問いは思惑を表わす

あることについて問いは理屈上いくらでも立てることができる。たとえば天気に関してなら、「今日の天気はどうなりますか?」と聞いてもいいし、「今日は晴れますか?」や「今日、雨は降らないですね?」と尋ねることもできる。答える側の答えが「晴れ」に決まっていても、これらの問いの形式に応じて答えの形式は変わってくる。「どうなりますか?」に対しては「晴れるでしょう」か「いい天気になりそうです」だが、「晴れますか?」にはふつう「はい」であり、「雨は降らないですね?」と聞かれれば、「ええ、天気だと思います」となるだろう。問いも答えもバリエーションが他にもいろいろありそうだ。

余談になるが、日本語では問いの形式に忠実な肯定形や否定形で答えるのがふつうである。「あなたはXXXが好きですか?」という肯定疑問文に対しては「はい」が好き、「いいえ」が嫌いになる。「あなたはXXXが好きではないでしょ?」という否定疑問文に対しては、「はい、好きではありません」あるいは「いいえ、好きです」のような変則的応答をすることが多い。ところが、英語圏の人々は、相手が「XXXが好きですか?」と聞こうが「XXXが好きではないですか?」と聞こうが、問いの形式には振り回されない。好きなら「イエス」、嫌いなら「ノー」とはっきりしている。

さて、答えの方向性と表現の形式は問い方によってコントロールされる。すなわち、問う側が応答領域を絞ったり膨らませたりできる。この意味では、すべての問いは「誘導尋問」にほかならない。相手に機嫌よく答えさせるか、それとも挑発して感情的に答えさせるか――問う側に技量があれば、意のままに操ることができる。「どちら様ですか?」と「何者だ?」の違いを比べてみればわかるだろう。いずれの問いにも一定した応答できるならば、答える側もなかなかの腕達者である。


もちろん、まったく見当もつかないことやまったく知らないことを尋ねる場合もある。答えの行方が見えないケースである。しかし、そこに上下関係がある時、そして上位者が問う側に立つ時、ほとんどの場合、上位者は自分の思惑を反映した問いを立て、自分の望む方向へと答えを導こうとする。警察官による不審者への職務質問や被疑者への取り調べ、人事部員による応募者の面接などは典型的な例である。

さらに、答えの概念レベルさえ規定することもできる。「出身の都道府県」を聞くか「出身都市」を聞くかは尋問者の裁量だ。「趣味は?」と聞くよりも「好きなスポーツは?」と聞くほうが限定的である(スポーツ音痴は後者の問いに困るだろう)。「その鳥は黒かったかね?」と尋ね、相手が「たぶんカラスだったと思います」と答えたら、「鳥の種類を聞いているのではない! その鳥は黒かったのか、と聞いたのだ!」と一喝する。答える側は「すみません。はい、黒でした」と言い直す。詭弁は問いにも使えるのである。

上位者の誰も彼もが悪意に満ちているわけではない。しかし、上位者の想像力の欠如ゆえに、質問それ自体が意地悪になることはありうる。本人は素朴に聞いたつもりだが、答えようのない問い、答えてもジレンマに陥らせるような問いを発してしまっている。「なぜこんな結果になったのかね?」などは頻度の高い問いだが、ほとんど答えようがない。「あまりいい結果ではなかったね?」「はい」「同様の結果は将来起こりうると思うかね?」「おそらく、あるでしょう」「一人で原因分析をして対策を立てられるかね?」「私一人では難しそうです」「では、誰の知恵を借りればいい?」……このような連鎖的問いと「なぜだ!?」という一発詰問との違いは自明だろう。

誰かがミスをした。あなたは彼を呼び出して問う。「どうしてこんなミスをしてしまったんだ!?」という尋問が生産的であるはずがない。責めを負う側が問われるときに「なぜ」や「どのように」に対して適切な答えを返すことはほとんど不可能なのである。おそらく二者択一型の質問のほうが答えやすい。だが、二者択一の質問は狡猾な手法にもなりうる。「きみのミスは故意によるものか、それとも無意識によって起こったものか?」 尋問者がジレンマの罠を仕組んだ問いである。二者択一ならば、「故意です」はありえず、必然「無意識でした」と答えざるをえない。しかし、どうして人は己の無意識を意識することができるだろう。「何? 無意識? それなら精神の病だな」と決めつけられてしまう。尋問者の思惑を読み切れば、正しい答えは「わかりません」である。瞬時にその答えを見つけるのは容易ではない。 

声掛けとコミュニケーション

「誰々さんがいたので声を掛けた」。よく聞く話だが、この声掛けは自然にできたのか意識してのものなのか。たまたま目と目が合ったので儀礼的にしたのか、それとも無意識のうちに笑顔で「こんにちは、お元気?」と話しかけていたのか。お互い知り合いなのに声を掛けない人もいるが、ふつうぼくたちは知人友人を見つけたら声を掛ける。では、なぜ声を掛けるのか? こんなことについてあまり考えることはないだろう。仮に考えたとしても、うまく説明できそうにもない。

