「占い」雑考

みずがめ座.gifのサムネール画像のサムネール画像朝の支度中に、テレビの画面に食い入る時間はない。見るとすれば、かなりニュース性の高い映像に限られる。つけっぱなしの朝のテレビはラジオのようなもので、もっぱら音声を聞いている。いや、音声が流れてくる。このことと、自分が「みずがめ座」に属することを知っていることが一つになると、特別に関心があるわけでもない星占いの声も耳に届いてくる。

周囲には星座や血液型占いの好きな人がいる一方で、誰かが話題にしても素っ気なく反応する人もいる。ぼくはと言えば、占星術、手相、血液型などによって心を動かされたことはない。けれども、かつて占いに凝っていた母親が生年月日でぼくを専門家に占ってもらい、「あんたはこうこうだよ」と告げてきた時などは頷いておいた。正直なところ面倒なのだが、親孝行だと思って聞いた。

同様に、何かの拍子に運勢判断の話が出ると、心中まったく関心はないのだが、冗談を少々交えたりしながら調子合わせをすることがある。ぼくも一人で生きている人間ではないから、ほどほどの社交辞令で場をなめらかにする術を心得ねばならない。ただ、「うらない」という発音から先に浮かぶのは「売らない」のほうであって、「占い」という参照はめったに生じない。


仕事柄どんなことでもまったく知らんぷりできない。新聞の小さな記事や隣のテーブルのよもやま話から何かのヒントが生まれることだってあるから、占いの話題を門前払いするのもどうかと思う。というような寛容な姿勢なので、冒頭に書いたように勝手に星座占いが耳に入ってきてしまう。そして、苦笑いする。先月のある日の話である。ラッキーアイテムが「さざえ」であった。手の届かぬものではないが、出張中だったから口に入れるのは容易ではない。気が付いたら夕方だったし、少々酒を控えているから、この日は縁がなかった。

別の日。「みずがめ座のあなた、自分の意見が通らずストレスがたまります」と注意された。「他人の意見を参考に」という処方箋。いつもいつも自分の意見を抑制し反論もせずにイエスを捻り出しているぼくだ。いつも他人の意見を聞いてあげて、とんでもないトラブルに巻き込まれているというのに。

さらに別の日。「過去の経験を生かして大飛躍できる日」ときた。占いというものはヒントにはならないものである。過去のどんな経験かが不明であり、威勢よく「大」とついているが飛躍のほどがよくわからない。それはそうだろう、ぼくのための占いではなくてみずがめ座のための占いだ。克明に描写してしまうと大勢の人に当てはまらなくなってしまう。とはいえ、「メールは早めに返事しましょう」などとあると、後期高齢者がターゲットでないことはすぐにわかる。なお、この大飛躍のできる日のラッキーアイテムはババロアだった。毎日12の星座を占うのも大変な仕事である。

人を見て法を説く法則

Marketing→Targeting web.jpg copyright.png 方法や発言が変わることはよくないことなのだろうか。数年前におこなっていたやり方や言っていたことを今翻してはいけないのか。居直るわけではないが、「あなたの言うこと、していることはころころ変わる」と言われても痛くも痒くもない。なぜなら、方法や発言は変わるもの、変わるべきものだからだ。環境や時代によって変わり、付帯状況によって変わり、そしてそのつどの考え方によって変わる。

方法や発言を仮にポリシーと呼ぶことにしよう。ポリシーは、何よりもまず、相手次第で変化する。あのときのぼくのポリシーはAさんたちに向けて発言したものであった。今回はBさんたちに向けてのものである。たとえば、ぼくの研修でもっとも引き合いの多い『プロフェッショナル仕事術』では、対象が五十代と三十代とでは講義ポリシーが変わる。前者には仕事を収束させるスキルが重要であると伝え、後者には仕事を拡散するスキルを磨けと説く。所変われば品が変わるように、相手が変わればポリシーが変わるのである。
冒頭に書いたように、ポリシーは環境や時代、付帯状況、ぼくの考え方の変化に応じて変わるから、同じAさん相手であっても、2ヵ月前のあの時と今とでは違う。ここでお気付きだろうが、変わるポリシーというのは下位概念的なものであって、もとより臨機応変を本質に持つものである。そのようなポリシーの変更を矛盾などと呼んではいけない。矛盾とは今ここで相反する二つの法則が成り立ってしまうことだ。相手が変わり時間が経過していれば、相反する事態は決して生じてなどいない。

