えがあるどころか、とてもなじみ深く、すでにぼくなりのイメージが強く刷り込まれている曲だった。それがまったくふさわしくなかったのである。音楽担当者は、シーンとは関係なく、番組でこの曲を使ってやろうと決めていたに違いない。

それはチベットの修行僧が登場するシーンだった。そこに映画『ひまわり』の主題曲が流れたのだ。このような、特定の物語のために作曲された曲は背負っているものが固有である。別の物語の別のシーンに流用するのは難しい。案の定、主題曲が『ひまわり』のシーンを浮かび上がらせてしまった。ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニがチベット僧を消し去ったのである。無難に軽めのクラシック音楽かイージーリスニング系の音楽にしておくほうが、たぶん適材だった。

音楽の効果には技術以上のセンスとジャンルを超えた知識が求められる。番組や映画の映像がよくても、また、物語性が豊かでも、音楽が適材適所失格なら作品が台無しになることさえある。同様のことは、ナレーションの文章表現とナレーターの口調にも言える。カジュアルな番組なのに、肩肘張った口調で自分ひとりで昂揚し、視聴者を置き去りにしていることがある。

挿入曲もナレーションも番組の主題や映像シーンに溶け込んでいなければ居心地が悪く、しっくりこない。もっとも楽曲や語り口には人それぞれの好みがあるから、TPOに応じた「最適な音楽」があるはずもない。また、最適を求めるほどのわがままを言うつもりもない。しかし、主題に見合った適材を探せないのなら、下手に自分の好みや個性を主張せずに、ホテルのロビーで流されるような差し障りのない環境音楽にしておけばいいのである。

伝わらないという方法

説明書きがある。説明とは何か。文字通り「説き明かす」ことだ。しかし、これでは同語反復で、説明不足を否めない。「内容や理由や事情をわかりやすく言ったり書いたりすること」。これでどうだろう。ポイントは、説明しようとする者の意図が理解しようとする者に過不足なく伝わることである。いま「過不足なく伝わる」とさらっと言いのけたが、実はこの過不足の加減が一筋縄ではいかない。

スーパーのイートイン

スーパーで買物をした後、イートインコーナーがあるのを思い出した。そこでコーヒーが飲める。コーナーの突き当たりに説明書きとコーヒーサーバーを見つける。写真の①の箇所には④の取り扱い方法が説明されている――扉を開けてカップを置き、スイッチを押し、ランプが消えるまで待つ云々という情報。次に②を見る。次のように書かれている。

備え付けの注文のカードをサービスカウンターで渡し代金と引き換えてカップを受け取って下さい。

ぼくの飲み込みが悪いせいもあったのだろう。「備え付け」という表現がここから離れた別の場所だと勝手に思い込んだ。その場所がサービスカウンターではないことはわかる。いったいそのカードはどこに備え付けられているのか……そう言えば、さっきベーカリー近くを通り過ぎた時、コーヒー豆の棚の上にカードらしきものがあったような……いやいや、あればエスプレッソマシーンの注文カードだったはず……と思案すること十数秒。


結論から言えば、②の説明文のすぐ下の③が備え付けのカードだった。備え付けとはよそよそしい。どこか遠くの場所と思ってもしかたがない。「 こちらの」でいいのではないか。あるいは、②と③の配置を変えれば、自然とカードが先に目に入るはず。あらためてこのコーナーのレイアウトを見つめてみる。①の説明を最初に読む必要性がまったくない。カップを手に入れることが先決なのだ。カップを手にした者だけが④に向かい、そして、必要に応じて①を読むのである。

ぼくの改善案が採用されたとしても、説明が十分機能するわけではない。肝心のカップを買うサービスカウンターを探さねばならないのである。その場所が、まずいことに、イートインから50メートルほど離れている。ぼくはすでに買物をしている。大したものを買ったわけではないが、イートインのテーブル席に袋を放置して離れる気になれない。両手に買物袋を持ってぼくはサービスカウンターに向かった。この時点でコーヒーを諦めるという選択肢があったはずだが、少々意固地になっていたかもしれない。

ゲットするのに時間がかかった紙カップをマシーンに置いてコーヒーを注いだ。カップさえあればこっちのものなので、もう一杯飲むことにした。自販機ではないから、スイッチさえ押せばコーヒーは出てくる。

