何も聴かない、何も読まない

有名な酒造メーカーの高級ブランドウィスキーの広告に「何も足さない、何も引かない」というのがある。ご存知の方も多いだろう。「純」であることを訴えるのに純粋という陳腐な言い回しをしないのがいい。足しも引きもしないという表現からぼくたちは自然をイメージしてしまう。なかなか秀逸なコピーだと感心したものである。

けしからぬミート加工業者が数年前に摘発されたとき、ぼくはこのコピーを本歌にして「何でも足す、何でも挽く」なるパロディーを創作した。表示された食肉以外の肉を足し、何でもかんでもミンチ状に挽いたありさまを諷刺してみたのである。それをきっかけにもう一丁とばかりにひねったのが「何も聴かない、何も読まない」である。音楽も聴かなければ本も読まないという見たままの文意ではない。実は、もう少し意味深長のつもりである。

作意を披露する前に、もったいぶって伏線を張っておこう。先日、書店で平積みしてある『日本人へ リーダー篇』と題された本を手にした。著者は、全三十数巻の大作『ローマ人の物語』の塩野七生。平積みの最新刊を求めることはめったにないが、携行した本を出張先で読み切った時には、その種の本を買うことがある。いきなり「人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は、見たいと思う現実しか見ていない」というユリウス・カエサル(英語名ジュリアス・シーザー)のことばが紹介される。著者はこのことばが気に入っているようで、『ルネサンスとは何であったのか』の中でも使っている。そこでは、「人間性の真実を突いてこれにまさる言辞はなし」というマキアヴェッリの賞賛も添えている。


ここで注目すべきは「多くの人は、見たいと思う現実しか見ていない」という後段である。見たいという行為だけにとどまらず、「したいことしかしない」や「考えたいことしか考えない」や「欲しい情報しか求めない」などへ敷衍することができる。これらの性向を説明してくれるのが、〈認知的不協和理論〉だ。人は自分の考えに合っていることや自分の都合によくなる情報だけを使い、都合の悪いことから目線を逸らす。すなわち、人は欲求するところを中心に推論する癖を持つのである。

さて、「何も聴かない、何も読まない」に話を戻そう。これは、聴いているようで実は何も聴いておらず、読んでいるようで実は何も読んでいないという意味なのである。「聴きたいことだけを聴き、読みたいことだけを読む」のならまだしも、多くの人は、聞き覚えのあることや読み覚えのあることにはあまり集中しようとはしない。いや、わざわざ意識して集中しなくても、聞き流し読み流すだけで十分とタカをくくっているのである。困ったことに、すでに知っていることに対してはきわめて御座なりに済ませてしまうのだ。

では、聴いても読んでも難解な事柄に対してはどんな態度をとるのか。今度は、聞き飛ばし読み飛ばす。要するに、わかっていることにはいい加減に相槌を打ち、わからないことには聞かざる見ざるを決め込むのだ。こうして、「何も聴かない、何も読まない人間」が出来上がってしまう。事柄が既知であろうと未知であろうと、聴く・読むという認知は集中を要する。集中を怠れば、聴ける範囲内で聴き、読める範囲内で読むという惰性に流れる。聴けたり読めたりするはずの事柄すらうわの空という状態だ。好きなものばかり食べていたら、やがてその好物の味そのものがわからなくなるのである。

学び上手と伝え上手

無意識のうちに「知識」ということばを使っている。そして、知識をアタマに入れることを、これまた無意識に「学び」と呼んだりしている。学ぶとはもともと「真似」を基本として習い、教えを受けることだった。プロセスを重視していたはずが、いつの間にか「知識の定着」、つまりインプットに比重が置かれるようになった。現在、一般的には、学びが知識の習得という意味になっているような気がする。

教えを受けるにせよ本を読むにせよ、知は自分のアタマに入る。「知る」という行為はきわめて主体的で個人的だ。ぼくが何かを知り、それを記憶して知識とする過程に他人は介在しないし、とやかく言われることもない。ぼくの得た知識はひとまずぼくのものである。だが、どんなに上手に学んだとしても、知識を誰かと共有しようとしなければ、その知は存在しないに等しい。共有は伝達によって可能になるから、伝えなければ知は不毛に孤立するばかりだ。

高校生だった1960年代の終わりに、情報ということばを初めて知った。知識が「知る」という個人的な行為であるのに対して、情報には「伝え、伝えられる」という前提がある。やがて、情報化の進展にともない、知識ということばの影が薄くなっていった。

ちなみに、「知る」は“know”、その名詞形が“knowledge”(知識)。他方、「伝える」は“inform”、その名詞形が“information”(情報)。動詞“inform”は「inform+人+of+事柄」(人に事柄を伝える)という構文で使われることが多いから、このことばには他者が想定されている。伝達と同時に、共有を目指している。このように解釈して、二十年ほど前から、「知識はストック、情報はフローである」と講演でよく話をしてきた。