繰り返しになるが、方法や発言のような下位概念的なポリシーは変わる。いや、変わらねばならない。しかし、その下位概念的なポリシーをくくる上位の法則までもが変容しているわけではない。AさんにXと言い、BさんにYと言うのは、いったいどういうことなのか。それは、人を見て法を説くことにほかならない。人を見て法を説け、あるいは今という時代を洞察して法を説けなどというのは、万人に通じる普遍法則と言ってもいい。
ビジネス成功のために「売れる商品を作れ」などと言われる。これは、「売れる商品を作れば売れる」という意味になり、明らかにナンセンスな同語反復だ。どの売り手もこのように考えて行動すれば、当該商品が溢れて供給過多になり、熾烈な企業間競合と価格競争が必然になる。こんな混沌状況では普遍法則など成り立つはずもない。もはや「売れるものづくり」などという発想は役立たずなのである。
日米だけに限ってもマーケティングの定義には温度差があるが、いずれにも「顧客」という用語が含まれている。しかし、この顧客はもはや大衆や不特定多数という意味からはほど遠い。今日においては、「人を見て法を説く」ときの「人」と同じく、個別であり、きわめて限られた特定の人々でなければならない。企業は何を作るのかを絞り込むと同時に誰に売るのかを絞り込まねばならない。言い換えれば、その商品からどんな価値をどんな顧客に感じ取ってもらうかということだ。マーケティング(Marketing)という広義の概念をターゲティング(Targeting)という狭義の概念に置き換えることが必然になったのである。

下手な鉄砲

三十七、八歳頃だったと思う。ぼくがゲーム好きだとよく心得ている知人が誕生日にダーツボードをプレゼントしてくれた(その翌年はバックギャモンだった)。

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このボード、プロの公式競技用という本格的なものだ。当時住んでいた自宅では適当な場所がないので、オフィスの会議室に置くことにした。人目につくから、「やりましょうよ」ということになり、勉強会の後によく遊んだものである。もちろん、ただ点数の多寡で遊ぶだけではおもしろくないので、少々の金品を刺激にして競い合ったりもした。

数ヵ月も経つと、月に一回程度ゲームする者と暇さえあれば練習できるぼくとでは腕前に格段の差が出てきた。よほどのことがないかぎり、ぼくが負けることはなくなった。プロのレベルからすれば、ぼくたちはみんなヘボだったのだが、回数を重ねるごとにぼくと彼らの精度の差はどんどん広がっていった。なお、ボードを外すと壁に穴が空くため、一投につき罰金100円としていたが、プール金は増えるばかりだった。


よく負ける者は異口同音に「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」という諺を持ち出す。たくさん試みればまぐれ当たりもあるという意味だが、所詮「まぐれ」であるから計算は立たない。手元のことわざ成句辞典には「試みの回数が多ければ多いほど成功の確率は高くなる」という解説がある。とんでもない。下手が技を磨かずに下手であることに安住しているかぎり、下手は何度やってみても下手なのである。よく似た諺に「下手な鍛冶屋も一度は名剣」というのもある。こちらは絶望的なほど、まぐれすらありえないだろう。
下手を慰めたり励ましたりするのもほどほどにしておきたい。努力して上手になった人間が、何の方策も講じることなく下手であり続ける人間に負けるはずがないのである。まぐれに期待していること自体、すでに敗者の証拠ではないか。鉄砲だからたまには当たるかもしれない。そうだとしても、射撃を何度でもできるという前提に立つから「たまに当たる」という理屈が成り立つだけにすぎない。それはゲームの世界でありえても、一発勝負が多い実社会では途方もない空想である。
「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」という命題について検証すべきは、当たるか当たらないかではなく、「数撃ちゃ」という点にある。そう、人生では鉄砲玉は何発もないのである。チャンスを生かすチャレンジ機会は限られている。一回きりとは言わないが、「数はない」のである。下手のまま玉だけを求めるような都合のいい話はどこにもなく、ぼくたちはひたすら下手から上手へと技を磨かねばならない。下手と上手に一線を画するものが何か、よく考えてみるべきだろう。