日夜説明文を考えるおびただしい人がいて、過剰だったり不足だったりする説明文がいろんな場所で掲示される。説明者はよく伝わるように文案を練る。わかりやすさも考慮に入れる。それでもなお、その説明を読むほうは大勢であり、十人十色の解釈をする。ぼくのように説明のすぐ下の箇所にさえ気づかない者もいる。伝わる時はどう書いても伝わるものであり、「伝わるという方法」は確かに存在する。他方、いくら頑張っても伝わらない時はとことん伝わらない。だから、「伝わらないという方法」も生まれる。説明者は往々にして伝わっていないことを知らないものである。

見せかけの笑顔

笑顔

見せかけの笑顔……取って付けたような笑顔……うわべだけの笑顔……わざとらしい笑顔……いろんな表現がある。では、これらの笑顔の逆の「正真正銘の笑顔」を何と言い表わせばいいのか。真心のこもった笑顔? 素直な笑顔? 嘘偽りのない笑顔? 自然な笑顔? これもいろいろありそうだ。

昨日来客があり、雑談の中で愛想笑いの話が出た。客人の一人が「ロシアではどこの店に入っても店員はにこりともしない」と言う。ロシア全土でもモスクワに限定してもいいが、店員を一括りにして「誰もが」と一般化するのは危険である。経験上の話であって、全サンプルを調べ尽くしたわけではないのだから。以前、チェコに旅した人もよく似たことを言っていた。だからと言って、「東欧諸国のレストランの店員は……」などと結論を急いではいけない。

五輪招致のプレゼンテーションで「お、も、て、な、し」とスタッカート調子で大見得を切って以来、接客業はそれに見合う店員教育にさらに力を入れているのだろうか。大見得を切るずっと昔から、わが国のサービス業は接客マナーの向上に力を入れてきた。海外からも異口同音に賞賛されているのは周知の通り。しかし、マナー教育が行き届いているはずのこの国でも、無愛想で不機嫌な表情の店員を見かける。例外に属するのかもしれないが、いることはいる。だから、日本人の店員のマナーがいいと、これもまた一般化はできない。それに、にわかマナーと年季の入った滲み出るマナーははっきり見分けがつく。


数年前までよくイタリアの都市を旅していた。ご飯を食べるにはレストランへ、アパートで自炊するにしても食材求めて市場へ、エスプレッソをひっかけるならバールへ、そして、買うにせよ冷やかすにせよ、小物雑貨の店にも足を運んだ。店に行けばイタリア人店員に接客され会話の一つも交わす。そして、何十という店に入ってみていろんな店員がいることに気づいた。ラテン系は陽気でいつも笑みを湛えているなどという刷り込みがあると、50パーセントの確率でがっかりする。とりわけ、職人が販売も兼ねている店や一人で商売している店ではその確率がさらに高くなる。

それはそうだろう。アジア人の男が一人で店に入って来るのである。冷静に考えれば、どんな相手にも初対面でつねに満面笑みを浮かべるほうがむしろ不自然ではないか。客であるこっちにしても、いきなり愛想よくされても対応に困ることがある。レストランで黙ってテーブルに案内され、鞄の店でキッと警戒感を顕わにされ、観光案内所や駅の窓口で表情一つ変えずに地図や切符を差し出されたりしているうちに、それで接客上何か問題があるはずもないと思うようになった。郷に入って郷に従っているうちに免疫ができたということだが、ぼくには「郷」のほうが快適だということがわかった。

最初のうちは質問にぶっきらぼうに答え、黙って商品を指差すだけのこともある。しかし、空気がほどけるにつれてフレンドリーな対応に変わってくる。身構えから打ち解けへ……これが自然なのではないか。マナー教育で強いられたような意味のない愛想笑いのほうがよほど不自然、いや、不気味でさえある。わが国の大衆居酒屋やコンビニの笑顔は心底から湧き出ているようには思えない。「ありがとうございました。またお越しくださいませ」と、両手をへそのあたりで重ねながら深々とお辞儀されるのも苦手である。そういう所作や作り笑いであっても、ないよりはましと言う意見もある。そうかもしれない。だが、社会一般で決着すべき是非論ではなく、ぼくが好まないというだけの話である。

本来笑顔は相手に反応して自然に浮かぶものだ。笑顔にシナリオがあってはたまらない。相手構わずに、かくありきという笑顔の練習をしても「おもてなし」の域には達しないだろう。最近、見せかけの笑顔が「見せびらかしの笑顔」に見えるようになってきた。

