イタリア紀行1 「セレニッシマの不便」

ヴェネツィアⅠ

ネットからダウンロードした地図のコピーを穴が開くほど見、住所のメモと案内表示を何度確認しても、目指すホテルに辿りつける希望は湧いてこない。これが噂のヴェネツィアの迷路か。ヴァポレットという水上バスで運河を通り抜け、サンマルコ広場手前の船着き場ヴァッラレッソから徒歩にしてわずか56分の所。目と鼻の先のように思えて、これが容易ではない。何人もの通行人に尋ねてようやくホテルに着いた。

着いた場所は本館。宿泊するのは別館のほうらしい。本館からは中国人系のボーイが連れて行ってくれた。小柄な彼は大きくて重い旅行カバンを二つ、ひょいと左右の手に一つずつ持つと、一度も地面に置くことなく軽やかに歩を進めた。遠く感じたが、たぶん5分ほどだっただろう。何度も小運河をまたぐ階段を上り下りし、運河沿いの小道を通り抜ける。いわゆるバリアフリーな箇所などどこにもない。やっぱり迷路だ。

二度目のヴェネツィアは5年半ぶりだ。和辻哲郎は『イタリア古寺巡礼』の末尾で、「ヴェネチアには色彩がある」と印象を語っている。1927年にしたためた手紙を編集した紀行文だ。「色彩がある」の解釈は難解だが、”セレニッシマ(Serenissima)”という愛称をもつヴェネツィアの色彩は一にも二にも青だろう。このことばは“sereno”の最上級で「晴朗きわまる」を意味する。

多くのツアー観光客はここか島外のメストレで一泊する。たしかに観光だけならば半日あれば名所を廻れる。それならば前回体験済みだ。同じホテルで四泊すれば、ほんの少しくらい「住民」の視点に立ってセレニッシマを満喫できるかも、と目論んだ。

ここには自動車は一台もない。自動車どころかハイテクめいたものが一切見当たらない。いま「満喫」と言ってみたが、実はそれは、不便と共存する「快適」のことなのである。

Venezia01.jpgのサムネール画像
橋の上から俯瞰した典型的な運河の風景。近代化した船以外は、百年どころか16世紀の頃から何も変わっていないのだろう。
048.jpgのサムネール画像
空の色や光の加減、眺める角度によって運河の青は微妙に移ろう。何度見ても同じ運河なのだが、印象はそのつど変わるのだ。
051.jpgのサムネール画像
サンマルコ広場前のラグーナ(潟)は、高潮になると1メートル以上水面が上昇して広場はすっかり水浸しになる。
026.jpgのサムネール画像のサムネール画像のサムネール画像
黄昏時? この写真を見れば誰しもそう思う。実は、早朝のサンマルコ広場である。夜明けに浮かび上がるシルエットも格別だ。

コンセプトを伝える

先程出張先のホテルにチェックインした。メールのやりとりの必要があったので、フロントでインターネット用のケーブルが部屋にあるのかどうかを尋ねた。

「あいにくまだ準備ができておりません。モデムの貸し出しになります」とフロントマン。この意味が飲み込めなかった。ぼくの傾聴力に問題あり? そうは思いたくない。

部屋のメークアップとケーブルの有無の話がぼくのアタマで混線してしまっている。なんだかよくわからないまま、部屋にエスコートしてくれた女性スタッフに再度確認して事の次第がわかった。

当ホテルでは、全館各部屋にインターネットのケーブルを設置していない、ゆえにモデムを300円で貸し出す、ということだ。ならば、「まだ準備ができていない」は「当面のところ」というニュアンスを匂わすため、不適切な表現である。この一件、単なるコミュニケーションの巧拙だけに終わる話ではない。

☆     ☆     ☆

理屈っぽい言い草で恐縮だが、メッセージの前にコンセプトがしっかりと定まっていないのである。部屋のケーブルの有無に対して、ホテルの設備計画面から応答するから伝わらないのだ。言葉遣いや表現の問題ではない。