情報は空気のようになってしまったのか、調べたわけではないが、情報を含む書名の一般書がめっきり減ってきたような気がする。二十一世紀を前にしてピーター・ドラッカーやダニエル・ベルが知識について語ったとき、それは情報をも取り込んだ、高次の概念として復活した知識だったのだろう。昔の大学教授のように、ノート一冊程度の講義録で一年間持たせるような知識の伝授のしかたでは、おそらく共有化した時点で知は陳腐化しているだろう。

記憶するだけで誰とも知識を共有しようとしない者は「知のマニア」であって、学び上手と呼ぶわけにはいかない。知のマニアとは知の自家消費者のことである。誰にでも薀蓄する者は疎ましい存在と見られるが、学んだきり知らん顔しているよりはうんと上手に学んでいると言えるだろう。学び上手とは、どんなメディアを使ってでも誰かに伝えようとする、お節介な伝道師でもあるのだ。

プラトンが天才的な記憶力の持ち主であったことは明らかだが、彼が利己的な学び手でなかったのは何よりだった。一冊も著さなかった偉大なる師ソクラテスの対話篇や哲学思想は、プラトンなくして人類の知的遺産にはなりえなかった。プラトンはソクラテスに学び、そして学びを広く伝えたのである。イエスと弟子、孔子と弟子の関係にも同様の学習と伝達が機能した。言うまでもなく、誰かに伝えることを目的とした学びは純粋ではない。まず旺盛なる好奇心によって自分のために学ばねばならないだろう。そして、その学びの中に誰かと共有したくなる価値を見い出す。他者に伝えたいという抗しがたい欲求を満たすことによってはじめて、学びは完結するのである。

答えは一つなのか

「アルファベットのRTの間に入る文字は何か?」 この問いに対してふつうは“S”と答える。アルファベットは26文字の集合なので、必ずしも「ABC……XYZ」と並ぶことを強要してはいない。とはいえ、「アルファベットを言ってごらん」と言われれば、ぼくたちはたいていAから順に暗誦する。どうやらアルファベットには「順列」も備わっているらしい。実際、名詞の“alphabet”を副詞の“alphabetically”にすると、英語では「(アルファベットの)ABC順に」という意味になる。

「アルファベットのRTの間に入る文字は何か?」と聞かれて、たとえば“RAT”(ネズミ)が思い浮かんだので“A”と答えるとする。おそらく間違いとされるだろう。出題者がその答えを求めているなら、「RTの間にアルファベット一文字を入れて意味のある単語を作りなさい」とするはずだ。したがって、「アルファベットのRTの間に入る文字は何か? 」への答えはただ一つ、“S”でなければならないと思われる。

このような次第で、答えはつねに一つになるのか? たしかに、上記の例のような既知の事柄については唯一絶対の解答はありうる。他にも、都道府県の数は? 平安京遷都は西暦何年? 元素記号でLiは何を表わすか? などの問いは一つの答えを要求しており、解答者がそれぞれの正答である「47」、「794年」、「リチウム」以外の答えを編み出すことはできそうもない。期待された正答以外の創意工夫をしても、ことごとく不正解とされるはずだ。

絶対主義は真なるものを存在させようとする。真なるものは文化や歴史の枠組や文脈とは無関係に一つであるとされる。たとえば、学校のテストで「アメリカ大陸を発見したのは誰か?」という設問に、「コロンブス」をただ一つの正解として認めるようなものである。だが、ちょっと待てよ。ついさっき、既知の事柄については唯一絶対の解答は「ありうる」と書いた。意識してそう書いたが、これを裏返せば、ない場合もあるということだ。


コロンブスの代わりに、「クリストファー・コロンブス」と名と姓を挙げてもおそらく正解になる。だから、すでに「一つの正解」が崩れている。さらに屁理屈をこねれば、いくつでも答えらしきものをひねり出すことができるだろう。この問いが日本の中学生に出題されたのであれば、「外国人」と答えてもいいし、「もしそれが1492年でないならば、アメリゴ・ベスプッチ」と洒落てみることもできる。もし設問が「コロンブスがアメリカ大陸を発見したのはいつか?」であれば、必ずしも年号を記す必要はない。「中世の時代」でも「15世紀末」でも広義の正解になるし、とてもアバウトだが「ずいぶん昔」でも外れてはいない。明らかに、既知の事柄に関して絶対主義的立場から導く答えも一つとは限らないのだ。問いの表現に解釈の余地があれば解釈の数だけ答えも生まれることになる。

そうであるならば、相対主義に至っては古今東西の文化圏の数だけ、いや人の数だけ異なった解答がありうることになる。では、既知ではなく、未来の方策についてはどうか。これを答えと呼びうるかどうかは別にして、やはり一つに限定するのは無理がありそうだ。