記録は勝利を担保するか

「次の試合では記録よりも勝負にこだわりたい」とスポーツ選手が言うのを耳にする。世界大会への出場基準が優勝か標準記録かはスポーツによって異なる。格闘技や球技などの一対一の対抗型競技は、リーグ戦であれトーナメント戦であれ、勝って頂点に立たねばならない。だから、基準を満たすのは原則として優勝以外にない。しかし、陸上や水泳は一対一ではなく、予選から決勝までおおむね八人で競う。決勝までは順位と記録の両面で上位者を勘案する。しかし、決勝は順位がものを言う。そして、優勝しても標準記録に及ばなければ、世界選手権や五輪への資格を得られないことがある。陸上の中でもマラソンの代表選考基準が定まりにくいのは周知の通り。

陸上や水泳の解説者はことのほか記録にこだわる。ぼくのような一対一の個人対抗型競技しか経験のない者にとっては関心は勝敗だから、「勝つことは勝ったが、記録は平凡」というコメントに違和感を抱く。場合によっては、記録のほうが重要だとの印象を受けることさえある。それなら、予選を勝ち抜けるのは各組上位2名と3位以下の記録上位者救済という方式をやめて、すべて記録順に次戦への進出者を決めたらどうだと極論の一つも吐きたくなる。まあ、素人の単純な思い付きだとのそしりは受けるだろうが、記録を重視するなら全員一人で走り泳げばいい。もっとも、そんな妙味のない競技にファンが集まるとは思えないが……。

かく言うぼくも、男子陸上100メートル競走の観戦にあたっては、世界歴代十傑クラスの9.8秒台の記録を期待している。しかし、やっぱり記録がすべてではない。大きな国際大会で優勝タイムが平凡な1003であったとしても、国歌が流れ日の丸がセンターポールに揚がれば国民も解説者も歓喜するだろう。つまり、勝つということは記録よりも重要なのだ。勝ち負けがあり、そして最後に勝つということを目指すからこそ競技は成り立つ。予選敗退者に比べれば、銀メダリストはかぎりなく金メダルに近いが、その差を僅差と見るようなスポーツはつまらない。金メダルだけが輝き、銀メダル以下はみな同じという厳しさがあってこそのスポーツである。

スポーツ界以外の実社会ではwin-winがあるし、必ずしもナンバーワンでなくてもいい。同じジャンル、同じカテゴリーで複数の勝者や成功者が生まれるのが普通である。たとえばビジネスでは、他社とは関係なく、自社の業績がよければ勝ち組に属する。とは言え、ここに「幸福」や「よい仕事」という概念を持ち込めば、業績という記録のみが勝利を担保するとはかぎらなくなる。儲かってはいるが、社員に不平不満が募る大企業はいくらでもあるし、業績に目ぼしいものがなくても、やりがいを感じる職場があったりする。


トラック

スポーツに話を戻す。昨年8月の世界陸上で日本女子チームは400メートル×41600メートルリレーで予選敗退した。悔し涙を流さねばならない場面だったのに、日本新記録を示す数字を見て選手らは肩を抱き合って歓喜に感涙した。幸せに包まれ、しっかりと満足したようであった。解説者も予選敗退のことについてはほとんど言及せず、記録を褒めたたえた。順位や予選通過などよりも記録だったのである。世界レベルに程遠い記録、しかも予選で敗退したにもかかわらず、自己ベストで慰められるとは、なんという自己満足か。

当初から予選敗退が織り込み済みなのである。勝てるとすれば力上位の他チームが失格するしかない。もし番狂わせで準決勝に進みでもすれば、解説者も記録のことなど云々せずに、勝ち抜いたことを褒めちぎるだろう。記録ならずっと記録至上主義に徹すればいいのである。日本人トップなどという基準などに拘泥することもない。但し、記録は決して勝利を担保してくれはしない。

広告業界にいた三十代半ば、仕事を取るためには広告コンペにエントリーしなければならなかった。参加企業が三社であれ五社であれ、コンペに勝たねば仕事は受注できなかった。クライアントが「甲乙つけがたい出来だったが……」と慰めてくれても、落選したら負けなのである。ここに記録の出番はない。クールな勝敗だけが待ち構えている。負ければ落ち込み、準備に注いだ努力はすべて水泡に帰する。やるだけのことはやったなどという満足もなければ、悔し涙も出なかった。ただただ強い敗北感だけが余韻になって残る。勝率は高かったし何連勝もしたことがあるが、勝利の記憶よりも敗北の記憶のほうが強い。