これに先立って、タクシーの中でダイエットクリニックのリーフレットを見つけた。持ち帰ってきて、いま手元にある。「痩せたくない人は見ないで下さい」という見出し。これにケチをつける気はない。「真に痩せたい人」をターゲットにした一直線のコンセプトだ。だから、こういう言い回しになるのだろう。

ところが、他方で、「痩せたくない人もお読みください」という見出しにする手もあることに気づく。この表現にするならば、コンセプトがまったく違うものになっているはず。「痩せたくない人」には、「すでに痩せすぎていて、これ以上痩せたくない人」と、「ある種の思い(哲学?)があって、痩せたくない人」がいるだろう。この後者の、クリニック側から見れば強情な潜在顧客にも働きかけて損はない。

トマトを使った「トマリコ」というスナックが開発されたとして、「トマトの嫌いな人は食べないで下さい」とするか、「トマトの嫌いな人も食べてみて下さい」とするかは、コミュニケーションの良し悪しではなく、顧客心理へのコンセプトをどう定めるかによって決まる。

コンセプト(concept)は、「考える・はらむ」という“conceive”という動詞から派生した言葉だ。それは、メッセージを送る側の「思い」を凝縮したものにほかならない。 

玄関力 vs 奥座敷力

ホンネから言えば、最近はやりの「何々りょく」というのは考えものだと思っている。言語の悪しき造作だとも思う。言葉足らずな時の安易な穴埋めであり、説明責任を果たさずに「どうだ!」と言わんばかりの強引さも感じる。

しかしながら、大いなるためらいと罪悪感を押し殺して言ってしまおう。使ってみると、なんとこれが実に便利なのである。ありとあらゆるものと結びついて、あたかもそうであることが必然であるかのように収まってしまうのだ。

「灼熱の日のポカリスウェット力」 「なめらか水性ボールペンの書き味力」 「手さばき鮮やかなマウス力」 「冗談連発のオモロー力」 「ビュッフェスタイル朝食の大食い力」 「強いユーロに両替するたびに痛感する欧米力」……証明はこんなもんでもういいだろう。とにかく、何にでもくっつく万能瞬間接着剤だ。

あまり好ましくないと言いながら、ぼくもその便利さの甘い誘惑に時々落ちてしまう。いけないと思いながら、最近口走ったのが「玄関力」と「奥座敷力」である。くどいが、入り口力と客間力でもオーケーだし、エントランス力とリビングルーム力でもかまわない。

☆     ☆     ☆

何が言いたいのか? 来週末の私塾で取り上げるテーマ『情報編集の達人』で、情報は実体に先立つという話をする。具体的な例を挙げると、商品のデザイン・名称は実際の使い勝手や機能に先立ち、社名は事業ドメインに先立ち、自己紹介のしかたは本人の仕事の説明内容に先立つ。落語のマクラはオチよりも先に耳に入り、土用の丑のポスターは実物のうな重よりも先に目に入り、前菜はメインのステーキよりも先に口に入る。

一番の売りでありもっとも訴えたいことは奥座敷に置いてある。しかし、そこに至るまでに最初に玄関を通過せねばならない。玄関は目玉商品ではない。しかし、下駄箱の評価は床の間の評価よりも先に下される。従来から、こういうことに気づいた人々は、「第一印象」や「つかみ」の重要性を強調した。「はじめよければすべてよし」とも言い伝えてきた。

たしかに玄関よりも奥座敷のほうが実力上位だろう。だが、最初の印象がイマイチだったので、慌てて「実力はこんなものではありません」と弁明しても、その実力を認知するところまで来てくれなかったらそれまでだ。知己の関係ならともかく、初対面ともなれば一事が万事がよく起こる。

ここが情報化社会ならではの見え方なのだ。「情報≧実体」。情報という記号の表現と、それが醸し出すコンセプトの関係は神妙である。敢えて超極論するならば、ネーミングが外れれば製品には見向きもしない、一行目でつかみそこねたら本は読んでもらえない、靴が汚れていたら心も汚いと思われてしまう。

