軽はずみな一言

幼少の頃の写真を見ると、ほとんどがモノクロ写真ではあるものの、ぼくが色白であったことがわかる。中学時代に少々剣道をしていたが、室内競技。だから、中学を卒業するまではたぶん褐色系の風貌とは無縁であったと思われる。高校に入ってから自分が日焼けをする体質であることがわかった。ふつう色白肌だと赤く焼けるのだが、そうはならない。真っ黒にもならないが、少しアウトドアで運動するだけでほどよい褐色に焼けた。

ある時期からやや脂性へと変態したのかもしれない。あるいは単に、わずかな陽射しですぐに焼ける潜在的な体質だったのかもしれない。いずれにしても、この歳になってもすぐに日焼けしてしまうのだ。真夏日は別として、土・日にはよく散歩するものの、長時間アウトドアスポーツをするわけではない。平日出張ではほとんど陽に当たらないし、大阪にいる時も自宅と事務所の間を往復30分弱歩くだけである。

しかし、問題はその半時間にある。あいにく朝は東の方向へと歩き、夕方に西日を受ける方角へと帰ってくる。朝夕のどちらもまともに太陽に向かって歩いているのである。日焼けしやすい体質にとって10分は褐色を重ねるのに十分な時間なのだ。この時期はだいぶ濃さを増すので、ぼくの趣味をあまり知らない人に「よく焼けてますねぇ。ゴルフですか?」と聞かれること常である。その瞬間、キッとなって「ゴルフなんか、、、しませんよ!」とつい言ってしまう。そのあと「あっ」と思うのだが、もう「なんか」と言ってしまっている。手遅れだ。


さぞかし、この「なんか」はゴルフ好きにはとても失礼に響いていることだろう。「なんか」はそれ自体大そうな意味もないただの助詞なのだが、「○○なんか」と言えば、○○が望ましくないものを漂わせる。「なんて」と言い換えればカジュアルだが、軽視の感度は同じだ。「お前なんか」も「あなたなんて」も、いずれも低い価値のものとして見下している。相手が気分を害することは想像に難くない。なぜなら、「きみもビジネススキルばかりじゃなくて、哲学の一冊でも読んだほうがいいよ」と助言して、「哲学なんか役に立たないでしょ?」と反問されたら、ぼくだって心中穏やかではない。

ぼくはゴルフをしない。大学生の頃によく練習したし模擬コースのような所も何度か回った。先輩にはセンスがいいと褒められたりもした。けれども、アマノジャクな性分なので、やみつきになって身を滅ぼすかもしれないと察知し、二十歳できっぱりとやめた。だから、未練なんか、、、まったくない。この心理が「なんか」と言わせるのか。かつてよくカラオケに通った頃はカラオケに「なんか」を付けたことなどなかったが、いま誘われたら「カラオケなんか行かない」と言ってしまいそうである。

昨日のブログのM氏に「プーケットに一緒に行こうじゃないか?」と誘われた時も、たしか「プーケットなんかに行くくらいなら、ヨーロッパを旅しますよ」と憎まれ口を叩いた。たった一つの助詞を通じて心情がありのままに吐露される。そのM氏も奥さんに「お前いい」と口を滑らせたことがある。ここは「お前いい」でなければならない(「お前いい」は相当まずい)。多弁なぼくだ、口の禍の確率が大きいから、心しておかねばならない。「なんか」なんか、もう使わない。

遅れてやってくる珠玉の素材

研修用のテキストが完成すると一安心する。ただ、編集エネルギーの余燼が十分に冷めていないので、その後もテーマに関連した本をちらほらと読む。不思議なもので、そうしているとテキストで用いたものよりも「魅力的で適切な素材」を見つけてしまうのだ。その素材を「足す」だけで済むならテキストを手直しするが、構成自体に地殻変動をもたらすようなら諦めるしかない。しかし、見過ごすのはもったいないという気持から、口頭で紹介するかパワーポイントに組み入れたりすることになる。

私塾の第4講のテーマ『行動規範のメンテナンス〈東洋の知〉』は8月上旬にテキストを脱稿している。ところで、このテーマを選んだのはほかでもない。十代の終わりから漢詩に親しんできて、その流れからか、老子、孔子、孟子、禅、さらに釈尊、それに空海や親鸞などの有名どころをざっと勉強したことがあった。二十代前半に職場の先輩であったM氏が偶然その方面に明るかったから、よく教わったり意見を交わしたりもした。東洋の知への関心にはそんな背景がある。