記録は逃げ場になる。そして、負け惜しみで幕引きになりかねない。プロフェッショナルの世界では勝敗がすべてであり、なおかつ、強者であっても負ける宿命を必ず背負う。だからこそ、負けてまず、腐らず、緩まずなのだろう。

おもしろくない人たち

他人に対して得意・苦手の意識は抱かないし、その結果としての優越・劣等の感覚も持ち合わせない。これがぼくの原則だが、あくまでも仕事に限った話。仕事から離れれば、つまり、信用や義務が薄まる日常の付き合いでは、時と場を同じくして居心地がいいか悪いかを人物評価の第一にしている。趣味や信念や思想の相違などはどうでもよく、おおむね機嫌がよく愉快であれば不満はない。裏返せば、プライベートでは唯一苦手なのはおもしろくない人物ということになる。けれども、「来る者拒まず去る者追わず」がモットーなので、おもしろくないという理由だけで振り払うべからずを肝に銘じている。

苦手という表現を使ったが、困るほど苦にはしていない。齢を重ねてきて残された時間もどんどん減ってくるから、おもしろくない人間と付き合う時間がもったいないというのが正しい。「おもしろくない」と言うものの、定義も基準も示せない。「おもしろい」に固定化された定義や基準がないように。ジョークやギャグを言うからおもしろいわけでもない。アタマがやわらかくユーモアセンスが光っても波長の合わない者がいる。その一方で、ほとんど冗談も言わず静かなのに、こっちの駄弁に機嫌よくタイミングよく感応してくれる人がいる。無理にぼくの調子に合わせているふうでもない。つまり、人物そのものがおもしろくなくてもいいわけで、空気が澱まず硬直せず座がなごやかになれば不満はない。

意外かもしれないが、おもしろさの基本成分は「コモンセンス(良識)」である。天井知らずのハイテンションや底無しの冗談やしつこいナンセンスは、愉快の演出の主役になるどころか、愉快を減殺してしまう。あの赤塚不二夫が「ギャグを言う(作る)には常識人でなくてはいけない」と言った。笑いの本質を衝く卓見である。笑いが常軌や規範を絶妙に外し、凝り固まった常識に逆説や想定外の光を照射するものであってみれば、コモンセンスを弁えてはじめて成しうる仕業と言えるだろう。コモンセンスの持ち主はわざわざつまらない社交辞令で場を凌いだりしようとしない。楽しくておもしろくなるように心を砕き工夫を凝らす。コモンセンスがないから、愉快に無神経なのであり、場にも貢献できないのである。


笑い&笑い

たまにお笑いコンクールを観る。これでよく笑いのプロをやっているものだと呆れる以上に、審査員のセンスや講評のつまらなさに愕然とする。「わたしのツボだなあ。おもしろいし好きですよ、この感覚」と褒める審査員。常識的に評価すれば、まったくおもしろくなく、この審査員の笑いのセンスがずれていたのは明らかだった。何よりも会場が笑っていなかったのである。お笑い芸だけに限らない。ある時、とっておきのジョークを知人に披露した。ふつうに笑えばいいのに、笑う代わりに彼は感想を言い始めたのである。この時点でおもしろくない人だと判明する。せめて一言でまとめればいいものを、読点(、)で延々と思いをつなぎ、いつまでたっても句点(。)で言い切らない。間に合わせの、心にもない感想をだらしなく喋り続けた。挙句の果ては、「と言うわけで、おもしろいと思うんですよね」と締めくくった。ぼくのジョークが色褪せて、ジ・エンドだ。

ややこしい言い方をするが、「常識的であっていい、但し陳腐であってはならない」のである。陳腐で凡庸な表現を平気で語る人と居合わせると冷や汗が出る。スリリングな綱渡りを見ているようなのだ。コミュニケーションは人間関係そのものであるから、無難へと向かえばつまらなくなってしまう。社会全般、話がつまらなくなったのは、一つは言葉狩りのせい、もう一つは失言や舌禍を恐れるあまりの無難志向のせいである。陳腐がよろしくないからと言って、「日本死ね!!!」のように度を越してはならない。しかし、ぎりぎりの表現で意見をデフォルメする勇気を持つことはできるだろう。匿名ではなく実名で、コモンセンスにしたがっておもしろいことは言えるはずである。ここで言うおもしろさは笑いのことではない。少々いちゃもんがつくかもしれないサスペンスに心躍らせる愉快のことである。