たとえばひどく疲れているぼくが疲れを癒す方策は、適当に思い浮かべるだけでも、睡眠、風呂、散歩、体操、栄養剤、音楽など枚挙に暇がない。数時間先または明日、明後日に効果を待たねばならないから、どれがもっとも有効な方策かを今すぐに決めることはできない。この点では正解はわからない。しかし、正解候補はいくらでもある。実際、すべてを試してみれば、すべてが正解として認定できるということもありうるだろう。

何が何でも正解を一つにしたければ、「コストパフォーマンスの高いもの」や「即効性の強いもの」などの条件を設定したうえで、すべての方策を何度か繰り返してデータを取るしかない。睡眠時間の長短、風呂の温度と水量、散歩や体操の時間と強度、栄養剤や音楽の種類など気の遠くなるような定性的・定量的テストを重ねる。それでもなお、ぼくが自分の疲労条件をまったく一定にすることなど不可能ではないか。未来に求める答えを一つに絞ることがいかに空しいかがわかるだろう。正解候補も答えもいくらでも存在するのだ。どれをベストアンサーにするかは、最終的にはほとんど信念である。

考えることと語ること

だいぶ前の話になるが、コミュニケーションの研修のたびにアンケートを取っていた。いくつかの問いのうちの一つが「コミュニケーションで悩んでいることは何か?」であった。そして、二人に一人が「考えていることをうまくことばにできない」や「思っていることを他人に伝えることができない」と答えたのである。これらの答えの背景には「自分は何かについて考え、何かを思っている」という確信がある。その上で、そうした考えや思いを表現することばに欠けているという認識をしている。はたして言語はそのような後処理的なテクニックなのだろうか。

「思考が言語にならない」という認識はどうやら誤りだということに気づいた。ほんとうに考えているのなら、たとえ下手でも何がしかの兆しが表現になるものだ。幼児は、バナナではなくリンゴが欲しいと思えば、「リンゴ」と言うではないか。それは、バナナと比較したうえでの選択という微妙な言語表現ではないが、思いの伝達という形を取っている。「リンゴ」と言わないうちはリンゴへの欲求が、おそらく不明瞭な感覚にとどまっているはずだ。子どもは「リンゴ」と発すると同時に、リンゴという概念とリンゴへの欲望を明確にするのである。

「言葉は思考の定着のための単なる手段だとか、あるいは思考の外被や着物だなどとはとても認められない」「言葉は認識のあとにくるのではなく、認識そのものである」(メルロ=ポンティ)

「言語は事物の単なる名称ではない」(ソシュール)。

「言語の限界が世界の限界である」(ヴィトゲンシュタイン)。

粗っぽいまとめ方で恐縮だが、これら三者はそれぞれに、言語と思考の不可分性、言語とモノ・概念の一体性、言語と世界観の一致を物語っている。


ぼくたちは何度も繰り返して発したり書いたりしたことばによって思考を形作っている。未だ知らないことばに合致する概念は存在しない。いや、不連続で茫洋とした状態で何となく感覚的にうごめきはしているかもしれないが、それでも語り著すことができていないのは思考というレベルに達していない証しである。先のヴィトゲンシュタインは、「およそ語りえることは明晰に語りうるし、語りえないものについては沈黙しなければならない」とも言っている(『論理哲学論考』)。語りえることと考えうることは同じことだとすれば、語っている様子こそが思考のありようと言っても過言ではない。

以上のような所見が異様に映るなら、相手が想像すらしていないことについて質問してみればいい。相手は戸惑い沈黙するだろう。これではいけないとばかりにアタマの中に手掛かりを求めるが、白紙の上をなぞるばかりでいっこうに脈絡がついてこない。ますます焦って何事かを話し始めるが、明晰からは程遠い、無意味な単語を羅列するばかりだろう。あることについて知らないということはことばを知らないということであり、ことばを知らないということはことばにまつわる概念がアタマのどこにもないということなのである。

芸人のなぞかけが流行っている。「○○とかけて□□と解きます。そのココロは……」という例のものだ。まず「○○」が初耳であれば解きようもない。仮に「○○」が知っていることばであっても、かつて思い巡らしたことすらなければ、整わせようがない。たわいもないお遊びのように見えるが、実は、あの技術は言語力と豊富な知識を必要とする。そう、明晰に語ることと明晰に考えることは不可分なのである。ことばが未熟だからと言い訳するのは、思考が未熟であることを告白していることにほかならない。   

もしBを望むならAをしなさい

先週、『知はどのように鍛えられるか(1/2)』の中で、「思考が運命を変える」という法則が真理だとしても、思考そのもののありようや鍛え方が難しいという趣旨のことを書いた。また、「グズをなおせば人生はうまくいく」にも両手を挙げて賛成するが、グズを直すのがネックであるという意味のことも付け加えた。

これに対して知人から「反論というわけではないが、全面納得できないので、もう少し説明してもらえればありがたい」という話があった。なるほど、「命題として記述された法則を認めているくせに、その法則には現実味がないぞ」とぼくは言っているのである。