さて、そのテキストが仕上がってから、講義のためではなく興味本位で関連書を読んでいた。すると、「あ、これ、忘れていた」という好素材がどんどん出てくるのである。行動規範と東洋の知を結んだのはわれながらあっぱれと自画自賛したくなるほど、ブッダのことばや禅語録には行動規範のヒントが溢れている。しかも、そうした珠玉の素材は、もう一歩踏み込まねばなかなか姿を現してくれないものなのだ。


読み残して放っておいた本の後半に出てきたのが、「無可無不可かもなくふかもなく」。今でこそ「良くも悪くもなく、まあまあ」というように使うが、元来は先入観で物事を決めつけないという意味。ぼくたちは十分に検証もせずに事柄や状況の良し悪しを判断する。多分に主観的、と言うか、独我的に。一見良さそうに見えるあれも、どう見ても悪そうに見えるこれも、ひとまず白紙の状態で眺めてみなさい。これが無可無不可の諭すところで、つまるところ、極に偏らずに中道の精神状態を保つべしということになる。

次に見つけたのが、道元禅師の「他是不吾たはこれわれにあらず」。他人がしたことや他人にしてもらったことは、自分でしたことではないという意味である。あなたの腹ペコを満たすのはあなた自身であって、誰かに食べてもらってもあなたは満腹しない。仕事も習慣もすべてそう。自分の仕事を誰かに代わってもらえば、その仕事は片付いたことにはなる。しかし、決して自分でしたことにはなっていない。他の誰でもない、この自分がやらねばならない、よしやるぞと決めたら自分でやり切るしかないという教えである。たしかに、今やるべきことを一番よく心得ているのは、この自分である。ふ~む。耳が痛い。

以上、偉そうに書き連ねたが、見て思い出したまでで、かつて頭に入れたはずのこれらのことばはすっかり記憶から抜け落ちている。再会すれば思い出す、しかし自然流では思い出せない。そんな知識やことばがいったいどれほど眠っていることか。実にもったいない。だからこそ頻繁な再読なのだろう。私塾や研修のテキストを書いて編集するのはとても疲れるが、そういう仕事に恵まれているからこそ、忘れた旧聞に再び巡り合える。実にありがたい。

まことに失礼ですが……

このブログの名称は〈Okano Noteオカノノートである。別によそ行きにすまし顔しているわけではなく、日々気になったことや発想したことを書き綴る〈本家オカノノート〉があって、その中から特に考察したものや愉快に思ったことを紹介しているのである。この意味では、ぼくの普段着のメモの公開記事ということになる。

一日に二つや三つのメモを書き留める日もあるから、一年で500くらいの話のネタが収まることになる。あまりにもパーソナルな視点のものはブログの対象外。それでも積もり積もってノートは飽和状態になる。飽和したから適当に吐き出せばいいというものでもないが、不条理や不自然や不可解への批判的な目線で書いたページが増えてくると、つい放出したくなってくる。たぶん精神的エントロピー増大の危うさを感じて自浄作用が起こるのだろう。

たとえばこんな話が書いてある。ふと小学校時代の転入生のことを思い出した。彼が「ぼくの名前は鎌倉です」と自己紹介したとき、なぜかクラスの中の半数ほどが笑った。彼が山本や鈴木や田中であったなら誰も笑いはしなかっただろうが、なにしろ鎌倉だ。大阪の小学校高学年の子らにとっては歴史で勉強した時代や大仏と同じ苗字が妙に響いたのは想像に難くない。不思議なことにぼく自身が笑ったかどうかを覚えていないが、話し方や苗字からこの男子が関東出身であることが推測できた(その後、彼とは結構親しくなった)。


紹介が終って担任が彼に尋ねた。「鎌倉君、きみは神奈川県出身やろ?」 「はい」と彼は答えた。「やっぱりな」と言って先生は鼻高々になっている。そりゃそうだろう、鎌倉という地名は神奈川なんだから、ふつうに考えればそう類推するものだ。たまたまピンポーンと正解になっただけで、たとえば「ぼくは松本です」と名乗っても、「きみは長野出身だな?」が当たる確率はさほど高くない。