おもしろくないのは罪だ。罰のない罪。最近聞いた話だが、「除夜の鐘がうるさい」と文句を言う人がいるらしい。除夜の鐘は真夜中に鳴り響く。そういうことになっている。それをけしからんと言う。そのクレーマーは間違いなくおもしろくない人だろう。そもそもユーモアたっぷりのクレーマーにはめったにお目にかかれない。

ところで、ぼくの勉強会は、先に書いた通りで、「来る者拒まず去る者追わず」を原理にしている。これまで、来る者の中にはいろんな人間がいた。「この勉強会の目的は何か?」と根掘り葉掘り聞く人も何人かいた。目的なんかない。しかし、無碍に「ない!」というのも大人げがないし粋ではないので、理窟っぽく明文化したり話したりすることがある。その理屈はぼくにとっては遊び心にほかならないが、それをなかなか理解してもらえない。勉強会の目的や意義を尋ねる人間におもしろい者は一人もいなかった。

バカバカしいけど書いてみた

不思議なもので、好奇心のおもむくまま気に入りそうなものを追いかけていると、モノであれ情報であれ光景であれ、自分の圏内にすっと入って来る。まるで砂鉄が磁石に引き寄せられるように。心身の調子がよい時に散歩すると「氣」が漲ってきて、意識を強くするまでもなく、波長の合うものがどんどん視界に飛び込んでくる。

ところが、いったん波長が狂い始めると、とんでもないものばかりが見えたり聞こえたりしてくる。「バカバカしい」と内心つぶやくものの、目に焼き付き耳にこびりつき、気がつけば、見過ごせない、聞き流せない状況に陥っている。そんなこんなをバカらしいけど書いてみる。


青汁になんと乳酸菌が100億個!!
くだらない情報である。なにしろ100億個なのだ。「えっ、90億個じゃなくて、100億個!?」 まさか、そんなふうに驚くはずもない。そもそも、想像の域を超える数字に「すごい!!」などと言ってはいけないのである。「ふ~ん、だから?」というのが正しい。次に、「従来品は100億個でしたが、新商品にはなんと108億個の乳酸菌が入りました」と聞かされても、知らん顔しておけばいい。

ビジネス脱毛――昨日よりイケてるビジネスマンに
自宅のポストに入っていたチラシの見出しである。毛深い男が小ぎれいに変身して仕事ができる男というイメージを醸し出す(つもり)。それを「ビジネス脱毛」と呼ぶことにした。何という表現だ。ビジネス脱毛がありなら、プライベート脱毛、パーティー脱毛、合コン脱毛……何だっていい。ついでに、円形脱毛やミステリーサークル脱毛もメニューに加えてみればいい。まじめなつもりのコンセプトなのだろうが、結果はギャグを演出することとなった。

新聞の見出し「パナ子会社社員を逮捕……」
パナが「パナソニック」であると認知する前に、不覚にも「パナ子」と読んでしまったではないか。えっ、パナ子が会社社員を逮捕!?  パナ子は婦人警官か。

ボクシングダブルタイトルマッチの新聞記事

これも新聞記事。見出しに「ほぼ互角」とあり、「そうなんだ」と思ったのも束の間、見出しの後半には「井岡優位」と書いてある。互角なのか優位なのか決められない、優柔不断な記者。ところが、右端の縦書きを読めば「あすダブル世界戦」とあり、本文に目を通せば、何のことはない、「ほぼ互角 激戦必至」は一試合目の予想、「速さと技 井岡優位」が二試合目の予想だった。そんな勝手な「スラッシュ」の使い方はルール違反。文章だけでなく、文字の配置にもロジックというものがあるのだ。

1点リードされていますが、焦ることは――あと45分ありますから――ないですね」
NHKアナウンサーの気まぐれ挿入句。文字を読めばわかるかもしれないが、テレビの音声なのだ。「あと45分ありますから、ないですね」と聞いたのである。あるのかないのか、ありそうでないのか、なさそうであるのか。「焦ることはないですね、あと45分ありますから」と言えばいいものを。なでしこジャパンが豪州に負ける予感がした。予感通りの結果。