ちなみに、先日ぼくは知り合いの年長の女性を見掛けたが、声を掛けずに通り過ぎた。その女性はオフィス近くのビルのオーナーで、アパレル関係の企業も経営していた。そのビルの地階に紳士服の店を長らく出していて、ぼくは十数年来の顧客であった。よくスーツやネクタイを買っていたし、あまり文句も言わないので、店にとってはいいお客さんだったはずである。その店は数年前に閉店した。しばらくしてから別の場所で再開したとの案内はもらったが、新しい店には行っていない。まあ、とにかく店舗でぼくをいつも応対していたその女性だった。遺恨もトラブルもなかった。しかし、「あ、ごぶさただなあ」と内心思いながら、すれ違うだけだった。

むずかしい話をするつもりはない。日本人の場合、たとえば、エレベーター内で見知らぬ者どうしが挨拶を交わすのは稀だ。しかし、時折り、ホテルのエレベーターに先に乗っているぼくが「開ボタン」を押さえているのを見て、入ってきたご夫婦のどちらかが目を合わせて「あ、どうもすみません」と言う場合があるし、観光客らしいその二人に「どちらからお越しですか?」と尋ねるときもある。こんなふうに声掛けすることもあるのに、旧知のあの人に気づきながら、なぜぼくは知らん顔して過ぎ去ったのか。


一言でも二言でも声を掛け合うというのは一瞬の呼吸、理由なき波長感覚の仕業と言わざるをえない。しかし、そのような、間髪を入れぬタイミングだけが声掛けの引き金になっているのか。そうかもしれない。だいぶ前に混雑する駅のホームで高校の同級生とすれ違ったが、声を掛けなかった。こちらが気づき、相手が気づかなかった。これは一瞬の呼吸が合わなかったからかもしれない。また、別のときに別の友人にばったり遭遇してお互いに指を差して名前を言い合い、一言二言どころか、しばらく立ち話をしたこともある。おそらく一瞬の呼吸が合ったのに違いない。

しかし、ほんとうに一瞬の呼吸の合う合わぬが声掛けの決定的な要因なのかと自問すると、必ずしもそうとも思えないのだ。無意識のうちに声掛けするかしないかを何か別の要因によって決定しているような気がするのである。ぼくに関するかぎり、一つ明らかになった。それは、会話が愛想だけに終わりそうな気配を感じたら、自分から声を掛けないということだ。「だいぶ暑くなってきましたね」「そうですね」「扇子がいりますよね」「そうですね」「かき氷も恋しいですな」「そうですね」……実際にあった会話だが、ことごとく「そうですね」という機械的返事で肩透かしを食らいそうな予感があれば、めったに声を掛けない。エレベーターのような閉塞空間の場合のみ、やむなく最小限の儀礼的挨拶だけで済ます。

愛想トークが苦手。おまけに社交辞令が嫌い。かと言って、何かにつけて意味を共有化すべくコミュニケーションを企んでいるのでもない。そうではなく、話すべき何かを直感できなければ、敢えて声を掛けようとしないのだ。少なくとも、同じ知り合いでも「暖簾に腕押し」や「糠に釘」のタイプを見極められるようになった。コミュニケーションという大げさなものではなく、小さな話題でも意思疎通へと開かれそうか、すぐに閉ざしてしまいそうかを、たぶん直感している。ぼくは、アルゴリズム的な音声合成人間にはめったに声を掛けないのである。

効率的な仕事――検索を巡って

「思い立ったが吉日」にひとまず凱歌があがった昨日のブログ。そこで話を終えるなら、ぼくは見境のないスピード重視派ということになり、さらには大づかみにさっさと仕事の全貌を見届けては結論を下し、ベルトコンベア上を流れる商品のようにアイデアを扱う作業人、あるいは知の錬金術師、あるいは発想の一発屋、あるいは多種多様なテーマのダイソーなどと皮肉られてしまうだろう。

少しは分別も備えているつもりだ、「思い立ったが吉日」が人生全般の万能訓であるなどと信じてはいない。昨日のブログでは、限られた時間における作業や仕事の成否の見極め方について触れたつもりであり、その限りにおいては早々に着手して何がしかの変化や結果を探るのがいいと主張したのである。つまり、ぼく以上に中長期的なテーマの実験を行なっている研究者にしてからが「思い立ったが吉日」を肝に銘じるくらいだから、日々の作業なり仕事なりにそのつど小刻みな期限が設けられている身であれば、効率を念頭に置くのは当然の成り行きなのである。

そこで、話を検索に置き換えてみたい。考えても考えてもひらめかない、しかも時間が切迫しているとき、ぼくたちはどん詰まりの状況を脱しようとして突破口を外部に求める。ヒント探しのための検索がこれだ。もちろんアタマの中を検索すればいいのだが、それが考えるということにほかならないから、ひらめかないのは自前の記憶の中にヒントを探せないということに等しい。外部データベースの検索は避けて通れないのである。