しかし、そんなに変なことだろうか。わかりやすい例を取り上げれば、「丹念に毎日歯の手入れをすれば、虫歯や歯周病は防げる」に対しては、大勢の人々は是の立場を取るだろう。実際ぼくが定期的に通っている歯医者さんもそう言っている。

しかし、この例も、先の二つの例も、実は〈仮言命題〉という類の命題になっている。いずれの命題も、「もしBを望むならAをしなさい」という表現形式に変換できるのである。つまり、「運命を変えたいのなら思考を何とかしなさい」、「人生をうまく送りたいのならグズを直しなさい」、「虫歯や歯周病にかかりたくないのなら、毎日きちんと歯を手入れしなさい」と読み替えることができるのだ。「Aをしなさい、そうすればBが実現する」という文章は、「もしBを望むならAをしなさい」という意味を記述している。


上記の命題が正しいことを論理学的に証明するのはさほど難しくはない。通念に訴える論拠を使えばいいからだ。しかし、現実に実践してみせることは至難の業である。うまく思考すること、グズを直すこと、毎日歯の手入れをすることは、言ってみるほどたやすくはなく、それゆえに目指した願望がなかなか実現しないのである。念のために、もう一つ例を挙げておこう。「NASAの宇宙飛行士になれば、宇宙に行けるチャンスがある」は、「もし宇宙に行きたいのなら、NASAの宇宙飛行士になりなさい」と記述変更できる。望むのは勝手だが、手段が成功する確率が天文学的であることがわかるだろう。

「夢は叶う」などと軽々しく言う教育者がいる。それはそうだろう、「夢なぞ叶わんぞ!」と言ってしまえば、一極集中的な非難を浴びせられるからだ。だが、「夢が叶う」ためには並大抵ではない努力が必要なことを、実はみんなわかっている。具体的な習慣ですら三日坊主になりかねないのに、抽象性の強い努力がほんとうに続けられるのか。教育者たちはこのことについてあまり正直に語らないのである。だから、彼らは努力の部分を安易なハウツーに変えてしまう。「おいしい卵料理を作りたければ、レシピの研究をして毎日挑みなさい」と言わずに、「卵の黄身と卵白を取り出したいのなら、卵を割りなさい」という、ほとんど機械的で努力を要しない命題へとレベルを落として、「できた気」にさせ束の間の満足を与えるのである。

「マナーを向上させたいのなら、マナー教室に通いなさい」などという仮言命題は、ほとんど「トートロジー」という循環論法になっている。マナー教室に通うのにさしたる努力はいらないし、なるほど数回ほど通えば、よほどのバカでもないかぎり、少しはまっとうなマナーを身につけて帰ってくるだろう。「喉が渇いたなら、水を飲みなさい」にかぎりなく近い話だ。これが社会人を対象とした学びの定番になりつつあることを嘆くべきではないか。つまり、本来やさしいことをやさしく学んでいるにすぎないのだ。だから、いつまで経っても一皮剥けるほどの成果を得ることができない。

ぼくの私塾はこうしたトレンドへのアンチテーゼのつもりだ。「もし人間関係を充実させ良き仕事をしたいのなら、思考力と言語力を鍛えなさい」というのがぼくの仮言命題である。そして、思考力と言語力を鍛えるのは他のどんなスキルアップよりもむずかしいことを付け加える。ある意味で、この命題は仮言命題などではなく、「思考力と言語力は人生そのものである」という《定言命題》と言ってもいいだろう。考えもせず対話もしない人間は、地球上の全生命体のうちでもっともひ弱な存在になり果てる。 

「最初はノー」

とてもおもしろい資料が出てきた。B5判用紙が30枚。両面印刷なのでノンブルは60ページまで付いている。各ページの文字数が40字×43行だから合計1,720字。相当な分量の資料になる。文庫本なら一冊に相当するかもしれない。

今から13年前(当時46歳)の講演録だ。タイトルは『ディベートから何を学ぶか』。主催・対象ともに行政の職員組合のメンバーで、12時間半のセミナーを3回シリーズでおこなった講演とディベート実習の模様を収録している。懐かしさも手伝ってざっと目を通した。今でこそ年季の入った緩急自在な話し方をするようになったが、当時は終始早口で、特にディベートをテーマにした話の場合は、初心者が戸惑うほど流暢だったのではないかと思う。

懐かしさ以上にあらためて驚嘆したのは、その講演を収録したテープ起こしを担当したF氏の尋常ならぬ執念である。出版するわけでもなく、学んだ仲間十数名で共有するだけの資料づくりに、よくもこれだけのエネルギーを費やしたものだと感じ入る。ぼくの話は筋が通っているとは思うが、近接領域へとよく脱線するし、話がどんどん膨らむし、しかもテーマがディベートだけに、難解な用語やカタカナも頻出する。再生と巻き戻しを繰り返してテープレコーダーを操作しては一時停止し、一言一句文章化していったF氏の姿が浮かんでくる。