先生、まことに失礼ですが、鎌倉で神奈川出身が当たったからと言って自慢にはなりません。おまけに、あなたは彼の前の在籍地や出身地が事前にわかる立場ではありませんか。

焼肉の食べ放題・飲み放題の話。二十代の若者が言った、「金がないので、オレたちはもっぱら2,980円の焼肉食べ放題・飲み放題のセットなんですよ。」 おいおい、金がなければ焼肉は贅沢だろう。食も酒も控えるのが筋ではないか。

まことに失礼ですが、きみたち、金がなくて、それでも焼肉と酒を時々楽しみたいのなら、一皿300円のホルモンと一杯280円の生ビールの店で粘り、それでも腹が一杯にならないのなら、小ライス150円を追加して合計730円で済ますのが分相応ではないですか。

目的・手段不在の話。気をつけないとつい聞き過ごしてしまう誰かの所信表明。「得意先のニーズに応えていきたい。それを実現するために頑張りたい」――よく若手の営業マンが会議で決意の程を語っている。ゆるいアタマの課長など、メッセージの論理構造よりも彼の毅然とした声の大きさに相好を崩してしまう。

課長、まことに失礼ですが、彼のメッセージに「目的と手段」はないのに気づいておられないようですな。「単なる二つの願望」になっていることがお分かりになりませんか。

ぼくのノートには「まことに失礼ですが……」で締め括らざるをえない、バカバカしいノンフィクションがいくらでもある。

ウサギとカメ、再戦

「イソップ寓話のウサギとカメのかけっこの話、知っているよね」

「もちろん。能力のあるなしよりも努力の大小のほうが成功にかかわるという教訓と理解している。それがどうかしたの?」

「もう十年も前になるけれど、『ウサギとカメが再戦したら、今度はどっちが勝つか?』というテーマでディベートをしてもらったことがあるんだ」

「おもしろいねぇ。で、どうなった?」

「今度はウサギが勝利すると主張した者は、かけっこの絶対能力を持ち出した。ウサギは走るが、カメは歩く。①居眠りさえせずに一気に駆け抜ければウサギが勝つ。そして、②凡ミスに懲りたウサギは必ず巻き返す、というのが論点だった」

「多分に期待が込められているね。と言うか、居眠りイコール凡ミスが例外だったのか、それとも染み付いた属性だったのかがわからないから、『居眠りさえせずに』という条件はあくまでも仮定にすぎない」

「まあまあ、慌てずに。今度もカメに軍配が上がると主張した者は、どう反論したと思う?」

「かけっこは単に俊足対鈍足の勝負ではなく、他にもメンタルな要因もあるということだろうか。いや、ウサギのカメを見下す態度は変わらないから、やっぱり油断をする。だから、何度勝負をしてもウサギに勝ち目はない。こんなところかな」

「ウサギが今度は居眠りしないという証明もできなければ、きみが今言った、他にもメンタルな要因があるということも証明しにくい。したがって、結局のところ、このディベートではウサギが前回の失態を改善できるか否かというのが主要争点になったんだよ」

「要するに、カメにとっては自力勝利はないわけだ。カメはひたすらウサギが居眠りしてもらうことを祈るしかない。これに対して、ウサギは意地でも眠ってはいけない。自力勝利の目は自分の采配しだいなのだからね」

「いかにも。ちなみに、そのディベートではレトリックにすぐれたカメ派が勝ったけどね」

「それで、審査員であるきみはどんなコメントをしたんだい?」


「その前に一言。このディベートのテーマは『ウサギとカメが再戦したら、今度はどっちが勝つか?』だっただろ。これって論題形式の記述になっていない。だから、前回カメが勝ってウサギが負けたという事実から、必然『再戦したら、今後はウサギが勝つ』という論題として読み替えられた。立証責任を背負ったウサギ派が『今度は絶対眠らない』と言い張っても説得力はないよね」

「どうやら、ウサギ派の『三度目の正直論』とカメ派の『二度あることは三度ある論』の言い合いに終ったようだね。もっともこれは二度目の勝負ではあったけれど……」

「ぼくは最後にこう締め括ったんだ。寓話によれば最初のかけっこを挑んだのはカメだった。お前はのろまだと小ばかにされたカメから申し出たのだから勝算があったはずだ。そして、実際に勝利した。だから、ウサギがリベンジを誓う挑戦もきっと受けて立つだろう。おそらくカメはウサギの変わらぬ性向を見抜いているのだよ」