言うまでもなく、外部データベースは情報技術によって天文学的な広がりを見せている。したがって、期限との闘いが前提となっているかぎり、ぼくたちは検索上手にならなければならない。いかに効率よく迅速に明るみの方角を見つけて袋小路から抜け出すかに工夫を凝らさねばならないのだ。ネットサーフィンなどという悠長なことをしている場合ではない。インターネットを知恵の補助ないし有力情報源としている人たちにとっては、検索技術の巧拙は作業や仕事の成否に直結するのである。


ぼくのやり方は至極簡単だ。考えることに悶々とし始めたら、まずはキーワードのみメモ書きしておいて手元の辞書検索から入る。なぜなら、思考の行き詰まりは大部分が言語回路の閉塞とつながっているからである。続いて、自分がこれまで記録してきた雑多なノートを無作為に捲ってスキャニングし、文字側からの手招きに応じてそのページを読む。場合によっては、書棚の前に行って、関係ありそうな既読の本を手に取る。ここまではまったく検索とは似て非なる動作だ。それどころか、期限意識とは無縁な遠回りに映るだろう。しかし、やがてぼくも、ほんのわずかな時間だが、ねらいを絞って便利なインターネットを覗く。これだけが唯一検索らしい検索になっている。

ぼくの流儀なのでマネは危険である。ぼくの場合、検索にあたっては、つねに非効率から入り最後に効率に向かう。思考時間より多くの時間を調査や検索に使わない。おそらく電子ブックが読書の主流になっても、ぼくは積極的に用いることはなく、相も変わらずに紙で製本され装丁された本を読むはずである。効率が悪いことは百も承知だ。デジタルならキーワードや絞り込みなどの条件を設定して検索すれば、千冊分のデータの中に即刻「ありか」を見つけることができるだろう。しかし、ぼくは千冊の実物の本から記憶に頼って探すほうを選ぶ。

「仕事は効率」と言いながら、ちっとも効率的ではないかと指摘されるかもしれない。しかし、自力で考え、次いで非効率的に調べ、最後に短時間検索するというこの方法が、期限内に仕事を収めるうえでもっとも効率がよいのである。探し物がすぐに見つかることにあまり情熱を感じない性分であり、しかも、すぐに検索できた情報があまり役立たないことをぼくは経験的に熟知している。思考と検索を分離してはいけない。正確に言うと、外部データベースの検索時に脳内検索を絡ませねばならない。だから、一発検索の便利に甘えていたらアタマは決して働かないのである。ぼくにとって非効率的な検索は思考の延長であり、そのプロセスの愉しみがなければ、仕事などまったく無機的なものに化してしまうだろう。 

「思い立ったが吉日」の効用

「定番の『企画技法』に加えて、年に数回ほど『仕事の技術』や『プロフェショナルの条件』について話をすることがある。演習を実施してシミュレーション体験もしてもらうのだけれど、受講生の遅疑逡巡という場面にしょっちゅう出合う。選択の岐路に立って慎重になり、慎重さがためらいになり、ためらいはひらめきの機会を逸し、意思決定を遅らせる。ぼくはスピード重視派なので、見ていてイライラしてしまう。」

「きみがイライラする理由がわからないわけではないよ。しかし、人にはそれぞれのペースというものがあるだろ。たとえば、読書にしても、多読・速続がいいのか、それとも少読・精読がいいのかは一概に決めることはできない。実際、急ぐか急がないかに関してだって諺の主張も分かれている。『急いては事を仕損じる』と『善は急げ』のようにね。」

「う~ん。『急いては事を仕損じる』は短兵急の危うさを説いていてわかるが、『善は急げ』は少し違うなあ。だって、すでに『善いこと』だとわかっているんだろ。善いことを行なうのに躊躇する必要はない。それこそ黙って即刻行動に移せばいいからね。『急いては事を仕損じる』の対抗価値には『思い立ったが吉日』のほうがふさわしい気がするが、どうだろう?」

「たしかに。それで思い出したけれど、半月ほど前にテレビで『夢の扉』という番組を見ていたら、小池英樹という教授が『思い立ったらすぐにやってみる』のが研究者の心得には欠かせないというふうなことを言っていた。」

「優秀な研究者はだいたいそう思っているよ。それは何とか賞を取るとか、一番にならねばならないとかの世俗的な下心から来るのではなくて、研究や実験の分母を増やすという純粋な思いゆえだろうね。成功確率が高いと人は逆に身構えるけれど、当たらない確率のほうが高い分野にあっては、試行錯誤は当たり前だし、山のような失敗分母がごくわずかな成功分子をもたらすのだからね。で、その小池教授の『思い立ったらすぐにやってみる』の話、もう少し詳しく聞かせてよ。」