早とちりをして、「それなら玄関だけきれいにしておけばいいではないか」というくだらない反論はしないでほしい。それは論外なのだ。せっかくすばらしい奥座敷力があるのなら、それ相応に玄関力も磨こうという意味である。

☆     ☆     ☆

話はここで終わりたいが、終わらない。玄関力と奥座敷力の両方に自信があっても、「いい玄関ですねぇ、最高ですねぇ」とだけ褒めて帰ってしまうのが今時のユーザーだ。加速する情報化社会は想像を絶するほどの選択肢で溢れている。しかし、心配無用、料金無料。ぼくには温めてきた秘策がある。今日のブログを最後までお読みになった人にプレゼントしたい。

それは玄関と奥座敷を最初から一緒にしておくという奇策である。これなら誘導するのにもたつかなくていいし、「玄関開けたらすぐ奥座敷」で話が早い。名づけて「玄関奥座敷力」。ほら、うまくくっついた。  

いっそイノベーション

誤解なきよう。リサイクル思想に異論を唱える大胆な提言ではない。

修正や再利用を繰り返すよりも、思い切ってやり変えたほうがいいという、とても身近な話。散歩をしていたら、古めかしいビルの入り口横の壁に貼り紙を見つけた。最初は意図がよくわからなかった。その貼り紙には求人募集にともなう典型的な文言がいろいろ書いてあるのだが、一番目立ったのがこれである。

88歳までの方
38

さすが少子高齢化社会を反映して、ここまで年齢を引き上げての募集をしていたか……しかし、応募がなかった(若い人が嫌がった?)……そこでやむなく一気に50歳も引き下げて38歳? 「38」の数字はマジックインクの手書きである。

ちょっと待てよ、何かおかしい。よく見れば線で消されている88の十の位のほうが3から改ざんされた8ではないか。はは~ん、これで読めました、古畑任三郎。悪戯である。事の次第を推理すると……。

最初は「38歳」で募集していたのだ。ある時誰かが悪さをして「88歳」に書き直した。数字の3を8に変えるのは朝飯前、1を7に、あるいは5を6に変えるよりも簡単だ。悪戯をした奴はちょいちょいと一筆足して50もプラスできたことにほくそ笑んだに違いない。

そのオフィスはしばらく気づかなかったのだろう。早く気づいていれば、パソコンのデータも残っていただろうから、データを修正して貼り直せば済んだはず。何ヵ月か、もしかすると何年か経ってから気づいたが、当時のデータがない。で、おざなりに手書きで貼り紙に訂正を加えた……。

ぼく以外に誰がこんなに深い読みを入れて理解してくれるだろうか? ノーバディだ。みんな呆れたり薄ら笑いを浮かべて通り過ぎる。「よくもまあ、88歳で募集したもんだ。いったいどんな仕事なんだい? 28歳も88歳も一緒にできる世代間格差のない仕事? あればあったで結構なことだが、結局人が来なかったんだろ。で、やむなく50歳ダウンの38歳か」。ここまでの感想を洩らすことすらありそうにないが、まあこんな印象だろう。

これはなかなかの教訓である。リフォームしてよいことと悪いことがある。修正するより一からやり直したほうが手っ取り早く、しかもイメージを損なわないこともある。コストと手間がかからず見映えがよければ、黙ってイノベーションだ。

応募者心理に気配りできないあの会社、応募状況はどうなんだろう? と余計な心配。仮に「いっそ作り変えたら?」とお節介な口出ししても、「いやいや、あれでいいんです。へっちゃらです」と返されるかもしれない。あの貼り紙、なんとなく威風堂々に見えてきた。

聞き間違いがよく起こる日本語

シャレがつくりやすいという点では日本語は他言語を圧倒している。ダジャレでいいのなら、無尽蔵だ。この間も、「悩んでいましたが、海岸かいがん開眼かいがんしました」というのを耳にした。寒さをこらえればいくらでも作れる。