「う~ん。それだって、ウサギ派が導いた推論の蓋然性とそんなに変わらないよな」

「いや、そうではない。この戦い、ウサギという種とカメという種の戦いではないのだよ。これは、ある特定のウサギとある特定のカメとのかけっこだったんだよ。米国対日本という戦いではなく、一米国人対一日本人の戦いのようなものだった。そのウサギは居眠りする怠け者だったうえに、もしかすると仲間内で一番鈍足だったかもしれない。他方、そのカメは仲間内でもっとも俊足で試合巧者だったかもしれない」

「ウサギが種の競走ととらえ、カメは個体間競走と見た。なるほど。間違いなく詭弁だろうけど、おもしろい分析だね。賢いアキレスにも追いつかれないカメだから、ウサギに負けるはずもない」

「あっ、それはなかなかの論点だ。詭弁ついでに言えば、居眠りをした時点でウサギはおそらく狩人に捕まっていただろうから、再戦はありえなかったと思うけどね」

理念不履行の人々

何らかの理念を標榜するかぎり、その理念で謳っている目的なり善行なり約束なりを日々実践することが期待される。たとえば、「顧客に最高のおもてなしを」と記述された理念は目的であり善行であり、そして約束であるだろう。目的を遂げること、善行をおこなうこと、ひいては公言した理念の約束を守ることのすべてを平気で怠るのなら、そもそも理念など標榜することはない。理念と現実は完全一致することは稀だが、少なくとも現実がたゆまなく理念に近づくよう仕向けなければ、理念の意義はない。

プラトンのイデア論はさておき、ひとまず強調しておきたいのは、ぼくたちが理想世界と現実世界の両方を同時に生きているという点である。もし理想世界を描かないのなら、現実世界のありようを定めるすべはない。理想と現実の間に横たわる隔たりはつねに現実側から埋めるべく対処せねばならないのである。さもなくば、理想の高みを諦めてかぎりなく現実に落とすしかない。それは理屈抜きに現実を生きることを意味する。

死刑廃止を理念とする論者は、わが国にあっては死刑制度の維持という現実に対峙する。死刑廃止が自身の揺るぎない人生哲学なら、制度廃止への努力を不断に続けなければならない。したがって、ふつうに考えれば、その論者が現実に死刑執行を命じる立場にある法務大臣の任に就くべきではないということになる。しかし、変な喩えだが、ダイエットを理想としながら食を貪ってしまう現実があるように、あるいは、一流のプロフェッショナルを理想としながら一・五流のプロフェッショナルとして当面の仕事をこなさねばならないように、死刑廃止論者にもかかわらず死刑執行の命を下さねばならない現実は当然ありうる。しかも、死刑制度を維持する国家の法務大臣という現実の中にあってさえ、執行命令を下すべき「理想」を回避して、見送るという「現実」を選択したお歴歴も大勢いたことは事実である。


中村元の『東洋のこころ』に次の一節がある。

かれら(アーリヤ人)は民族的自覚が弱かった。今日に至っても宗教が中心になるので、ヒンドゥー教徒であるとか、イスラーム教徒であるとか、宗教的自覚に基づいて行動します。(……) これに対して日本人は宗教意識が弱くて、むしろ人間的結合、組織というものを重んじます。この違いは、遠く民族の原始宗教の時代までさかのぼることができます。
(括弧内および下線は筆者の補足)

少々強引だが、宗教的自覚ないし宗教意識を「理念」に置き換えてみたらどうだろう。新年に寺に参り、神社の夏祭りに興じ、友人の結婚に際して教会で賛美歌を歌う。合格祈願の鉢巻をして祈り、神棚に手を合わせる。無神論者が御守を携え縁起をかつぐ。必要に応じて都合よく神や祈りを使い分けるご都合主義は、国家や経営の理念を掲げながらも現実の人間関係や組織の状況を優先するのに酷似している。皮肉まじりで嘆いているのではない、理念通り哲学通りにまったくぶれないで現実を生きることには覚悟がいると言いたいのである。

かつて「日本人には原理原則がない」と『タテ社会の人間関係』で主張した中根千枝が、世界の人々に大いなる誤解を与えたと一部の識者に批判を浴びたのを思い出す。この四十年余り、とりわけ昨今の政治的リーダーシップや企業倫理を見るにつけ、原理原則の不在に反論する気は起こらない。まったくその通りなのである。タテマエでは理念を崇高な善として祭り上げながら、ついつい現実に流されて都合よく理念を棚上げにする風潮は廃れていない。いや、中村元によれば、「遠く民族の原始宗教の時代までさかのぼる」のだから、もはやDNAレベルと言うほかない。