「アイデアというのは、いいなあと思ってみて実際にやってみたら、さほどでもなかったということがよくある。その逆に、大したことがないと値踏みしていたのに、実際にやってみると驚嘆するような結果をもたらすことがある、というわけ。ダメだと見切るにしても、すごいと発見するにしても、やりもせずに判断しているよりも、即刻やってみたほうがいいということだな。」

「アタマだけで判断するのと実際の行動による見極めは違うということだね。うまくいくかどうかを遅疑している暇があったら、とりあえずアイデアを現実化してみる。そこにスピード感があれば、失敗もチャンスも素早く発見できる。なるほど、やっぱり『思い立ったが吉日』は正しいな。正確に言うと、思い立った日は吉日だけれど、結果は吉か凶かはわからないということだね。しかも『急いて事を仕損じようではないか』という呼びかけにも聞こえてくる。」

「まったくその通りだよ。演習指導をするときに、きみは胸を張って『思い立ったが吉日』を受講生に強調すればいいようだな。ついでに、『急いては事を仕損じる』のもまんざら悪いことではないとね。ところで、年金の記録漏れがあって未納扱いされていると文句を言っていたようだけど、ケリはついた?」

「いや、まだ日本年金機構の事務所には行けていないんだ。いろいろあってね。」

「おやおや、思い立ったが吉日を唱えるのなら、かいより始めるべきじゃないか。せっかくこんな話が出たのだから、今すぐ思い立てばいい。」

「わかった。あいにく今日は思い立たなかったので、どうやら今日は吉日ではなさそう。来週のいつか、思い立つように仕向けて、その思い立った日に行ってみるとしよう。」

「やれやれ。やっぱり『言うは易し行なうは難し』か。」

「あっ、大切なことに気づいた。」

「何?」

「二人して『思い立ったが吉日』の効用を褒めそやしたのはいいが、核心的な問題は『思い立たない』ことにあるのだった。思い立たないからこそ、大半の研修生たちは前に進めないのだよ。この諺の正当化の前に、どうすれば思い立つかという、宿命とも言うべき命題をぼくは片付けなければならないんだ。」

「疲れる仕事だね。同情するよ。」 

能動態と受動態

学校で習った英文法のおさらいではなく、そこを話の出発点として考えてみる。「能動態で書かれた次の英文を受動態に変えなさい」。こういう設問を見ると懐かしさと情けなさが同じ分量でこみ上げてくる。懐かしさというのは青春時代へのノスタルジーなのかもしれないが、情けなさのほうは「いったい何のためにこんなことをしていたのか」という不条理感からやってくる。

たとえば“I drank a glass of water.”(ぼくはコップ一杯の水を飲んだ)という能動態の文章を受動態に変えると、“A glass of water was drunk by me.”となり、「コップ一杯の水は私によって飲まれた」と訳される。強調したい箇所が異なっているから構文が変わるわけだが、決して意味・ニュアンスが同じであるわけではない。しかし、出題者は二つの文章を「等価」として捉えていたような気がする。もう一つ例を挙げると、“He holds a pencil in his hand.”(彼は手に鉛筆を持っている)に対して“A pencil is held by him in his hand.”(鉛筆は彼によって手に持たれている)。受動態の文章を和訳すると、なぜこうもぎこちなくなってしまうのだろう。

機械操作の英文マニュアルなどは原則的に能動態で書け、場合によっては命令形でもいいと言われる。「ボタンを押せ。すると水が流れる」のような調子だ。これを受身にしてしまうと、「ボタンが(あなたによって)押された後に、水は流されるでしょう」と変調になる。能動態の明快さ、ある意味では簡潔な強さに比べて、あなた任せのような、受動態のまどろっこしさを何と形容すればいいのだろう。もし、日々の会話をすべて受動態で表現すれば大変なことになる。「居酒屋は私によって立ち寄られ、一杯の生ビールが私によって注文され、私によって頼まれもしていない突き出しが、店長によってテーブルの上に置かれた」。ここに臨場感はない。まるで他人事、抗しがたい無機質だけが淡々と流れていく。


“The die is cast.” これも受動態である。軍隊を率いたカエサルがルビコン川を渡る時、彼は「賽は投げられた」と言った。誰が賽を投げたのかは重要ではなかった。必然もしくは運命だった。だから「誰によって」の部分は余計だったのだろう。要するに、この一文は受身ゆえに効果的な名言になった。

唐突だが、昨今話題の「仕分け」に対しても賽は投げられる。仕分けを挟んで、「仕分ける(側の)人」と「仕分けられる(側の)人」がいる。前者が「私はあなた方の費用・予算を仕分ける仕分人」、後者が「私たちの費用・予算はあの人によって仕分けられる被仕分人」である。前者が能動的であり、後者が受動的であることは一目瞭然だ。賽を投げる時点で、すでに勝負はついている。つまり、仕分ける側が絶対優勢、いや、仕分けられる側がクーデターでも起こさないかぎり、仕分人には紛れのない勝利が約束されている。