ディベートにつきものの反対尋問、とりわけイエスとノーで問うことの意味については第2 回の講演で説明している。しかし、もう一点、かつてのディベート研修では必ず冒頭のほうで取り上げていた金言が漏れている。今となっては出典がわからないのだが、文言だけはよく覚えている。「あなたの意に反して即断を迫られた時にはノーと答えよ。イエスをノーに変えるよりもノーをイエスに変えるほうがたやすいから」というのがそれだ。「迷ったらノー」が原則で、ノーからイエスへの変更に対して交渉相手は文句は言わないが、イエスと言っておきながら土壇場でノーに変えるのは潔くなく、それどころか、相手の反感を買うという教えである。ジャンケンの掛け合いは「最初はグー」だが、対話や交渉のスタンスでは「最初はノー」ということになる。

ディベートの肯定側と否定側のように、あるテーマを巡って対立している二人が対話を始める時、心の中では「最初はノー」を唱えておくのがいい。ディベートの対立図式は終始変わらないが、日々の対話ではノーから始めて徐々に接合点を見つけ、やがて各論的にイエスにシフトしながら、理想的には少しでもコンセンサス部分を増やしていく。物分かりのいい「最初はイエス」でお互い受容し共感し合っても、検証不十分のツケは後で回ってくる。最初はいいが後々になってもつれてくると事態の収拾がつかなくなる。

意気投合というようなバラ色の出発をしてしまうと、小さな違和感一つが大きなひび割れの要因になってくる。「一週間で納品してくれるか?」と聞かれ、仕事欲しさのあまり「イエス」と慌てて答え、納品のその日になってから「すみません、あと一日いただきたいのですが」と申し出たら、発注者は心中穏やかではない。「君ができると言ったから頼んだのだぞ!」と叱責される。安易にイエスから入ってノーで風呂敷を畳むことはできないのだ。

「結婚してくれる?」と男がプロポーズし、女が「はい、喜んで」と答える。一週間後、「ごめん、やっぱりノー」と変更したら、これは事件である。もしかすると、本物の事件になるかもしれない。反対に、ずっとノーを言い続けた女が最後の最後にイエスに転じたら、もう一生涯男を尻に敷くことができるだろう。ぼくの場合、ノーから入って仕事の機会を失ったこともあるが、最初に「できないことをできない」と明言する誠意によって圧倒的に機会に恵まれた。但し、「最初はノー」はあくまでも原則論であって、昨今は一度のノーで「あ、そうですか」で終わりになることも多々あるから、杓子定規は考えものである。 

中立的立場によって見えるもの

これはへきというしかないが、中立的な立場でスポーツを観戦するようになって久しい。完全中立はありえないものの、勝敗結果を冷静に受け止め喜怒哀楽を表に出さない。その時々の成績や勝敗にめったに一喜一憂しないのである。それでも、日本選手が国際大会で活躍し表彰台に上ることを願っているし、現実にそうなれば祝福もする。だから、ぼくの飄々とした態度に反応して、「日本選手が勝ったのにうれしくないのか!?」とか「日本チームが負けたのに悔しくないのか!?」と詰問されても困るのだ。感情を見せなくても、勝ったらうれしいし、負けたら悔しいのは言うまでもない。

ふがいない日本国の状況や日本人を見るたびに辛口論評したくなるぼくではあるが、アイデンティティがカメルーン色になったりオランダ色になったりデンマーク色になったりと七変化するわけがない。おそらく一定して日本カラーである。パラグアイに縁もゆかりもないし、遠い親族にもパラグアイ人は見当たらない。したがって、一昨日のワールドカップ観戦にあたって、ぼくの心情は当然日本チームに傾いていた。ただ、悔しさのあまり眠れなくなるなどということはありえないし、あのときゴールが決まっていたらなどと無念を引きずらないのである。

ところで、二大会前の日韓開催時に運よくベルギー大使館経由でベルギーvsブラジルのチケットを手に入れた。そして、サッカーとは縁のない格好で神戸に出掛けて観戦した。圧倒的なブラジル色の観客やサポーターに紛れて、小ぢんまりとしたベルギーゾーンで一度も立ち上がりもせずに淡々と観戦していた。ホットにならないから「こいつは義理で来ているのか」と周囲の知り合いに思われたかもしれないが、そんなことはない。ぼくなりに十分に戦況を見つめて分析し、展開推理も楽しんでいた。ちなみにサッカーはお気に入りスポーツの一つである。ただ、テレビによく映し出される狂信的なサポーターからは程遠い。