言うまでもなく同音異義語が多いからである。日本語どうしのみならず、日英の異文化ダジャレすら可能だ。「こんにちはという笑顔の挨拶に気をつけよう。これがホントのハロー注意報」なんていうのは朝飯前。

 「育児休暇は何日?」という問いに対して、「さんぜん さんびゃく ごじゅうにち」というような答えがあって、「えっ、十年も?」という、ウソのような話があった。もちろん3,350日ではなく、「産前350日」のことである。このような話しことば特有の聞き間違いは日常茶飯事だろう。では、書けば誤解が起こりにくいかと言えば、そうともかぎらない。なにしろ漢字にはいろんな読み方があるのだ。 

「今秋」と書くのはいいけれど、「こんしゅう」とは言わないほうがよい。頻度の高い「今週」と聞き違えてしまうからである。あるお店が「こんしゅう姉妹店がオープンします」と言うから楽しみにしていたら、二ヵ月先だったという具合。話しことばでは「今年の秋」または「二ヵ月後の10月になると」と文脈の足し算が必要なのだ。

☆     ☆     ☆

ぼくの母親は78歳だ。耳はまったく衰えず、それどころか地獄耳に近いかもしれない。大阪人特有の短気で早とちりなところはあるが、歳の割にはアタマの回転もいい。その母親との電話での会話を大阪弁で再現してみよう。

「もしもし」とぼく。
「誰? 良則か? えっ、あ、勝志かいな。元気にしてんのんか?」(良則とは弟だ)
「元気やけど、最近出張が多いわ。明日から金沢に出掛けるし……」
この瞬間、おそらくそれほど近くにはいない父親に向かって、母親は叫ぶように告げる。
「お父さん、勝志からや! 明日からカナダに行くて」(ぼくの耳には「かなざわ」と聞こえている)。父親が電話口近くに来る。
「えらい遠いとこに行くんやな。何日間や?」と、父親が母親に聞いている。この時点で母親は通訳状態だ。
「何日行くんかって、お父さん聞いてはるで」と母親。
「一泊二日。明日行って、明後日帰ってくる」と返事。
「ええっ、ほんまかいな! (父親に向かって)カナダに行ってすぐ帰ってくるんやて」
「大変やなあ、二日でカナダ往復は」と父親が小声でコメントしている。
「カナダは何時間かかるのん?」と母親。
「大阪から2時間半くらいかな」
「へぇ~、えらい速いなあ~。 飛行機やな?」
「いや、特急やで」と言いつつ、この時点で、両親が金沢への出張で不自然なほど驚いている空気を感知した。
「ちょっと待って、カ、ナ、ダと違うで。石川県のか、な、ざ、わ。兼六園のあるところ、ホタルイカ、加賀百万石!」と、北米と北陸の相違を説明した。

「な~んや」で終わったけれど、結構エネルギーのいるコミュニケーションだった。伝達側のぼくが、ぶっきらぼうに「かなざわ」と言わずに、最初から「北陸、石川県、金沢」という文脈で話すべきだったのだ。

笑いで済めば救われる。問題なのは、同音異義のみならず様々な状況で意味誤解や疎通不全が頻繁に発生していることだ。饒舌・冗長にならない程度に、もう一言説明しておこうという意識を持ちたい。  

五輪(2)~ルールとフェアネス

ルールが変わっているかもしれない。リレハンメル当時は、スキージャンプ競技ではスタンバイ信号が赤から青に変わってから15秒以内に滑走を開始しなければならなかった。スピードスケートのスタートも用意の合図からスタートまでの2秒間微動だにしてはいけなかった。

ジャンプで失格となった選手、スピードスケートで二度失敗した選手。両者とも、気の毒なことに、はるばるノルウェーまでやって来て、スタートを切ることなく去っていった。情状酌量の余地は、微塵もない。しかし、この二例とは対照的に同大会で再試技が認められた選手がいた。覚えている方もいるだろう、フィギュア選手トーニャ・ハーディング、その人である。スケート靴の紐にトラブルがあったらしく、フリーの演技中に審査員に泣きついたのである。