理念不履行の人々が最大派閥を形成するこの社会。時には理念に反する現実にやむなく迎合せねばならないという都合――よく言えば、柔軟性――は、ぼくたちの行動や約束ぶりに内蔵されている。理念は形式であって、現実が内容なのである。理念と現実を天秤にかけること自体がもはや理念主義ではないのだが、その天秤はいつも現実のほうが重くなるようにしつらえられているようだ。理念不履行の人々を糾弾する気はないが、切羽詰まった挙句に理念を軽く扱うのなら、最初から現実主義で生きればいいのである。この国の風土で形成される理念はきわめてもろい。「できもしない、やる気もないことをつべこべ言う前に、さっさと仕事をしろ!」と乱暴にぶち上げた昔気質のオヤジの一理は渋くて強い。

けちをつける愉しみ

「人は忘れる。だから生きていける。」 

缶コーヒーの車内広告である。缶コーヒーの宣伝に「忘却と人生」? なかなか凝ったものだ。商品写真横のキャプションには「強く、香る。強く、生きる。」とあって、このコピーライターが「生」をコンセプトにしたのは間違いない。生きることに強くこだわるような事情があったのだろうかと勘繰ってしまう。コーヒーとはいえ、ちょっと焙煎過剰な表現に場違い感を受けた。

たかが広告ではないか。こんな些細なことにけちをつけることはあるまい。けれども、ぼくはけちをつけ毒舌を吐くことを愛情もしくは関心の一表現または一変形だと思っている。そもそも人はどうでもいいことに対して肯定も否定もしないだろう。また、眼中にすらないことをわざわざ話題として拾わないだろう。それゆえ、言いがかりやイチャモンをつけるのは、対象を批評に値すると承認している証にほかならない。反証されることは自慢すべきことなのである。

(……)役所に猛烈な苦情や文句をぶつけるばかりで、みずから解決のために奔走することを考えもしない「クレーマー」たち。(……)「クレーマー」は他者の責任を問いつめるが、そのクレームが「もっと安心してシステムにぶら下がれるようにしてほしい」という受け身の要求であることに気づいていない。(鷲田清一著『わかりやすいはわかりにくい?――臨床哲学講座』)

ぼくは上記の引用にあるようなクレーマーではない。広告の文章にけちをつけはするが、苦情や文句をメーカーにぶつけてはいないし、責任を問いつめもしていない。ぼくは真摯かつ臨床哲学的かつ愉快に広告コピーを検証しようとしているのだから。


クレーマーがつけるけちは理不尽であり、相手が弱いと見るや際限なく垂れ流され増長し続ける。ぼくは、消費者があまり見向きもしない車内の小さな広告を気に留めて、「ダメだ!」などと声を荒げもせずに、静かにけちをつける。このコピーライターは、そしてゴーサインを出した広告主は、なぜ「人は忘れる。だから生きていける。」などという大胆な命題を見出しにしたのか、いったいその真意はどこにあるのだろうか……というふうに。この広告のヘッドラインになっている命題の真偽を、あるいは蓋然性を問うてみるのはおもしろいと直感した。

生きていくうえで忘れることが時々たいせつであることを認める。しかし、「忘れるから生きていける」は論理の飛躍だ。前提が少なくとも一つ足りない。よろしい。論理の飛躍をオーケーとしよう。たしかに、忘れるそいつは平気で厚かましく生きていけるだろう。しかし、忘れる当人の周囲がどれだけ迷惑していることか。ぐいっと缶コーヒーを飲んで何もかも忘れて、そいつは今日も明日も生きていくだろう。だが、やっぱりそんな記憶力の乏しい者は仕事ができるはずもないから、また人さまに迷惑をかける。

「人は忘れる。だから生きていける。」は、「人は忘れる。だから生きていけない。」という反対命題によって揺らぐだろう。もしかすると、命題は崩されてしまうかもしれない。また、「人は忘れない。だから生きていける。」という思い出重視派からの反論も有効になるだろう。いずれにしても、缶コーヒー一本で嫌なことを忘れて生きていこうというのがメッセージなら、そこで消し去ろうとしている記憶そのものが取るに足りないものであることは間違いない。

現在日本社会が抱えている大半の問題が、人々が忘れることによって繰り返されているのを見るにつけ、とりあえず安易な忘却に異議申し立てしておく。「ぼくは忘れない。だから生きていける。」