失敗のセンス

家庭料理 天神橋近く.jpgいつもの散歩道から脱線して歩いていたら、だいぶ以前に脱線してそのままになっているであろう店の看板兼メニューに出くわした。シャッターの劣化ぶりから店じまいして久しいと想像がつく。

飲食店は、栄えたと思えばまたたく間に枯れる。盛り上がったり衰えたり。まさに栄枯盛衰だ。一年ぶりに行くとなじみだった店は消え別の店が構えられている。数年ぶりに飲食店界隈に出掛ければ、三分の一、場合によっては半数が入れ替わっていたりもする。十年経てば、総入れ替えということもなきにしもあらず。
タイトルの「失敗のセンス」とは、もしかするとわざと潰れるように経営しているのではないかと思ってしまうほどの、目を覆いたくなるような絶望的センスのことである。店を構えるかぎり、商売繁盛を画策するのは当然だ。にもかかわらず、少数のマニアックな常連だけが顔を出すだけ、やがて彼らの足も遠のいていく宿命を自ら選んでいるかのような店がある。成功するためのセンスを秘訣や法則にするのはむずかしいが、失敗の方程式は簡単に計算が立ってしまう。センスの悪さは失敗のための絶対法則なのである。


センスは、ともすれば感性的な領域に属すると思われがちだが、精神と行動が統一された思慮や良識が近い。ふつうに思考してふつうに実行すれば、大きな失敗を避けることができるのに、ふつうに考えないでふつうにも行わないから「失敗のセンス」が身についてしまうのだ。コンセプトの立て方、訴求点の選び方、情報の並べ方……いったいどうすればこんなセンスを身につけることができるのだろうと思ってしまう店がある。
『亜呂麻』なるこの店。看板兼メニューから読み取れる情報には危ういセンスと負のオーラが充満している。「家庭料理・酒・コーヒー」。どれもがふつうの単語なのに、このように配列してしまうとやるせない違和感で料理がまずそうに見えるから不思議だ。「カラオケ2500曲以上」と並列の「日本各地の名酒いろいろ」が合わない。2500曲も名酒もギャグっぽく見える。
極めつけは、驚きの「一汁三菜ヨル定食」。ヨルにも笑ってしまうが、夕方6:00から開店だからヨル定食に決まっている。メニューの最終行に到って何を今さら「一汁三菜」と本気になっているのか。気持悪いついでに、ここは「秘密のメンチカツ定食」か「ママの手料理15種類」のほうがこの店らしい。いずれにせよ、統一感を醸し出そうとしても失敗を運命づけられたセンスは救いようがない。芳香のアロマを『亜呂麻』と表記した店名までもが、店じまいによって滑稽な寂寞感をいっそう強くしている。立ち去った後、背中に寒いものが走った。

売り込まない方法

ほとんどすべての命題は二律背反的に論議することができる。時々の情報に左右されるテーマならなおさらだ。たとえば、「調査から始めよ」と「調査から始めるな」は一般的にはつねに拮抗している。ぼくの場合は、もはやどんな企画も調査から始めることはないが……。

と言うわけで、「売り込まない方法」という主張とまったく正反対のことも書くことができる。明白なのはただ一つ、真理はわからないという点。何をこうしたから売れたとか、売れた理由はこうだなどというのは、すべて後付けであって、終わってみたから言えるのである。ほんとうに売れる理由がわかっているのなら、売る前にその理由を公開すべきだろう。
ぼくたちにできることは、「売れるだろう」という蓋然性に向けて工夫を凝らすことだけだ。そして、うまくいく可能性としては、「売り込まない方法」という選択もありうるのである。
あらゆるメディアを通じて売り込みを競っている状況を見てきて、「商品を売ってはいけない」という思いに至った。とりわけ、モノではなくサービス価値に関するかぎり、露骨に売っている人よりも「さりげなく知らせている人」のほうが健闘していることに気づく。ユーザーでもあるぼくは「売り込まれること」に疲れた。そして、市場に出回っている商品やサービスのうち売り込み過剰なものを差し引いてみた。すると、すぐれたものが浮かび上がってきたのである。