保育園落ちた 日本死ね!
黙殺されるだろうと思いきや、想像以上の注目を集めている。正直、驚いている。いかに正論であろうと、暴言的表現に包まれたメッセージは訴求力を失うものだ。匿名で声を荒げる証言はエビデンスにはなりえない。コワモテの萬田銀次郎が、たとえまっとうな話をしても、品性や知性を欠いて怒鳴れば、世論が共感するはずもないのである。

壊れた公衆電話

堂島で見かけた公衆電話の貼り紙
雨風にさらされた痕跡がありありの薄汚い公衆電話。受話器を触るのに少々勇気がいる。貼り紙にはこう書かれている。

大変、ご迷惑をお掛けしております。只今、この電話は調整中です。お手数ですが、他の電話をご利用下さい。 

調整中って何だろう。「故障」を体裁よく言い換えているのか。NTT西日本では「故障」は禁止用語なのかもしれない。まあ、そんなことはどうでもいい。「大変、ご迷惑……」とはなんと大仰な! 携帯・スマホの時代、公衆電話が一台故障して迷惑をこうむる者はいない。仮にこの電話が気に入っている常連さんがいるとしても、全然大変であるはずがない。実にバカバカしい。バカバカしいけど書いてしまった。

「など」にご用心

曖昧な表現は極力避けているつもりだが、「~的」や「~性」は万能なのでつい使ってしまう。少々面映ゆい。わかったようで実はよくわからない曖昧語は、どうでもいい会話で飛び交う。どうでもいい会話だから連発してもされても気にならない。しかし、意味明快が絶対の場面で頻出するとイライラがつのる。使っている当人が語の曖昧性に気づくことは少なく、聞いたり読んだりする側が曖昧語の解釈に苦しめられる。言ったもん勝ちだ。意味の共有作業では、伝える側よりも理解しようとする側の負担が大きくなるのが常である。

意見を評する時に「おかしい」や「いかがなものか」を常用する政治家がいるが、こんなふにゃふにゃ表現で検証や反駁ができるはずもなく、政敵の空論に輪をかけたほど空しく虚ろに響く。手元の『あいまい語辞典』には、「ちゃんと」や「相変わらず」や「なんとなく」や「やっぱり」が掲載されている。要するに、副詞や副助詞などは総じて曖昧なのだ。こんなことを言い出したら、元来が主観の強い表現である形容詞などは、ほとんどすべてアバウトである。「おいしい」とか「きれい」とか言ってみても、イメージや思いを相手が精細に再生してくれているとは思えない。


意外かもしれないが、「など」は曲者の曖昧語である。たとえば「饅頭などの和菓子が好きです」と誰かが言う。これに対して、適当に「あ、そうですか」で済ませることはできる。しかし、単に「和菓子が好きです」とは言っていない……わざわざ「饅頭など」をくっつけたのには意味があるはず……とぼくは深入りしてしまう。

残念ながら、一例だけを挙げて「など」を付けても、一例からの類推の焦点は定まらない。「フランス、イタリア、スペインなど旧ラテン語圏の国々は……」と小概念を三例挙げて大概念で括るから明快になるのである。「饅頭」だけを例に挙げたそのココロが分からない。もし「饅頭、最中、大福などの和菓子が好きです」と言ったのなら、何らかの皮で餡が包まれたのが好きだと察しがつく(察しはついてもなお、ハズレかもしれないが……)。

etc.

ラテン語et ceteraエトセトラ(略して“etc.”)は「など」に相当するが、元々は「その他もろもろ」という意味だった。先の「饅頭などの和菓子が好きです」なら、饅頭の後に「など」を付けて「実はこれだけではないんですがね」と漂わせ、「饅頭に類する和菓子」というニュアンスを込めている。ならば、饅頭の他に最中や大福も添えておけば少しは曖昧さを回避できる。

「一例を以て『など』と言わない」は一つの言語作法なのである。少なくとも二例、できれば三例がほしい。そうすれば、複数の例の共通項が見えるからだ。もししっかりと見えたら、わざわざ大概念で括る必要性もなくなる。