知らないことばかり

二十代、三十代の頃、現在の年齢を遠望しては「そのくらいの歳になったら分別も備わっていろいろと見えているだろう、知識もだいぶ深く広く修めているだろう」などと楽観していた。楽観は甘かったと痛感し始めたのが五十も半ばになってからである。もっと大人になっていると当て込んでいたが、目算外れもはなはだしい。齢を重ねても、未熟な部分はしっかり残っている。青少年的未熟ならいいが、幼児的未熟に気づくと愕然とする。

もちろん、そこまで悲観しなくても、未熟性が克服できている一面もないことはない。ぼくの親戚筋からすれば、人前に出て講演をしたり会社を経営したりしているのは驚きらしいのだ。青少年時代に静かに考えたり読書をしたりする性向はあったものの、まさか議論好きへと大転向するなどとは夢にも思わなかったようである。

たしかに無知や不知が部分的に解消されて、知っていることも増えた。どんなに無為無策に生きたとしても、そこに何がしかの経験知が積まれるだろう。何の自慢にもならないが、アルファベット26文字は小学生で覚えたし、生活空間で用いるモノの名称は手の内に入っている。専門領域の話題なら、少々難度が高くても語り書くこともできる。しかし、知らないことばはいくらでも次から次へと現れてくるし、出張で訪れる街については圧倒的に知らないことばかりである。いや、わが街についてさえ未知はつねに既知を凌駕している。


七月の終わり、十数年ぶりに高知を訪れた。研修の仕事で23日。たまたま前回と同じホテルに宿泊したので、ホテルの玄関からフロント前のロビーの構造は覚えていたし、ホテル前の路面電車通りも記憶に十分に残っていた。前に足を運んだ喫茶店はエントランスを見ただけで思い出した。高知について圧倒的に知らないわりには、ごくわずかに知っている事柄が点を結んで大まかな図が浮かぶ。まるで無数の星の中から適当に都合のよい星をいくつか選んで星座を描くようなものである。

食に関しては、鯨もウツボも四万十の鰻も馬路村の柚子も知っている。しかし、実際に舌鼓を打った覚えのあるのはカツオのタタキと皿鉢料理と生ちり、それに野菜類だけである。生ちりとは、フグのてっさ風にヒラメの刺身を敷き詰め、その周囲にカツオの心臓や鮪のエラなどを茹でて冷やした珍味を数種類並べた料理で、ポン酢で食べる。前回ご馳走になり今回も久々に食したが、やっぱりなかなかの味わいであった。

この生ちり、地元の人がほとんど知らなかった。どうやらぼくの入った割烹の独自メニューだったようなので無理もない。しかし、彼らの大半は、ぼくがホテルの朝食で口にした「柚子とひめいちの辛子煮」も「ひっつき」も知らなかった。おそらく大阪人にとってのたこ焼きほど地元では浸透していないのだろう。ぼくにとっては、ひめいちという小魚も浦戸湾のエガニも初耳で初体験。四万十川源流の焼酎ダバダ火振も初めて飲んだ。関心の強い食ですら知らぬことずくめである。

知らないものを食べるたびに、ぼくは無知を自覚する。よく知っていると自惚れている他のこともこんなふうなのだと思い知る。無知や知の偏在を一気に解消することなどできない。しかし、世の中知らないことばかりとわきまえているからこそ、小さな一つのことを知る愉しみもまた格別なのである。

人それぞれの難易度感覚

Nさんが「前回の哲学の話はものすごく難しかったが、今日の広告の話はよくわかった」と言えば、Mさんは「ぼくは前回はよくついて行けたが、今日の分野は奥が深くて難しさも感じた」と言う。二人はぼくの私塾の同じ講座について語っている。「そんなもの、人それぞれが当たり前。得意不得意もある」と片付けてもいいが、単にケースバイケースだけで事を済ましていては進歩がない。ゆえに少考してみる。

仮に二人が同じテーマに関して「難しい」とつぶやいても、その難易度感覚が同じであることはない。そして、一方がその分野を得意とし他方が苦手としている現実があるとしても、いずれもがそれぞれの難易を感じることがあるだろう。人にはそれぞれの難易度感覚があるのは間違いない。しかし、その難易度を表現することはできないし、ぼくが彼らの難易度感覚を精細に突き止めることなど不可能だろう。