これを認めてしまった。認めるということは、ルールの未熟性を暴露することに等しい。フェアネス(公平性)とは正々堂々の精神であり、つまるところ「潔さ」でもある。再試技はフェアネスに反する。

☆     ☆     ☆

これがルールとして許されるのなら、トリプルアクセルで転んだのは目に埃が入ったからだの、フィニッシュが決まらなかったのは脚が疲れたからだのと申し立てればよい。屋外のスキージャンプでは風や天候という外的要因と闘わねばならない。それでもルール違反は大目に見てもらえない。屋内の、しかも選手自身の人的コントロールが可能な競技に例外があってはならない。

例外なくルールが適応されるからフェアネスが保たれる。そこにスポーツの潔さを垣間見る。昨日・一昨日とアメリカの金メダル候補の有力選手が、水泳・陸上の最終選考会で落ちた。十回に一回の敗北かもしれないし、出場させてやりたいという人情も働くが、ルールはルールだ。

人はやみくもにフェアであることはできないだろう。しかし、一つの例外を許せば、その他のすべての約束体系をモデルチェンジしなければならなくなる。フェアであるためには万人に平等なルールが必要なのだ。もちろん実社会では杓子定規にはいかない。いかないからこそ、ルールは厳格であるよりも、まずは明快であることを優先すべきだろう。

五輪(1)~ライブと記録と記憶

東京五輪が開催された1964年は中学生だった。学校が斡旋した「五輪記録ノート」を買った。全競技全種目が開催日別に印刷されており、ページごとにメダリストと国名を自分で記録していくという体裁になっていた。

後日新聞記事なり開催終了時に掲載される一覧を見ればわかることだが、そのつど結果を記入していくとページたりとも空白のまま残せなくなってしまう。開催期間中はテレビ中継に釘付けになった。録画ではダメで生中継に意味がある。競技終了後に書き込むのが正統で、どうしても記録が追いつかなかったりして翌日新聞で確認して穴埋めするときは少し情けない気がしたものだ。

二学期の中間テスト前だったが、勉強はほどほどにしておき、全種目の金メダリストや日本選手の成績はほとんど覚えた。そんなもの覚えてもしかたがないことはわかっていたが、一種のオタクだったのだろう。しかし、自己弁護しておきたいが、開催期間の約半月は一億総五輪オタクのニッポンであった。

☆     ☆     ☆

五輪のみならず、サッカーでも野球でもそうだが、録画はつまらない。結果を知らないで見る録画はまだしも、結果を知ってからの録画は話にならない。現場観戦が一番いいだろうが、それが叶わぬならばせめてライブだ。ただし、国内に居ながらの時差ボケというツケを払わねばならないが……。

1970年代以降夏季五輪はもちろん観戦したが、冬季もよく見た。印象に残る冬季大会は1994年リレハンメルだ。スキージャンプは、原田選手の失速に日本じゅうが悲鳴をあげた。観衆も一緒に自分の腹筋に力を入れて1メートルでも先へと足腰を浮かせてみたが、結果は団体銀メダルに終わった。

さらに印象的なのが4年後の長野大会。ラージヒル団体戦の当日、ぼくは講師として大手企業の合宿研修の最中だった。立派な研修センターでロビーには大型テレビがある。最終ジャンパーの跳躍だけでもライブ観戦したいとの思いから、卑しくもその時間帯を自習させることはできないかと画策していた。

結果的には卑しくならずに済んだ。というのも、企業の研修担当課長が「研修していても気が入らないでしょう。ぜひ30分ほど休憩してみんなで観戦しませんか?」と申し出てきたのだ。ここで相好を崩すわけにはいかない。ポーカーフェースで「う~ん、やむをえませんね」とぼく。

4年前の雪辱を果たす原田選手のウルトラジャンプに全員拍手と感激の嵐。金メダルに酔った。気がつけば、ロビーは他のコースの研修生も含めて人で溢れていた。やっぱりライブだ。ただ、受講生のテンションの余燼がくすぶり、その後の研修の調子は失速していったのを覚えている。   

“彼”はなぜ褒め、なぜ問うのか?