野球の日本選手はアジア予選を勝って歓喜に酔った。マスコミはこぞって賛辞を送った。ところが、本番の北京五輪ではメダルにも手が届かず、星野氏は名監督の座から引きずりおろされた。これとは逆に、今回のサッカーワールドカップへの評価は終り良しとなった。「岡田更迭および期待薄」から「監督賞賛および大健闘」への鞍替えだ。しかし、目標のベスト4に届かなかったという点では、岡田氏自身が吐露したように「力不足」だったのである。数学50点の子が目標の90点に届かず、70点に終った。これを「よくやった」と見るのは現状50点からの視点である。目標の視点に立てば、やっぱり力が足りなかったと言うべきだろう。

たとえ運も絡むと言われるPK戦の敗北であっても敗北には変わりはない。PKのシュート1本の成否で2時間の戦いに決着がつくのはつらいが、勝負はそのように決まるものだ。歓喜と落胆は紙一重。短期間に生じるであろう浮き沈みに対して、変化のたびに一喜一憂しても仕方がない。だから、ぼくは短兵急に褒めたりけなしたりしないようにしている。一瞬をとらえての気まぐれな毀誉褒貶きよほうへんによってぼくたちは誤る。

大会直前の4連敗で岡田監督の采配に批判が集まり、選手の戦いぶりも叩かれた。あの4試合が仮に「快勝、惜敗、辛勝、完敗」と様々であったなら、マスコミもファンもそのつど一喜一憂するばかりで、風見鶏的な評価を繰り返していたに違いない。前哨戦は前哨戦であり、前哨戦の力量が本番でもそのまま発揮されるのか、それ以上になるのか、それ以下になるのかは、実際に戦ってみなければわからない。たしかに、臨場感を爆発させて一喜一憂するのがスポーツの醍醐味であることを承知している。しかし、そうであるならば、もっと単純に自分や仲間内での感情の発露にとどめるべきで、当事者に向けて、いかにも分析的らしく、したり顔の最終結論めいたコメントを尻軽にすべきではない。

「延長戦のあの場面で1点を取っていたら……」と誰かが言うから、「それを言い出したら、パラグアイだって同じ思いだろう」とぼくはコメントした。涙の対岸には歓喜がある。こちらが喜べば相手が悲しむ。それがスポーツだ。感情移入して一方に肩入れする観戦もあれば、ぼくのようにいずれかを応援しながらも、勝負の摂理や機微を楽しむ方法もある。

対抗ゲームにおいて中立的見方を楽しむようになったのは、長年のディベート審査体験と無関係ではない。力が拮抗していれば勝ったり負けたりが常であることを知っている。一方に偏して討論に耳を傾けるのではなく、肯定側vs否定側の関係図式上にゲームを眺める。スポーツも同じで、私情を消し去れないことをわかったうえで、なおかつ精一杯中立的に眺めてはじめて感じられるおもしろさがある。選手たちと一体になるような応援の形態もあれば、選手たちの活躍ぶりを静かに観戦する形態もあっていい。ぼくは後者型であるが、冒頭でも書いた通り、これは癖である。

知はどのように鍛えられるか(2/2)

言うまでもなく、知とは「既知」である。既知によって「未知」に対処する。たとえば、ぼくたちの知は問題と認知できる問題のみを想定している。そして、問題を解決するべくスタンバイし、これまでに学んだ法則あるいは法則もどきにヒントを求めようとする。このようにして、程度の差こそあれ、ある種の「なじみある問題」は解決を見る。しかし、解決されるのはルーチン系の問題がほとんどで、真に重要な問題は未解決のまま残されることが多い。ぼくたちが遭遇する重要で目新しい問題の大半は、つねに想定外のものであり、法則が当てはまらない特性を備えている。

バリアもハードルもハプニングのいずれもなければ、大概の問題は何事もないかのように解ける。いや、勝手に解けることすらあるほど、苦労なく対処できる。経験の中に類似例があれば、ぼくたちの解決能力は大いに高まる。「この道はいつか来た道」や「この道は前とよく似た道」なら、誰だって既存の法則や解法を水先案内人よろしく活用して、目をつぶって歩いて行くことができる。だが、話はそんなに簡単ではない。現実世界はバリアだらけ、ハードルだらけ、ハプニングだらけなのである。

高齢者住宅や民家型デイケアセンターの設計を手掛ける一級建築士の友人がいる。「あまり大きな声では言えないが……」と断ったうえで彼はこう言った。

「正直な話、バリアフリーの行き届いた住宅というのは万々歳というわけにはいかないのだよ。床も壁も敷居にも凹凸がないから、お年寄りは危険の少ない環境で暮らしている。安心感を持つことはとてもいいことだけれど、長い目で見ると甘やかされた状態に安住することになる。ところが、一歩外に出れば小さな凹凸がそこらじゅうにある。バリアフリーに慣れきった感覚はほんのわずかな起伏にも対応できず、ちょっとつまずいただけで転んでしまうのさ。」