英語で生計を立てていた時期に超難解とされていたソシュール言語学を勉強してみたが、初耳で目からウロコでポカンと口を開けてしまう内容だったからこそ、砂地が水を吸うようによくわかったという経験がある。逆に昨年から再読し始めた老子などはあれこれと本を読めば読むほどますます混乱して、ぼくにとっては難しさが増している。いったいぼくの知はいずれに深いのか。難易度感覚は実際のぼくの理解度に比例しているのか。ともあれ、ぼくはそのことを楽しんでいる。


哲学に「他者問題」や「彼我問題」というテーマがある。人ははたして他人のことがわかるのか、もしわかるのなら、どこまでわかるのか。いやいや、他人のことなどわからない、わかるのは自分のことだけ。いやいや、人は自分のこともわかっていないのではないか……などと考えてみる。もう一歩踏み込めば、他人の何がわかり何がわからないのかが浮かび上がる。哲学的に考察したらキリがないが、現実生活にあっては「人は他者がわからない。ましてや他者の心理や気持などはわからない」とぼくは割り切っている。

妙なもので、わからないと割り切るからこそわかろうと努める。とりあえず話し合う。議論もする。他者をわからないとクールに構えるぼくは結構他者理解に努力をしているつもりだ。むしろ、人同士は心が通い合い自然とわかるものだという連中のほうが油断して、誰のことも自分のこともわかっていないことが多い。彼らと話をしても、何も証明しないし、ただひたすら他人の心がわかると言うばかりだから、そんなものを信用するわけにはいかないのである。

難易度感覚はたしかに人それぞれだろう。しかし、難易度感覚に左右されることはない。それは理解度の最大瞬間風速センサーのようなものだ。難しい易しいと感じたことは事実だとしても、センサーの針の大きな動きに惑わされる必要はない。易しくてよくわかったことを記憶だけに留めて何もしないよりは、難しくてわからなかったことの一つでも実践できれば楽しい。学びの感想の軸を難易度から幸福度や愉快度にシフトするのがいいだろう。  

ロジカルの程度

論理的という意味と同等に「ロジカル(logical)」が使われ定着するようになった。まずロジカルシンキングが目立つが、ロジカルリスニングにロジカルライティングというのもある。ロジカルスピーキングやロジカルコミュニケーションも研修タイトルとしてよく耳にする。実際、ぼくもロジカルシンキングとロジカルコミュニケーションという名称の研修を実施するが、以前も書いたように、シンキングよりもコミュニケーションに力点を置く。

上記のカタカナで呼称される研修は、思考力と言語の認知・伝達力の強化を主たる目的としている。しかし、論理的思考が成されているかどうかを直接的に知ることはできない。「きみは論理的に考えているかい?」と尋ねて、「はい、以前に比べてより論理的に考えることができるようになりました」と答えが返ってきたから、論理的思考ができている? そんな馬鹿げたことはないわけで、彼が論理的に考えているかどうかは、少々対話をしたり問答を交わしたりして判明する。思考と言語は論理的に同期するから、だいたい言語による説明や伝達ぶりを観察すればロジカルであるかそうでないかが明らかになる。

かつて「ロジカル度テスト」なるものを実施していたが、これは純然たるお遊び。論理学習を食わず嫌いしないようにと配慮したものだった。研修の冒頭でロジカル度を自己採点して、各自の点数に苦笑いしたり胸を張ったりしてもらったまでである。言うまでもなく、ロジカルに程度などない。ロジカルかロジカルでないかのどちらかしかない。デジタル的な「10」である。「あの人は彼女よりもロジカルだ」と言えなければ、「この文章はとても論理的である」とも言えない。ロジカルに比較級も強調もない。あの人(あの文章)は論理的であるか非論理的であるかのいずれかなのだ。


ロジカルと同じように、比較級変化せず、また形容詞の修飾を受け付けないのが、固有を意味する「ユニーク(unique)」。「とてもユニーク」や「きわめて固有の」などは日常会話では当たり前になっているが、よくよく考えれば、ユニークにも程度はない。ユニークかそうでないかである。「この作品はあの作品よりもユニークだ」とつい言ってしまいそうだが、「この作品はあの作品よりも固有だ」がありえないことは何となくわかってもらえるだろう。