少々強引だが、シンプルマーケティングのジョセフ・シュガーマンなどは「情報の引き算」を提案している。「あれもこれも伝えたい」というがむしゃらさは情報乱舞の時代に目立たない。黙って一点のみを静かに伝えるのだ。ジョー・ジラードの言も借りてさらに言えば、真に売るべきは商品ではなく、商品を扱っている「人」であり、その人が顧客との関係づくりに注いでいる「意」のほうなのである。
誰もが売りたい売りたいと躍起になっている時代に、売り込まないという方法、ひいては「よろしければお売りします」というスタンスがあってもいいだろう。もっともすぐれた売り買いの形態は、売る価値と買う価値が等価として交換されることである。その交換をスムーズにするために売り込んできたわけだが、そうしてきた人たちや企業が必ずしも成果を残しているとはかぎらない。
マーケティングという用語が便利なので思考停止気味に使っているが、売りの戦略という意味で使っているのなら、ここから離脱することも検討すべきだろう。むしろ、古典的な〈パブリック・リレーションズ〉を醸成するほうがこれからの時代にふさわしい気がしている。ひたすらじっくり時間をかけて認知を促し関係づくりに励む。これなら売り込み下手でも謙虚に取り組めるはずだ。

見えるもの、見えないもの

辞書にはまだ収められていないが、ぼくがよく用いることばに〈偶察〉がある。文字通り「偶然に察知すること」で、観察とは対照的な意味をもつ。注意深く何かへ意識を向け、その対象をしかと見るのが観察だ。偶察とは、その観察の結果、意識を向けた対象以外のものに気づくことである。観察と偶察、決してやさしい話ではない。週末の私塾ではこれをテーマにして「見えざるを見る着眼力」について話をした。

ぼくたちは何かを見ているつもりだろうが、実は、いつもじっくりと見ているわけではない。見慣れた対象における小さな変化に気づかないし、インパクトのある“X”に気を取られている時は、すぐそばの目立ちにくい“Y”が見えていない。体力や気力が消沈すると目線が外部に向かう余裕を失う。まなざしは自分の内面ばかりに向かうことになる。

ところが、さほど意識も強くないのに、心身の具合がいいとよく見えよく気づく。主観的かつ自覚的に観察するぞなどと意気込まなくても、自然体でものが見えてくる。暗黙知を極めたプロフェッショナルはそんな軽やかな観察に加えて、偶察にも恵まれるのだろう。たしかに、ある店の主人は顧客の立ち居振る舞いをよく見ているし、服装や髪型の変化に気づいていそうだ。しかし、逆に、これでよしと主人が考えている店の装いの不自然さに顧客のほうが気づいていることもあるだろう。


どの本に書いてあったのか忘れたが、「森を横切って長い散歩をした時、私は空を発見した」というロダンのことばをぼくはノートにメモしている。いい歳をして、ロダンはその時初めて空を見た? そんなバカなことはない。何度も空を見ていたはずである。この文章は次のように続く。

「それまでは、私は毎日この空を見ていると思っていた。だが、ある日、はじめてそれを見たのだった。」

あることを以前見たつもり、あることを毎日見ているつもり。それでも、ある日突然、それまでの観察はまったく観察の名に値しないことを知る。今見ている空に比べれば、ぼくがこれまで見てきた空など空ではなかったという、愕然としつつも、身体に漲る爽快な感覚。見ることだけでなく、味わうことにも考えることにもわかることにも生じる、「目から鱗の瞬間」だ。そして、見えたり見えなかったりという能力に喘ぎ、見たり見なかったりという気まぐれを繰り返しているかぎり、目から鱗は剥がれ続けるのだろう。