仕切る人と仕切られる人、動かす人と動かされる人、命を下す人と命を下される人、働く人と働かされる人、引っ張る人と引っ張られる人……それぞれの二項にあって、前者には主体と意思があり、後者には主体も意思もない。言語に能動態と受動態という、異なった役割をもつメッセージ表現の構造があるように、実際の生活や仕事における人々の役割にも相似形の構造があるように思われる。記号論はこのあたりを上手に説き明かすに違いない。ともあれ、ことばの受動態表現に漂う主体不在を受動的行動においても同じように感じる。どうやら「同一の態」が精神、言語、行動を縦断しているようだ。

偽る座右の銘

信念、拠り所、目標、約束、励まし、時には戒め……これらの思いやイメージをことばに置き換えて、自分の心に刻み込んでおく。これが座右の銘だ。もしぼくたちが著名人になり色紙を頼まれたら、揮毫するような文言である。「努力」や「継続は力なり」という定番から、古今東西の箴言の引用、はては時勢を映し出す「ピンチはチャンス」や「朝の来ない夜はない」という楽観的なものに至るまで、いろいろある。ちなみに、同じ色紙でも、料理屋などに飾ってある芸能人が一筆する「○○さん江」という類は座右の銘とはちょっと違う。

座右の銘にかぎらない。理念でも信条でもスローガンでも広告の見出しでもいい。いや、もっと範疇を広げれば、書名もネーミングも決意表明などもすべて、精神のありよう、行動の方向性、約束やモノの概念などを言語化したものである。そして、見聞きしてきたところでは、これらのフレーズの大半は空回りしている。本来達成されるべき、あるいは目指すべき信念や理想や約束をことごとく裏切っている。看板に偽りあり、なのだ。

「偽る座右の銘」とタイトルを付けたが、実際に偽っているのは、座右の銘やスローガンや信条などではなく、これらを掲げている人間どもである。ことばを責めてもしかたがない。ことばの不履行に平気でいる彼らが理想に近づけていないのである。いや、正しく言えば、始めから近づけるなどと思ってすらいない。彼らはことばの欺瞞性には確信的に気づいているのであって、場合によっては、良からぬことや知られては困ることのカモフラージュ効果として使っていることさえある。


座右の銘の通りに、あるいはそれに近づこうと行動しない人々。スローガンを掲げながらいっこうに実践しない人々。口ばっかりで、約束を守らない人々。朝礼で崇高な訓示を垂れながら、本人自身がまったく別の生き方をしている人々。宗教家や道徳論者ほど背任的であったりするから厄介である。お題目は好都合に利用され、行動は遅々として実行されず、いや、それどころか、理念や目標とは正反対の方向に動いている。真なるものはいずれだろうか、掲げたことばか、それとも現実のおこないか。

フィランソロピーに注目が集まった時代、「社会に貢献します」を掲げた企業が目立った。企業として自明の精神をよくもぬけぬけと明文化するものだと呆れ返ったものである。環境コンシャスな時代に入ってからは、「地球にやさしい」。変化形としての「人にやさしい」と「顧客満足」。「社会に貢献します」だの「地球にやさしい」だのと胸を張った企業の数々の不祥事はご存知の通り。「人にやさしい」などは「オレは女性にやさしい」とほざいているようなもので、口にするようなことばではない。「顧客満足」も企業理念としては暗黙の価値指標であって、市場に向けてわざわざ公言するのは品がないのだ。

「国民の生活が第一」の荷は重そうだが、偽りかどうかはだいぶ先にならないとわからない。「第一」というのは清水の舞台から飛び降りるほどの覚悟がいる約束である。民主党も自由民主党も社会民主党も、いずれも「民主」が共通語になっているが、いつになったら実現するのだろうか。「たちあがれ日本」は、日本および日本国民への呼びかけ、鼓舞、命令にすぎず、自らが立ち上がるとは言っていない。ところで、「継続は力なり」を座右の銘にする三日坊主の男がいた。「三日坊主にサヨナラ」のほうが座右の銘にふさわしいのではないかと指摘したら、「いや、三日間でも継続なんです」とけろっと言ってのけた。何をかいわんや、である。

一枚の絵(または写真)の行間

やや蒸し暑かったが、好天に恵まれた土曜日だった。京都国立近代美術館で開催中の『ローマ追想――19世紀写真と旅』を見に行った。常時カメラを携帯するわけでもなく、携帯電話のカメラ機能をよく使うこともない。それでも、ここぞという時には思い切り写真を撮る。デジタルカメラになってからは遠慮なくシャッターを押す。上手下手はともかく、カメラと写真についてはすでに30年以上も親しんできた。