ロジカルを「筋が通っている」に置き換えれば、「半分筋が通っている」という状態が奇異であることがわかる。あるいは、「一部脱線したり寄り道していたりするが、おおむね筋が通っている」も矛盾を抱えている。筋が通ると断言するかぎり、横道に逸れたり途切れたりしてはいけない。筋が二本通ってもいけない。通る筋は一本のみ、しかも真っ直ぐでなければならない。これこそがロジカルの本質なのである。

繰り返すが、人は少しだけロジカルになったりだいたいロジカルになったりできない。ある言説が前提と結論という構造をもつとき、その文章は論理的か非論理的かのいずれかである。「ぼくは生卵を手にしている。床は硬い大理石である。手を高く掲げて卵を床に落とせば割れるだろう」という推論はロジカルであり蓋然性も高い。但し、ロジカルであることと蓋然性があることはイコールではない。後者は現実に起こるかどうかの話である。もしその生卵が割れなかったとしても、上で成された推論がロジカルであることに変わりはない。

型を破る型はあるか、ないか?

型に縛られていないようだが、アイデアマンにも発想の型がある。「やわらかい発想ができる」という自信は、慣れ親しんだ型に裏付けられているものだ。やわらかい発想について話をするとき、ぼくは必ず型の説明をしている。「やわらかい発想に型などない。以上」では報酬をいただくわけにはいかない。やわらかい発想のためには常識・定跡・法則の型を破らねばならないが、型を破るための型を示さなければ、誰も学びようがないのである。けれども、ぼくはある種の確信犯なのだ。「型破りに型などあるわけがない」と思っている。

「破天荒な型」などと言った瞬間、そのわずか五文字の中ですでに自家撞着に陥っている。破天荒な人物に型があったらさぞかしつまらないだろうし、そもそも型を持つ破天荒なヒーローなどありえない概念なのである。破天荒にルールはなく、型破りに型はない。野球で言えば、ナックルボールみたいなものである。無回転で不規則に変化するボールの動きや行方は、打者や捕手はもちろん、投げた投手自身でさえわからない。ボストンレッドソックス松坂の同僚で、名立たるナックルボーラーのウィクフィールドだって「どんな変化をしてどのコースに行くかって? ボールに聞いてくれ」と言うに違いない。そこには決まった型などない。

だが、ちょっと待てよ。行き先や動きが不明ということがナックルボールの型なのではないか!? ふ~む。嫌なことに気づいてしまったものだ。たしかに、ナックルボールには、投げたボールがどう変化してキャッチャーミットのどこに入るか――あるいは大きく逸れるか――が皆目わからないという明白な特徴がある。それを型と呼んで差し支えないのかもしれない。ついっさきの、型破りな型などないという確信をあっさり取り下げねばならないとは情けない。野球の話などしなければよかった。


以上でおしまいにすれば、文章少なめの記事になったが、気を取り直してもう少し考えてみることにする。先の「破天荒な型」に話を戻すと、その型が定着したり常習的に繰り返されないならば、つまり、一度限りの型であるのなら、これは大いにありうる、いや、あっていいのではないか。

マニュアルやルールの批判者が、『マニュアル解体マニュアル』を著したり『ルールに縛られないためのルール集』をまとめたりしたら、やはり節操がないと睨まれるだろうか。その批判者自らが提示する解体マニュアルと変革ルールを金科玉条に仕立てたら、当然まずいことになる。二日酔い対策のための迎え酒が常習化したら、昨日の酔いの気を散らすどころか、年中酒浸り状態になってしまう。

何となく薄明かりが見えてきた。マニュアルを一気に解体してみせる一回使い切りのマニュアルならいいのだ。また、ルールにがんじがらめに縛られている人を救うためのカンフル剤的ルールなら許されるのだ。したがって、型破りのための新しい型が威張ることなく、たった一度だけ型破りのために発動して役目を果たすなら、大いに褒められるべき型であるし共有も移植も可能だと思える。ここで気づいたが、この種の型のことをもしかすると「革命」と呼んだのではないか。

型という一種のマンネリズムを打破する方法は革命的でなければならず、その方法が次なるマンネリズムと化さないためには自浄作用も自壊作用も欠かせない。とにもかくにも、どんなに魅力ありそうに見える型であっても、型はその本質において内へと閉じようとする。型は決めたり決められたりするものだから、個性や独創と相性が悪いのである。型を破ったはずの型を調子に乗って濫用してはいけない。この結論がタイトルの問い〈型を破る型はあるか、ないか?〉の答えになっていないのを承知している。