ほっと一息の、その直後

明日からの一週間は断続的に出張、ほとんどオフィスに顔を出さない。仕事柄、もともと夏休みはあってないようなもので、今年も楽しく仕事三昧している。いま「楽しく」と書いたが、少々やせ我慢しているかもしれない。ひとまず「ねばならないこと」はやり終えたし、今月いっぱいの仕事のメドもついた。というわけで、ほっと一息ついている。しかしながら、経験上、このような安心感は曲者だ。ほっとした瞬間から、妙なことに胃のあたりが少々キリキリし始めた。つい半時間ほど前までは何ともなかったのに……。

ところで、企画を指導していると、初心者が選ぶテーマによく「安心」ということばが登場する。危機管理の世相を反映しているのかどうかわからないが、たとえば核家族化時代の家庭のキーワードに「安心」「安全」が使われる。受講生の企画内容にはいっさい立ち入らないが、助言やヒントは授ける。あるとき、「あくまでもぼくの主観だけれど、安心、安全ときたら、もう一つ加えて『三安』にしてみたら?」と言ったことがある。軽い気持ちだったが、そのグループはえらく真剣に受け止めて、あと一つの「安」を探すのに必死になった。

安寧あんねいはどうかと聞いてきたが、「それはちょっと。安心、安全と並べるには違和感がある」と答えた。安堵、安眠、安産まで捻り出したが、時間も迫ってきたので、結局彼らは「安息」で手を打った。ちなみに、安心は気持ちや気分の落ち着き、安全は生命が事故・災害におびやかされないこと、安息は、やや宗教めくが、リラックスしている状態というニュアンスだ。


これをきっっかけにして、特に安心と安全という用語の使い方を注視してきたが、頻繁にセットで使われ、場合によっては平然と互換されることに気づく。ちょっと待てよ、安心と安全に意味の重なる部分などないのではないか。数冊の辞書に目を通してみたが、安心は個人的・精神的な概念であり、安全は社会的・身体的な概念のはずである。

「安全神話」ということばが示す通り、「安全です」と宣言されれば安心感は強まる。安全は安心を誘い出すようだ。かと言って、可逆的に安心が安全を確約することはありそうもない。安全にしても基準次第て度合に強弱が生まれる。つまり、安心という意識と安全という状態は「似たものどうし」なのではなく、本来相互乗り入れできない概念なのだ。

安全神話が破綻している今日、安全確認にピリオドを打ちにくくなった。それでも、ある動作なり状況の安全確認なりには一区切りはつく。そして、次の動作や状況の安全確認に入る前に、ぼくたちは一息つく。この瞬間に緊張がほぐれ、ある種の弛緩状態を迎える。安全であることに安心するのは当然のことながら、安心できているからといって安全とはかぎらないにもかかわらず……。

誤解なきよう。一瞬たりとも安心するななどと言うつもりはない。ただ、「安全確保は自己責任」という自覚と引き換えの安心でなければならない。ふと思い出した。オフィスから10分ほど北へ歩くと交差点があって、そこに標語が掲げられている。「青信号 安心したら 大間違い」。言いたかったことは、これだ。

キーワードの差し替え

とあるお店のトイレに貼り紙がしてあった。「もう一歩前へ」という野暮な注意書きではない。そこにはこう書かれていた。

心を開いて“Yes”って言ってごらん。すべてを肯定してみると答えが見つかるものだよ。

このことばの上に、あのあまりにも有名な歌手の写真が添えられている。いや、その写真にこのことばが付け加えられているというのが正しい。ファンなら瞬時にジョン・レノンと言い当てるに違いない。この文言、見たか聞いたかした気はするのだが、おおよそでも再生できそうにないので、知らないと言わざるをえない。世間ではビートルズ世代の一員とされるのだろうが、恥ずかしながら、ぼくはビートルズ音痴である(別に恥ずかしがることはないか。歌なら数曲程度は知っているし、唄える)。

二十年程前に主宰していた勉強会で、当時大学の助教授だった2歳年長のY助教授に『ビートルズの社会学』と題してカジュアルな話をしてもらったことがある。熱狂的であるとはこういうことなのだと思い知った。ビートルズのことを何でも知っていたし見事な薀蓄の傾けようだった。ぼくの目からはウロコが何枚も落ちた。これに比べれば、ぼくには熱狂するテーマなり対象なりがほとんどなく、根っからのなまくらな雑学人間なんだと自覚したものである。