しかし、写真とカメラの歴史には疎い。今回の写真展を通じて、ダゲレオタイプなどの写真の方式について少しは知るところとなった。ダゲレオタイプとは銀板写真のことで、銅の板にヨウ化銀を乗せたもの。ダゲールという人によって1839年に発明された。展示されていた写真は19世紀中葉のローマやヴェネツィアなどの光景だった。たとえばローマのポポロ広場にしてもコロッセオにしても、一目見れば今とさほど変わらない。何しろ歴史地区だから、最新高層ビルが建ったり都市のゼネコン的近代化がおこなわれたりはしない。但し、当時の写真とぼくが最近撮り収めた写真との間に、修復や植樹・道路整備などのささやかな変化を読み取ることはできる。

ところで、写真の発明と絵画の流派――写実主義や印象派――には無視できない相関関係があるとよく指摘される。写真が発明されるまで、ほとんどの肖像画は写実的に描かれていた。国王や伯爵がたくわえた髭は一本一本精細に捉えられた。また、女王や夫人や子女の豪華絢爛な衣装の皺や襞は本物そっくりに描かれ、レースには絶妙の透かしまでが入る。まさに、油絵は写真と同等の役割を果たしていたのである。そして、写真の発明とほぼ同時期から細密な描写が廃れ始め、やがて顔の判別もできなければ姿かたちも崩れていく。実体ではなく印象が描き出される。絵具が乱れ毛筆の跡が残る。絵画は写真でできる技法を捨てて、写真でできない世界へと入っていった。


写真展の後、御所近くの相国寺の承天閣美術館へと足を向けた。『柴田是真の漆×絵』なる展示会の招待券を持っていたからである。翌日曜日が最終日だったので、何とか滑り込みセーフ。若冲の襖絵も展示されているとあって、鑑賞に臨んだ次第だが、初めて見る是真の漆絵や盆、印籠、紙箱などに凝らされた細工の見事さに息を飲んだ。名作の大半が海外コレクションになっているので、ほとんどすべてが里帰りだ。その道の職人だろうか、単眼鏡を手に熱心に作品を鑑賞する人もいた。

「絵や写真の行間」と表現するとき、「行間」はもちろん比喩である。ここでの行間は、描かれていない心象や、描かれていても空間部分を感じ取らせる構図を意味する。動画はテーマや対象の仔細を順序制御的に映し出してくれるから、鑑賞する者はある程度受身で構えることができる。流せるという気楽さがどこかにある。しかし、一枚の絵もしくは一枚の写真は、本来の線的な動きのどこかを一瞬切り取って見せる。したがって、作者が描いたり撮ったりした作品の文脈はよくわからない。よくわからないからしばらく作品の前で佇むことになる。その佇んでいる時間は、行間を読み取って綜合的に鑑賞しようとする時間である。

とても疲れるのである。しかし、疲れると同時に、そのように感じ入ろうとする時間と空間に在ることが、絵を鑑賞する愉しみの大部分なのに違いない。呆れるほど感じ入って満悦する。あるいは、結局は何とも言えぬ「不明」に陥ってその場を去ることもある。ふと、陶淵明のことばを連想した。

「好讀書 不求甚解 毎有會意 欣然忘食」
(書をむを好めど、甚だしくは解するを求めず、意にかなふこと有る毎に、欣然きんぜんとして食を忘る)

「読書は好むものの、深くわかろうとせずに大雑把な理解で済ます。しかし、たまたま意に合った文章があれば、食事を忘れるほどに大いに楽しむ」という意味である。これは読書の様子だが、絵画鑑賞にもそのまま通じるように思われる。

「それはおかしい」の奇怪

今日も誰かが別の誰かの意見に対して「それはおかしい」と言っている。これがしっくりこない。対話に親しむようになってから数十年、ずっとこの感覚がつきまとう。おかしいという表現は「納得できない」や「変調である」や「論理的に正しくない」などの意味を内包しているが、これらのいずれもが単独で発せられるとき、奇怪なものを感知してしまう。誰かの意見を「おかしい」と評するのは、おかしいのだ! ほら、こういう言い方は奇怪に響くだろう。おかしいに異議を申し立てた手前、ここで話を終えるわけにはいかない。

ABのおこないや発言に「それはおかしい」と突っぱねる。こう評する時、Aの脳裡に「おかしくない基準」が浮かんでいなければならない。つまり、自分がイメージしている「まっとうな何か」に照らし合わせてみて、Bの言い分はその基準から外れている、ゆえに「おかしい」、そして「納得できない」とAは言ったはずである。Aは自分の基準がおかしくなく、Bの基準がおかしいと主張しているに等しいのだ。では、いったいそのような基準をAはどのようにして決めているのか。

Aは、常識、通念、論理、共通感覚に適合していると確信できているのか(もしそうならば、Bも同様の確信をしている可能性がある)。それとも、好みや思いなどの主観的基準によって「おかしい」という烙印を押しているのか。基準が常識、通念、論理、共通感覚を反映しておらず、純粋に主観的であるならば、Aに対するBからの反論も、AからBへの再反論も不毛に終わるだろう。なぜなら、双方が異なる基準によって主張を繰り広げるかぎり、議論は接合しないし平行線を辿り続けるからだ。