またセールスマンがやって来た。ノックしてしばし、応答と同時にドアを開け、満面に笑みを湛え、型通りな挨拶をして入ってきた。藤崎マーケットには悪いけれど、あの「ララララ」で小躍りするときの表情にそっくりだった。

初顔である。アポでもしていないかぎり、飛び込みのセールスマンに「ようこそ! お待ちしていました」とホスピタリティを示さなくても罪には問われまい。

彼は瞬時にオフィスの中を見渡した。一人で「ラーイ?」と装っているような目つきだ。彼の立ち位置からは複合機が見える。レーザープリンター、複写機、ファックスのオールインワン機器。

 「立派なのをお使いですね」とまず褒めてきた。

☆     ☆     ☆

いま、話の続きを書こうとして、逡巡した。こんな小ネタを取り上げて、よくもまあへそ曲がりなコメントをしようとしている自分が、もしかすると間違っているのではないか、と。おまけにエアロビコメディアンになぞらえたりして。しかし、いくらセールスの常套手段とはいえ、やっぱり変なのだ。初対面で「そのスーツ、お似合いですね」という褒め言葉が不自然なように、「複合機が立派です」と持ち上げるのは異様である。

考えてみれば、褒めるのはむずかしい。あまり可愛くない子どもを褒めたり中途半端に禿げている人を褒めるのは苦手である。なぜなら、褒めるというのは長所の抽出作業であるからだ。それには抽出の理由も求められる。禿げている人を褒めるとき、ぼくたちは通念の逆説を正当化せねばならない。同時に、それを成熟の証明に求めたとしても、なおも、なぜ成熟していることが、この際に褒める対象になるかを示さねばならないのである。

☆     ☆     ☆

以上のような「考察」を常としているぼくである。違和感の強い褒めに対しては、「なぜ?」と聞き返すのが習性になっている。で、一呼吸おいて聞こうとした。聞こうとしたら、”彼”がこう続けたのである。

「調子はどうですか?」

「調子いいですよ」という波長合わせはあまりにもお人好しだろう。「あなたにこの機械のコンディションを伝える義務はない!」――これが正しい応酬というものだ。販売者でもなくメンテナンス責任者でもない”彼”になぜレポートしなければならないのか。

つい硬派な対応をしたので”彼”はひるんだ。根が人情味のあるぼくはすぐに甘くなる。そこで、好奇心から聞いてみたら、厳しい門前払いが続く昨今、辿り着いたのが「機械の賞賛とご機嫌伺い」という切り口だと言う。

もう飛び込みセールスへの硬派な対応はやめようか。「立派な機械ですね」「ほんと? 褒めていただき、サンキュー!」「調子はいかがですか?」 「結構、最高、絶好調!」  こんな具合にノッてあげようか。

その日の”彼”の営業訪問日誌にこう書かれるだろう。「P社の代表は、空テンションが高い」。ありがと~。 

ことばを遊ぶ「三連諺」

三連諺。「さんれんげん」と読む。自惚れるほどではないが、たぶんオリジナルの造語だと思う。「雨降って地固まる」や「案ずるより生むが易し」というのが通常の諺。三連諺は、ある一つの諺を基点にして、あと二つを加え、そこにおかしみや教訓を醸し出そうとする試みだ。

連言れんげんというのがあるが、これは論理学用語で「そして」という意味。これとは違う。「小薬は草根木皮 中薬は衣服飲食 上薬は治心修身」は近い。要するに、単発よりも三つセットにして本質をよりよく理解しようというわけだ。

「髪が抜ける」。ありふれている。「歯が抜ける」。これも普通。「腰が抜ける」。大変だけれど、よくある。しかし、これら三つをくっつけて、綾小路きみまろが語りかける。

「お集まりの熟年世代のみなさま。髪が抜け、歯が抜け、腰が抜ける今日この頃……」。これで会場が爆笑となる。無機的な一言一言を連ねてみれば、そこにリズムが生まれ独特のおかしみが演出される。