この話を聞いてぼくは思った、「これはまるで知のありようと同じではないか」と。問題解決の知に限定すれば、ぼくたちは認識できる問題だけを対象とし、そのうちでも解けそうなものだけに取り組む。時間に制約があればなおさらそうなってしまう。解けそうにないと判断すれば、問題集の巻末模範解答を覗き見るように、その道の誰かに答えを求めようとする。あるいは類似の先行事例にならおうとする。この状況での知は、バリアフリー環境で甘やかされた「要介護な知」にほかならない。そもそも調べたらわかることをソリューションなどとは呼ばないのである。

〈わからない→考える→まだわからない→さらに考える→それでもわからない→外部にヒントを探す→見つからない→誰かに相談する〉。これだけ手間暇かければ、知はそれなりに鍛えられもしよう。答えが見つかることが重要なのではなく、答えを見つけるべく自力思考することが知的鍛錬につながるのだ。昨今の問題解決は〈わからない→誰かに相談する〉あるいは〈わからない→調べる〉など、工数削減がはなはだしい。思考プロセスの極端な短縮、いや不在そのものと言ってもよい。甘ったれた練習をいくら積んでも、バリアだらけハードルだらけハプニングだらけの現実世界では右往左往するばかりである。

以上のことから、本番よりも甘いリハーサルが何の役にも立たないことがはっきりする。こと問題解決の知に関するかぎり、普段から難問に対して自力思考によって対峙しておかねばならないのだ。その鍛え方を通じてのみ、本番で遭遇するであろう「未知の問題」への突破口が開ける可能性がある。ぼくは、この知をつかさどる根底に言語を置く。言語を鍛え、対話と問答を繰り返して形成された知こそが有用になりうる。事変に際して起動しない知、アクセスできない知は、知ではないのである。 

知はどのように鍛えられるか(1/2)

自分では正論だと思っていつも書くのだが、正論を聞かされたり読まされたりする側はさぞかし面倒臭いのだろう。インスタントな学びなどない、学びとは厳しいものであるという趣旨のことをいつぞや書いたら、「そんな硬派なことばかり語っているから、あなたの話はとっつきにくいのです。もっとオブラートに包まないと」と指摘された。「いい歳になってオブラートなんかいらないだろう」と言ったら、「その通りですが、正論は可愛げがないのです」とも言われた。いつの時代も意見はちょっと胡散臭いくらいがちょうどいいのだろうか。

千や万に一つの成功事例を取り上げて、誰もが容易に成し遂げられるかのように「法則」に仕立てる風潮が強くなっている気がする。困ったものだ。たしかに法則そのものは誤っていないのかもしれない。しかし、よく目を凝らせば、そこらじゅうにいる誰もが実践できるような法則ではない。艱難辛苦を要する。しかも、立ちはだかる壁が怠慢という、手に負えない内なる敵であったりする。この際、はっきり認めておこうではないか。簡単にマスターできることは簡単なことであり、なかなか身につかないことはむずかしい。「簡易ハウツーによる高度な知の無努力達成」などありえないのだ。

何年にもわたって学んできたのに、満足できるほど身につかないヒューマンスキル。とりわけ上手に読み書きし、しっかりと考える力などは、左にあるものを右へ動かすような単純学習では手の内に入らない。また、単発知識を記憶するのはさほど難しくはないが、記憶した知を統合したり、別の何かへと連想を逞しくしたり、あるいは臨機応変に応用したりするなどのリテラシー能力は「道なり学習」ではものにならない。

たとえば、『「思考」が運命を変える』という書物でジェームズ・アレンが説く法則を実践できれば見違えるような結果を期待できるだろう。しかし、その肝心の思考は誰かから学べるものではなく、その知の働きは自力に委ねられる。また、『グズをなおせば人生はうまくいく』(斎藤茂太)での話もほぼ絶対の法則だと思う。しかし、人生失敗の根源であるグズそのものがなかなか直らないし、誰にも直してもらうわけにはいかない類いのものだ。なお、この二冊は昨今のトンデモ促成本とは質が違う。誤解があっては困るので申し添えておく。


『英語は音読だ!』(岩村圭南)という本があるらしい。これを紹介するNHK出版のサイトでは、次のように謳っている。

音読なくして英語は話せるようにならない! 音読をくり返すことで、正しく発音するための口の筋肉が鍛えられ、同時に、まとまりのある内容を表現するための会話の引き出しが増えます。さらに、CDをくり返し聞くことで正しい音を聞き取るリスニング力も身につく。『英語を話せるようになりたい』――あなたのその願いは、音読を続ければ必ず叶えられる!」

ぼく自身が手に取りすらしていないから、この本を推薦するわけではない。だが、少なくともここに書かれている紹介文には賛意を示しておきたい。古い拙著の中でぼくも次のように書いた。

ただひたすら読むこと――目が慣れ、口が慣れる。文字と音声が身体の一部になってくる。たいていの人は、この感触がわかるまでにギブアップしてしまうのです。試してみればわかりますが、意味すら十分に理解できていないのに、同じ文章を何度も何度も、それこそ百回以上も声に出して読むのは苦痛以外の何物でもありません。(中略)そう、この只管朗読こそが将来英語が続けられるかどうかのリトマス試験紙になるのです。」(『英語は独習』)