但し、アマノジャクなので、「心を開いて“Yes”って言ってごらん。すべてを肯定してみると答えが見つかるものだよ」という文章などに出合うと、それがジョン・レノンであろうと他の有名人であろうと、その場でメッセージに共感して「ハイ、おしまい」にはならない。立ち止まってみる。時には一種偏執的に真意をまさぐり考えてみる。「ほんとうにそうなのか?」と。

手っ取り早く考えるために、文中のキーワードを二項対立の他方に置き換えて読み返してみる。キーワードは“Yes”と「肯定」だ。二項対立の概念は“No”と「否定」。すると、ジョン・レノンのオリジナルが次のように置き換わる。

心を開いて“No”って言ってごらん。すべてを否定してみると答えが見つかるものだよ。

“No”と言うために心を開かねばならない時がある。親しいからという理由だけで何でも“Yes”ではなく、親しいからこそ、心を開いて――偏見を拭い去って――”No”と言ってみるのだ。自分の価値観、他人との過去の関係、前例というものをすべて否定してみると、見えなかったものが見えてくる。すべてを否定していた人間がすべてを肯定するのは、固定観念を脱しようとする挑戦である。そうであるなら、すべてを肯定していた人間がすべてを否定してみるのも、同じく脱固定観念への試みなのではないか。

全肯定と全否定が同じ働きに見えてしまうのは、やっぱりぼくが逆説的人間だからかもしれない。だが、安易な“Yes”のやりとりの末の共感は心もとない。真摯な“No”のやりとりあってこその共感だろう。軽はずみな“Yes”は厳しい“No”よりも人に迷惑をかけるし破綻もしやすい。これはぼくにとって身に沁みる経験則の一つになっている。

嗚呼、商売センス

職住ともに大阪市中央区である。大阪城から徒歩10分圏内、行政機関が集中している地域だ。歴史のある街で、かつては熊野参詣の起点として栄えた。八軒家浜の名残があり、この船着場に京洛からの産品が届けられていた。その大川では七月の天神祭に船渡御ふなとぎょが執りおこなわれる。『プリンセストヨトミ』のロケ地にもなった空堀からほり商店街もこのエリアにある。ところが、マンションもテナントビルも、空堀ならぬ「空洞化」の気配が漂い始めた。

これで行政機関が大挙して移転でもしたら泣き面に蜂である。すでにテナントオーナーらは対策を講じるべく勉強会を立ち上げている。起業してオフィスを構えてから24年、住まいを移してから5年半が過ぎた。変遷を目の当たりにしてきて、繁栄よりも凋落のトレンドを肌身で感じる今日この頃だ。ランチタイムで出掛ける200メートル四方にかぎってみると、20年以上続いている店はおそらく十指かそこらだろう。

威張れるような経営をしてきたわけではないし、商売のセンスがいいとも思わない。誠実に仕事をしているのでどうにかこうにか生き残っているが、血眼になって商売をしてきたと胸を張れない。しかし、消費者としては賢明であると自負しているし、顧客として店や商売人を見る目はあると思う。その視点からすると、このマーケットで立地して失敗してきた飲食業の典型が浮かび上がる。オーナーたちはあまり研究していない。①夜と土曜日で苦戦する、②地下で苦戦する、③メニューで苦戦する――これらが失敗に到る3大要因である。


当該エリアは官庁・ビジネス街だから、昼間人口は多い。良心的にやっていれば、昼は常連客がつく。健闘している店なら、800円のランチを百人にさばいているだろう。問題は、①の夜間である。大半の仕事人は、飲むなら帰路になるキタかミナミへ繰り出す。まずまず頑張っている店は、夜のターゲットを地元住民に定め、夜に飲食してもらえるよう工夫している。そんな店には土曜日の夜もお客さんが入る。