もしかすると、常識も通念も論理も共通感覚も主観的に解釈されているかもしれない。ゆえに、明文化されたルールが存在しないかぎり、お互いに取り付く島はない。そもそも「おかしい」の一語で相手の意見を切り捨てようとする者が、しかるべき説明可能な基準を有しているはずがないのである。「それはおかしい」とつぶやいたり声を荒げたりするとき、誰もが「自分はおかしくない」という前提に立っている。そして、ほとんどの場合、その判断基準は「何となく」であって、確たる信念やトポスに支えられているのではない。

ABの二人を再登場させる。Bの発言に対して「それはおかしい」と言い放ったAに、Bが「何がおかしいのか、なぜおかしいのか?」と論拠を尋ねる。基準は何か、何か信念でもあるのか、と聞いてもよい。思いつきで「おかしい」と言っていたのなら、Aはこう答えるだろう、「おかしいものはおかしいのだ」。売り言葉に買い言葉、Bも次のように反論するだろう、「おかしいものがおかしいなどという論法は、おかしいではないか!」 こうして議論は不毛の連鎖を続けてゆく。

おかしいは「可笑しい」と書く。大人げないABのやりとりにぼくたちは失笑するしかない。いや、傍観するぼくたちだって当事者になれば同じように愚昧さを露呈するかもしれない。公の場で論争する立場にあるお偉方でも「ダメなものはダメ」で済まそうとするのだから、小さな仕事や会議にあっては日常茶飯事「おかしいものはおかしい」が噴出するのもうなずける。「可笑しな光景だ」と冗談ぽくシニカルに片付けているのではない。これは、口癖などという甘い話ではなくて、奇怪であり悲劇なのだ。「それはおかしい」を禁句にしなければ、対話など成立しないのである。 

論理的思考の取り扱い

来週末に『論理思考のすすめ』と題した講座で話をする。ぼくの命名ではなく、主催者側の意向を反映したものである。タイトルこそ変わるが、年内に何度か『ロジカルシンキング』について研修機会がある。一年に何10回とディベート研修に携わっていた時期が15年ほど続き、ディベート熱が落ち着いた以降も、その流れで論理学習に関する講演や研修の要請がある。ディベート発想と言えば「論理的思考」であると世間一般には連想されるようだが、部分的には重なるものの、厳密には相違点も少なくない。

論理的思考あるいは英語でロジカルシンキング。何かとても良さそうな能力や技術に見えてくる。賢そうであり頼もしそうであり、難事をうまく片付けてくれる「斬れ者」にも似た雰囲気を湛えている。たしかに、「論理以前」の幼稚な思考だけで――すなわち当てずっぽうや気まぐれ感覚だけで――物事を受け流してきた者には学ぶところが多い。実際、事実誤認、話の飛躍、虚偽の一般化、総論的物言いなどのほとんどが論理能力不在によって生じる。「論理療法」では、こうした問題を「心理と思考の病状」として扱い、しかるべき処方をおこなう。

ちなみに、論理的思考と論理学的思考は完全にイコールではない。大まかに言うと、後者では推論が主体になる。たとえば「人は幸福を願う(前提1)。私は人である(前提2)。ゆえに私は幸福を願う(結論)」は典型的な演繹推理の例であるが、前提1と前提2を是と認めるならば、結論は必然的に導出される。このような例ならば、わざわざ論理学の助けを借りる必要などない。

また、「私の机は四足である(前提1)。四足は犬である(前提2)。ゆえに私の机は犬である(結論)」は、「XならばY。ならばZ。ゆえにXならばZ」という三段論法の構造に沿うが、結論が「偽」になってしまっている。異様に聞こえるかもしれないが、論理学では真偽は問わないのである。ただ「二つの前提を認めれば結論が導かれるかどうか」を検証しているにすぎない。要するに、現実や現場の状況をしばし棚に上げて、探偵よろしくアームチェアに腰掛けて推論の構造をチェックするのが論理学的思考なのである。


ロジカルシンキングに心惹かれる人たちの大半は、机上の論理を扱う論理学的思考を学びたいのではない(もちろん、一度は通っておいてもいいだろう)。彼らは論理的思考を求めているのであって、それは仕事や生活に役立つ思考方法のことにほかならない。では、論理的思考はどのように仕事や生活場面で機能するのか。情報の分類・整理には役立つだろう。構成・組み立て・手順化もはかどるだろう。矛盾点や疑問点も発見しやすくなるだろう。つまり、デカルト的な明証・分析・綜合・枚挙に関するかぎり、でたらめな思いつきよりも論理的思考はうまくいく。