諺の多くは賛否両論、是非が拮抗する。一文に想いを凝縮しているため、説明不足であったりする。したがって解釈いろいろ、諸説噴出する。たとえば「出る杭は打たれる」。そうとも言えるし、そうでもないかもしれない。そこで、これをネタにして三連諺を創作した。

「出ない杭は打ちようがない 出かけている杭は打たれる 出てしまった杭は打たれにくい」

「能ある鷹は爪を隠す」も、どこかからいきなり飛び出してきたみたいで唐突。文脈が見えにくい。そこで、この諺を二つ目に置いてみる。「技ある鷹は爪を磨く 能ある鷹は爪を隠す 芸ある鷹は爪を求めず」。能と対比して、技と芸を並べた次第。

「小なる悪銭目もくれず 中なる悪銭身につかず 大なる悪銭よく身につく」。インチキ商法を見聞きするにつけ、つくづくそう思う。元の諺を「中途半端な悪銭だからダメ」と読み違えてあげる。

「頭隠して尻隠さず」の頭を顔に変えてみるとどうなるか。

「顔隠して尻も隠す 尻隠して顔隠さず 顔隠して尻隠さず」

最初は「謎のヴェールに包まれたおくゆかしい人」。二つ目は「ふつうの人」。たいていの人はそうして道を歩き対人関係をこなしている。最後は「アブノーマルな人」。元の諺は「アブノーマル」を示唆してはいるが、それがいいとか悪いとかまで言及していない。四連諺にすると、最後は「顔隠さず尻隠さず」となって、これはクレヨンしんちゃんのことを意味する。

暇なときにお試しあれ。佳作・傑作ができればぜひ投稿していただきたい。 

無意味な意味づけ

「自宅の柱か壁の一部にあどけない、あるいは微笑ましい落書きをするのは自由である。公共施設、ひいては世界遺産に落書きするのは論外である」。型通りな寸評だということは分かっている。だから、「よい子のみなさん、落書きをしてはいけませんよ」と呼びかけて終わるつもりはない。

指摘したいのは、常識に挑戦する落書きの見た目・メッセージが大胆であるのに対して、落書きを戒める側の情けなさである。壁の持ち主が貼り出す注意書きには強さも工夫もない。たとえば、「人権侵害につながる悪質な落書きはやめましょう」なんて弱腰すぎるではないか。まるで「人権侵害につながらない良質な落書き」を認めているかのようである。「落書きは懲役5年かつ罰金100万円!」くらいのアバンギャルドで対抗すべきではないか。

☆     ☆     ☆

フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂はお気に入りの名所である。フィレンツェには過去数年間で15泊ほどしているが、滞在中は欠かさずに近くを散策した。この大聖堂によくも大胆な「犯罪」をおかしたものだ。見学時に落書きに適した筆記具を持参していること自体、もはや悪ふざけの域を超えている。寛大にも謝罪だけで済んだということだが、フィレンツェへのお詫びの意味でこの落書き日本人をわが国独自のやり方で懲らしめておくべきだろう。

この一件に刺激されて、芸能ネタがなかったのかどうか知らないが、マスコミがわが国の落書き事情へと目を向ける。今朝は新幹線車輌を取り上げていた。目を盗んで落書きできるくらいなら、爆弾を仕掛けることぐらい朝飯前ではないか。鉄道会社、しっかり用心すべし!

「自分の描いたものを誇示したいという心理」――落書きの権威らしき人がこのような趣旨の意見を述べていた。まったく感動を覚えないコメントである。ぼくのブログのタイトル画面の抽象画(らしきもの)は自作だが、描いて公開しているのだから「誇示したいという心理」? ふ~む。そうだったのか、ぼくの心理は……。このコメントでは、落書きと絵画の違いを説明することはできない。

専門家ゆえに何事にも意味づけを求められる。気の毒だとは思うが、その無理っぽい意味づけが素人考えと大差ないとは皮肉な話だ。己への警鐘として受け止めておくことにしよう。