空きビルの一階ドアに「アトリエ、事務所、作業場などに最適です」という貼り紙があった。「など」を使うにあたって部屋の用途を三つ例示しているのは悪くない。しかし、ここをクリアしてもこのケースでは「最適」という表現が具合が悪い。最適というかぎり例は一つでないといけないからだ。いや、事務所も作業場も言っておきたいと思った……それなら、「など」も「最適」も外して、「アトリエ、事務所、作業場に使えます」だ。いやいや、最適と言いたい……ならば「アトリエに最適です」しかない。ともあれ、「など」には要注意だ。ごまかすつもりはなくても、「など」はわかったようでわからない不透明感を残す。

料理を考える

当然のことだが、食べることを思うと料理について考えるし、料理をしていると食べることを連想する。料理する人と食べる人が別だとしても、料理と食べることはつながっている。その料理の「料」は「米」と「斗」でできている。昭和三十年代の米屋の店先、升に盛った穀類を斗掻とかきという棒で平らにならしていた光景をよく目にした。一斗分(10合)をはかっていたのだ。「料る」が「はかる」と読めるのはおもしろい。この料に理がついて料理になる。理は良し悪しの判断だから、料理にはすでに「考える」という意味が含まれていることになる。だから、厳密に言うと、「料理を考える」という見出しは同語反復なのである。

料理に健康概念を持ち込む人がいる。やり過ぎではないかと思う時がある。もうだいぶ前の話。ある企業の幹部らと同社の戦略について会議をしていた。相談を依頼されたのはぼくと他社のコンサルタント。話が煮詰まってきたものの最後の詰めへと進めない。ちょうど昼食時間となり、弁当が配られた。誰もが、ことば少なに、包みを外してふたを開け、箸を手にして食べ始めた。コンサルタントの方に目を向けると、弁当を顔のあたりまで持ち上げて底のラベルを読んでいる。しばらくして、「添加物が多いので、やめておきます」と言い、部屋を出て行った。

小一時間して戻ってきた。外食してきたかどうかはわからない。仮に腹ごしらえしてきたとして、また、それが日替わり定食か何かだったとしても、定食に使われた化学調味料や添加物、さらには加工品にどんな保存料が使われていたか、知る由もなかっただろうし店で説明を受けたはずがない。体躯の貧相な、そよ風に吹かれてもふらつきそうな男性だった。見るからに病的であった。食は細かったに違いない。それはそうだろう、弁当が出されるたびに拒否していたのだから。


医食同源という美徳的な考えに逆らうつもりはまったくない。ただ、病人の身体をおもんぱかって食事の理を料ることと、ひとまず普通に生活している健康な人間が食事を考えることは同じではない。病人の食養生は食を以て医を施すことにあるから、医と食を一体と見なして不都合はない。あのコンサルタントはそんな指導を専門家に受けていたのだろうか。ともあれ、まずまず健康であると自覚している者が、食事のたびに栄養バランスだの添加物だのに気を奪われているのは滑稽だ。味わいも食事の楽しみも半減するに違いない。

駅弁

数年前になるだろうか、東京駅で東北新幹線に乗り換える際に弁当を買った。車中弁当など何でも良さそうだが、講演の前などは胸焼けやげっぷしそうな食事は禁物。だから、少々思案することがある。品定めをしていたら、48品目弁当なるものを見つけた。こういう弁当に手を出すことはめったにないのだが、若干体調不安を抱えていたので、「これはヘルシーかも?」とミーハーな表現を思い浮かべ、これまためったに起こらない気分に支配されて買い求めた。

新幹線の席に着いて弁当を食べ始めた。おかずを口に運ぶたびに素材を数えていた。ほんとうに48品目も使っているのか興味津々だった。ひじき、枝豆、ごま、たまご、各種野菜……ていねいにカウントした結果、うたい文句通りの品目をほぼ確認した。ぼくとしたことが、不覚にも、健康によいという意識で弁当を食べた半時間。お利口さんのランチタイムのようだった。通路を挟んだC席の男性は、ワイルドに深川めしを食っていた。アサリ、ハマグリなどの貝をたぶん三種ほど乗せた丼。せいぜい五品目だ。実にうまそうだった。そして、健康的に見えた。食べたいものを食べたいときに食べるのがうまい。そして、うまいものを食べれば元気になれる。