しかし、よく日々の自分を省察してみればいい。ほんとうに論理的思考の頻度は高いのか。もっと言えば、あなたには論理的思考をしているという自覚があるだろうか。おそらく確信していないはずである。そもそも、アームチェア的な推論や推理は論理の鍛錬にはなるが、前述した二つの推論事例を見てもわかる通り、知っていることの確認作業なのである。つまり、初耳の結論に至ることはめったになく、仮にそうなったとしてもその結論の蓋然性(ありそうなこと)を判断するには総合的な認識力を用いなければならないのである。

論理がもっとも活躍するのは、思考においてではなく、コミュニケーションにおいてなのだ。自分の考えを他者に説明し、他者と意見を交わし、筋道や結論を共有したりするときに論理は威力を発揮する。論理は言論による説得や証明において出番が多い。それゆえ、ぼくの講演タイトルは可能なかぎり『ロジカルコミュニケーション』にしてもらっている。いずれにしても、論理的思考以外にも多様な思考方法や思考形態があり、アイデアやソリューションを求めるならばそれらを縦横無尽に駆使しない手はない。論理的思考を軽視してはいけない、だが論理的思考一辺倒では発想が硬直化する。このことをわきまえておくべきである。

未成年状態ということ

「情報依存は親依存、友達依存、先輩依存に酷似している。その姿は独立独歩できない未熟な青少年そっくりだ」と、一昨日のブログの末尾に書いた。そして、こう書いてから、カントの啓蒙論にこれらしきものがあったのを思い出し、久しぶりに読んでみた。『啓蒙とは何か』。えらく難しそうな本のようだが、とてもわかりやすい話である。しかも、わずか15ページほどの小論なのだ。

少し前置きしておくと、現在「啓蒙」という用語は微妙な位置にある。これを上位者から下位者への高飛車な教え導きととらえる人たちがいるからだ。実際、ぼくのテキスト中の啓蒙を啓発に変えるよう主催者側から要請されたことがある。その啓発も「知識を増やして理解を深める」というニュアンスだが、これとて「自己啓発セミナー」などのイメージを引き摺っている(『ディベートで知的自己啓発』はぼくの著書のタイトルだ)。結論を言えば、啓蒙という語を使うときは、17世紀末に遡るヨーロッパ啓蒙思想の流れを汲んでおくのがいい。啓蒙に差別的ニュアンスを感じる人々にはそういう立場を見せておくべきだろう。

では、当時の啓蒙思想とはどうだったのか。古い価値観や旧弊を打破して人間的理性を尊ぼうとする革新的なものだったとされる。無知蒙昧はよくない、だからよく啓発すべく教えようというのが啓蒙の原初的意味だった。要するに、闇から光のある方へと導くことであり、無知ゆえの幼さから脱皮して理性的人間に至ろうとする考え方である。錚々たる啓蒙主義哲学者が名を連ねたが、カントもその一人だった。


「人間が自分の未成年状態から抜け出ること」。これがカントによる啓蒙の定義である。カントが念頭に置いているのは、未成年ではなく成人である。成人になっているにもかかわらず、未だに未成年の状態にあるのは、誰のせいでもなく、お前さん自身が招いたものだよ、と言っているのである。いいおとなが幼稚なのは、悟性を用いないから。大雑把に悟性を理性と言い換えれば、未成年状態にある成人は、理性そのものを欠くのではなく、理性を用いようとする決意と勇気を欠いているのである。彼らは独力で未成年状態から脱することはできず、誰かの指導を必要とする。

今はカントの時代よりもさらに成人の幼児化が進んでいるように思われる。ぼくが少し小難しい話をするだけで、もっとやさしく説明してほしいと甘える。いいおとながわずか千語や二千語程度の語彙レベルで何を知ろうというのか。カントは言う、「身を終えるまで好んで未成年の状態にとどまり、(……)その原因は実に人間の怠惰と怯懦きょうだとにある。未成年でいることは、確かに気楽である」。はたして、こういう状態に居続けるとどうなるか。抜け出すどころか、安住し愛着すら抱くようになってしまう。ここにおいて、幼児性と理性は相反することがわかる。成人になっても一人歩きしないのは、カントの指摘するように、本人が責められることなのだが、一人歩きさせなかった取り巻きも遠因の一つに違いない。

「啓蒙を進歩せしめることこそ、人間性の根源的本分」とまで言い切るカント。成人が未成年状態であることは恥なのである。下位者に対しては成熟を示し、都合が悪くなると幼稚へと逃げ込む。理性の非運用は、思考状態に端的に表れる。まず自分で考えない、仮に考えるとしても陳腐な一つの正解探しに終始する。一つの正解を求める教育がいかに青少年を未成年状態に長く止めているかがわかるだろう。自ら解答をひねり出すべく理性を用い、そのつど暫定的な意思決定を下し、後日その判断を自己検証する――これら一連の思考習慣に啓蒙された成人の姿を見る。未成年状態の成人を大勢抱える社会的コストは大きいが、もっと憂うべきは集団的に危機や批判を疎隔してしまうことだろう。