次いで②だが、成功例は二、三軒のみ。ビル地下では何度も店が替わっている。それでも、什器備品がそのまま使えることもあって、しばらくすると次の店が入る。

最後に③。ターゲットを絞り込んでいないからメニュー戦略を誤ってしまう。昼にアボガド丼やエスニックはダメである。また、夜のご馳走過剰もダメである。ビル地下で夜をメインにした鯨料理店があったが、あえなく3ヵ月で「反捕鯨状態」。絵に描いたような三つの苦戦ぶりであった。飲食業のためにアイデアを出す相談を何度か頼まれたが、総じて頑固なオーナーが多い。アドバイスを求めているくせに、アイデアを提供すると、「そうは言うものの……」と守りを固めて前例を踏襲する。

頑固とこだわりは商売人のDNAだから、やみくもに否定はしない。それならそれで、もう少し個性的なスタイル――たとえば無愛想と偏屈を売りにする職人芸など――を見せてほしいものである。ミスター・ビーンでおなじみの著名なコメディアン、ローワン・アトキンソンが英国の商売人についてこう書いている。

「小さな事業をしているのに、お客が来るのを嫌うのはイギリス的なんだ」

これは逆説的に読まなければならない。ヨーロッパではこんな商売人をよく見かける。うわべのお愛想を振りまくよりもよほどましで、さほど悪い気がしない。おそらく、お客さんを徹底的に絞り込んで、抑制のきいた商売をしているからに違いない。

観察は個性を投影する

企画力と言うと、情報収集や編集や構成ばかりがクローズアップされる。ところが、こうした技術に先立つものがある。カントが経験的認識の前に〈ア・プリオリな概念〉として時間と空間を置いたように、企画者は企画に先立って時間的空間的な日常に目配りする必要がある。考えることに先立つこと、考えることよりもたいせつなことは、習慣形成された観察なのである。

しかし、観察――とりわけ視覚に強く依存した観察――に見誤りはつきものである。そうでなければ、たとえばエッシャーのだまし絵などは成立しなくなるだろう。ぼくたちはよく見ているようで実は見ていない。「百聞は一見にしかず」と言うけれど、一見そのものが危ういのである。見慣れた対象を流していることが多いし、あまり強く意識することもない。だから、普段の気づきは鋭敏ではなく、かなりいい加減なものになっている。「この目で見た」という確信ほど危ういものはないのである。

それでも、環境適応しなければならない宿命を背負っているかぎり、感覚を研ぎ澄まして観察するしかない。周辺の物事に目を凝らすこと、なじみのある街中の光景に目を配ること、ありふれた人の動きを注視することが観察行動であり、こうした行動を抜きにして何かに着眼することなどできるはずもない。ぼくの知るかぎり、よき観察者でない者がよき企画者になったためしはない。こういう話をすると、素直な人は観察することの意義を理解してくれる。だが、観察の話はこれでおしまいというほど浅くはない。


「ようし、観察するぞ」とりきむ企画の初学者は、ありのままの現実を正しくとらえるのが観察だと思ってしまうのである。観察は現実の細密な写実画であるのだと勘違いする。よくよく考えてみれば、写実画にしてもありのままの現実の投影であるはずもない。現実と観察にはつねに誤差が存在する。そして、この誤差は決して排除すべきものではなく、存在して当然なのである。

それゆえに、現実と観察の誤差を恐れる必要などさらさらない。繰り返すが、実像とイメージで再現された像の間には誤差やズレがある。誰が観察しても同じなら、その仕事を誰かに一任すればいい。しかし、そんな観察など何の値打ちもないだろう。個性は観察に介入し、観察時点で観察対象と自分は一つになろうとしているのだ。

写実的観察という、ありもしない仕事にこだわるのをやめよう。観察結果は印象的でも抽象的でもいい。勇気をもって主体的かつ個性的に観察すればいい。独自の解釈や表現なくして、そもそも観察行為などありえないのである。よく「客観的な観察」と言われるが、異口同音に「そうだ!」という観察などは数値の中にしかない。それでもなお、その数値がありのままの現実の一部始終を示している保証はない。数値でさえ、対象を好都合に切り取っていることが多いからである。