答えははっきりとわかっている。テレビのコマーシャルで「英語は音読」と唱える某予備校の英語教師も正しい(同じコマーシャルで二人目の英語教師が言う「英語はことばだ。ことばは誰でもできる」は励ましとしてはいいが、厳しい鍛錬を前提とせずに言っているのであれば怪しげなメッセージとなる)。英語のみならず、語学一般、最強の学習が音読であることに疑問の余地はない。音読以外の方法としては、現地で生まれて話しことばをどっぷり浴びることくらいだろう(ならば、この国のほとんどすべての人々は人生一度きりの機会をすでに失っている)。語学における音読は、繰り返しの重要性を物語る。 

この只管法則による習慣形成は知の鍛錬一般においても証明できる。但し、ただひたすら繰り返す日々のノルマはとてもきついのである。昨今の胡散臭いベストセラーには、入口をオブラートに包んで招き入れ、最終ゴールイメージまで「容易であること」を装う傾向がある。書物だけではなく、平然と講演でもそう言ってのける講師がいる。「このやり方なら、誰でもできます!」と幻想を植え付けるのはほとんど詐欺罪に等しい。並大抵ではないことを強調して、学ぶ側に覚悟を決めさせることこそがよき導きではないのか。

自分を語り込む

挨拶とほんのわずかな会話を交わしただけ。しかも、それが初対面だったとしよう。そして、それっきりもう会うこともなさそうだとしよう。こんな一過性の関係では、その時の第一印象が刷り込まれる。やがて印象も薄れ記憶から遠ざかってしまうかもしれないが、もしいつか再会することになれば、そのときは記憶に残っている「原印象」を基に接したり会話したりすることになる

第一印象というのは、付き合いが長くなるにつれて「第一」ではなくなり、それまでの印象は会うたびに塗り替えられていく。第一印象の第一は一番ではなく、「最初の」という意味である。だから、一度だけ会っておしまいなら、その一回きりの印象、すなわち第一印象――あるいは最終印象――によって人物のすべてを描いたり全体像を語ったりすることになる。但し、何度か会う関係になれば、再会するたびに第二印象、第三印象……第X印象を抱くことになるから、印象は会うたびに更新されていく。

「あいつ、こんな性格じゃなかったはずなのに……」とあなたが感じる。だが、それは必ずしも実際にあいつの性格が変わったことを意味しない。ほとんどの場合、あなたのあいつに対する印象が変わったのである。あいつの印象は良い方にも悪い方にも変容するだろう。だからと言って、あいつが良くなったり悪くなったりしているわけではない。むしろ、前に会った時からのあなたの見方・感じ方が変わったと言うべきかもしれない。


二者間においてどのようにお互いが印象を抱くかは興味深い。お互いが正真正銘ののままの状態で対面することはほとんど稀である。ABの印象を抱く時点で、BAの印象を抱いている。ABに抱く印象には、BAを見ての反応が含まれている。つまり、ABから受ける印象はすでに「Aという自分を経由」しているのである。ABの関係は出合った瞬間から相互反応関係になっていて、独立したABという状態ではないのだ。あなたが彼に抱いた印象は、あなたに反応した彼の印象にほかならない。鏡に向かった瞬間、鏡の向こうの自分がこちらの自分を意識しているという感覚は誰にもあるだろう。あれとよく似ているのである。

第一印象の良い人と良くない人がいる。一度きりの出会いでは決定的になる。しかし、何度も会うごとに良い人だったはずがさほどでもなく、逆に良くなかった人が好印象を回復していくことがある。黙して接していたり傍観していたりするだけなら、印象変化は立ち居振る舞いによってのみ生じる。それはビジュアル的もしくは表象的なものにすぎない。見掛けの印象にさほど興味のないぼくは、多少なりとも踏み込んだ対話や問答を積み重ねて印象を実像に近づける。いや、実像など永久にわからないことは百も承知だ。しかし、お互いに対話の中に自分を語り込まねば印象はいつまでも浮ついてしまう。

沈黙は決して金などではない。むしろ「金メッキ」でしかない。かと言って、沈黙の反対に雄弁を対置させるつもりもない。ぼくが強調したいのは、自分らしく問い自分らしく答え、自分らしく自分を語り込んでいく対話の精神である。表向きだけの付き合いなら装えばいいだろうし、束の間の関係なら形式的に流せばいいだろう。本気で人間どうしが付き合うのなら、ハッピーに空気を読むだけではなく、棘も荊も覚悟した時間と意味の共有努力が必要だろう。

自分を語るのではなく、自分を「語り込む」のである。語りと語り込みの、関与の違い、まなざしの違い、相互理解の違いはきわめて大きい。