甘口と辛口

幼稚園児や小学低学年の子らは思う存分にほめそやしてあげればよろしい。笑顔だけでなくことばでもほめ、いい気分にさせてあげる。不出来を分析して理屈っぽく説明しても、やる気を失くすだけだ。出来不出来にかかわらず、行為そのものを評価してあげる。それが自発的な頑張りのきっかけになる。もっとも、こんなふうにやる気の醸成に手を差し伸べても、やがて分別がしっかりしてくると、自他を比較して自分の出来具合を判断するようになる。その頃になると、ほめるだけでは動機づけが難しくなってくる。いずれにせよ、この子たちはまだ仕事人ではない。

思いやりがあるつもりだが、表現がストレートなので辛口の毒舌家だとぼくは思われている。そういう評判が定まって久しいが、痛くも痒くもない。まったく気にもしていない。ところで、甘口に人気が集中する残念な世の中になった。子どもみたいにほめられ承認されたがる社会人が増殖しているのである。彼らはメッセージの中身よりも表現のほうに強く反応する。ことばが穏やかならほめられたと感じ、ことばがきつければ否定されたと感じる。批判されるよりもほめられるのを望む風潮を、批判する力量のない上司や年長者らがはびこらせている。

別にファインプレーでも何でもなく、普通の仕事ぶりなのに、「なかなかいい出来だねぇ」と上司が部下をほめる。部下はそれに慣れる。組織はぬるま湯になり雰囲気がやわらぐ。しかし、セクハラやパワハラのタブーを恐れる上司たちのもとで「馴致」されていても、部下たちは組織外の顧客や他業界の人々との折衝場面に遭遇する。顧客からの叱責や批判に対する免疫があるはずもない。内輪での切磋琢磨が甘いからこそ他流試合が奨励されてきたのではなかったか。実は他流試合こそが本番なのだ。アウェイのからい本番をしのぐには、それ以上に激辛のホーム環境が必要なのである。


構成員が互いに過剰なまでにほめ合う集団はプロフェッショナルからほど遠く、消費者や一般市民の目には滑稽に映る。組織の甘い採点システムに慣れると社会の辛い採点は受け入れがたくなる。このことと、若い世代が現場に行きたがらず営業職を避けたがる現状とは無関係ではないだろう。話を誇張してなどいない。企業の実態を目の当たりにし研修を通じて何万人もの受講生と接してきた経験に基づいて素朴に印象を描いているつもりだ。なぜ上司と部下の関係心理はこうなってしまったのか。ほめる側(上司)がほめられる側(部下)の心理を読むからだ。そして、ここには他人からほめられたいという上司自身の心理が反映されている。嫌われたくないと思う上司が増えたのである。

一億総活躍社会よりも一億総素人社会のほうが早く実現してしまいそうである。信じることは疑うことよりも穏やかである。ほめることはけなすよりも爽やかである。穏やかかつ爽やかな組織は働きやすいだろう。しかし、働きやすさと仕事ができることは同じではない。信を定立すると疑は反定立として排除され、承認を常とすれば批判は駆逐される。甘さは辛さを拒否する。やがて本来あるべき毀誉褒貶きよほうへんが姿を消す。よく考えてほしい。懐疑するのは信頼のためであり、批判するのは承認のためなのだ。辛さは甘さに対して本来寛容にできている。

甘口と辛口

さあ、ソフトクリームに馴染んだなまくらな舌にタバスコを数滴たらそう。まるで子どものサークル活動のような仕事場を変貌させよう。甘口を辛口に変えようなどと言っているのではない。アメとムチが釣り合う組織風土の復元を構想しているのだ。問いを投げてみよう。ほめる効用を喧伝する人たちはほめそやしてなお後々まで面倒を見てくれるのか。いやいや、そこまで考えてなどいない。ほめることから人間関係を始める者や自己保身のために甘くささやく者は、都合が悪くなるとひどい仕打ちをしかねない。ほめは「ほめ殺し」を孕んでいる。

ほめられても有頂天にならず、さらなる精進につなげる人もいる。他方、ほめられて自己満足に陥り、そこで成長を終える人もいる。タイプの違うこれらの人たちを分け隔てせずに、ぼくは辛口で付き合ってきた。辛口に閉口し気分よろしくない人たちは周辺から消えた。これからも批判精神を基本として自分流でやっていく。その代わり、徹頭徹尾辛口に耐えられるまで面倒を見る。慈悲の精神で最後まで見届ける。これが、批判と表裏一体を成す責任だと自覚している。