ことばを素朴に発する

日曜日から広島に来ている。月曜日から木曜日まで二つの研修がそれぞれ二日間。出張で四日連続の研修というのは年に二、三度しかない。出張慣れしているが、夏場は想像以上に体力を消耗する。

関西圏以外での研修はたいてい前泊になる。日曜日は午前に大阪を発ち、昼過ぎにホテルにチェックインした。カツカレーを食べて早速向かった先はひろしま美術館。春からずっと楽しみにしていた美術展である。路面電車で行く手もあったが、35℃を超える猛暑。タクシーを利用した。会場前が渋滞していたので、運転手が美術館の手前で降りたほうがいいと言う。入り口まで100メートルちょっとの距離だったが、焦げつきそうな陽射しにすでに汗が吹き出る一歩手前だった。

さて、美術展は『芸術都市パリの100年展』で、日仏交流150年を記念しての開催。絵画にはいまいち興味がないという人でもよくご存知のルノワール、セザンヌ、ユトリロをはじめとする、パリにゆかりの画家たちの作品が相当数展示されている。じっくり見て回った後は膝から下がだるくなるありさま。そのくらい鑑賞に時間がかかった。

絵の話は作品を見せずして語ることはむずかしい。だから、見応えがあったということで終わることにする。しかし、アートよりももっとぼくの注意を喚起したのは素朴なことばだった。題名のことばでもなければ作品解説のことばでもない。それは、祖父に連れられてやって来ていた男の子が発したことばだ。

ピエール・オーギュスト・ルノワール(これがルノワールの正式名)の『ニニ・ロペスの肖像』という油絵を眺めていたちょうどその時、年格好8歳くらいの男の子がぼくの前に割って入った。そして、しばしその絵を睨んだかと思うと、こう祖父につぶやいた。

「絵具がこぼれて雑になっとるね」

勇気のいる作品評をケロリと言ってのけるこの子はなかなかのことばの使い手だ。ルノワール作品をそれほどひいきにしていないぼくは、ことばになる感想を浮かべていなかった。それだけにこの瞬間批評に反応してしまった。「こぼれる、雑……。なるほどなあ」と感嘆し、思わず口元が緩んでしまった。苦笑する祖父と目が合い、「そんなこと言ったらいけん」と孫を促して次の作品に移動した。

図録によれば、その肖像画の主役はルノワールお気に入りのモデルらしく、解説はさらにこう続く。「モデルの憂いを秘めた表情とポーズ、様々な色彩を反映する白い肌の取り合わせが、印象派時代のルノワールのテクニックを物語る」。

ルノワール大画伯の駆使した色彩感覚を「絵具がこぼれている」ととらえ、「印象派を代表するテクニック」を「雑になっとる」と言い放つ素直さ、純朴さ。下手な教訓を垂れたくはないが、イメージを見たまま感じたままストレートに発することを大人たちは忘れてしまっている。ルノワールだからいいのではなく、いいと感じるものがいいのである。

それにしても、やるじゃないか、広島の男の子。「雑になっとるね」ということばに大人びた古風を見た。絵が好きだろうけど、絵描きよりも評論家の適性があるかもしれない。

人を見て法を説けるか?

「人を見て法を説け」とはご存知釈尊のことばだ。どちらかと言うと、好きなセオリーである。相手にふさわしい働きかけをするという意味では、接客はもちろん、マーケティングにも通じる法則である。

イエス・キリストが「広告マン」と謳われるなら、釈尊は「マーケッター」と呼んでもいいかもしれない。ピーター・ドラッカーが何かの本で「姉と妹の、あるいは独身者と既婚者の、靴に対する価値観の違い」を論じていたが、「人を見て靴を売れ」と応用できる。だが、足の大きさを測れば売るべき靴のサイズはとりあえずわかるだろうが、人の内面に潜む価値観を見抜くのはそう容易ではない。

よく「やさしく、わかりやすく説明せよ」と上司に叱られている社員がいるが、やさしくてわかりやすい絶対法則がそこらに転がっているわけがない。やさしさとわかりやすさは「絶対」という修飾語とは相性が悪いのだ。何かを説明されても、人によって理解のスピードや思い起こすイメージは違う。この名句は「説明はカスタマイズせよ」という意味である。

☆     ☆     ☆

しかし、しかし、しかしである。ここから先の話は「しかし」を三回繰り返すにふさわしい。

順序からすると、まず「人を見る」。それから「法を説く」である。この順番が変わるとまずい。好き放題に法を説いた後で相手を見ても手遅れになってしまう。

くどいが、整理すると、(1) 目の前にいる人の能力や性質をよく見定めよ、そして、(2) その人がよく理解できる方法で真理を説明せよ、となる。この順番はゲームソフトと同じで、ステージ(1)をクリアしないことにはステージ(2)には進めない。

さあ、冷静に考えてみようではないか。ビジネスにしてもスポーツの世界にしても、人の能力や性質は簡単にわかるものなのだろうか。何年かけようと、人事部長や監督の眼力がお粗末ならどうにもならない。犯罪心理学者が「彼は社会から孤立していたんでしょうね」とパーフェクトに普通のコメントをする時代、心理学にも全幅の信頼を寄せることはできない。

(1)の壁、実に高い。どこからよじ登ればいいのかわからず、すぐさますべり落ちそう。さらに、奇跡的に(1)の壁を超えることに成功しても、現実的には説く側も凡人であることが多いゆえ、説明できるほどの真理を極めていることはめったにないだろう。つまり、(2)の壁も聳え立つほど高い。

☆     ☆     ☆

何だか底無しのジレンマに陥って悲観的になってしまいそうだ。そう、全身全霊を傾けるくらいの本気がないと、「人を見て法を説く」ことなどできないのである。凡人にとっては「人を見ず、法も説かない」のが無難なのか……。

いや、そうではないだろう。この名句は、ちょっと高い地位に就いているという理由だけで人を見れるようになったと錯覚し、挙句の果ては真理とはほど遠い法を好き勝手に垂れまくる人たちに向けられた、永遠に成し遂げられぬテーゼに違いない。自戒を込めて、「分相応に人を見て法を説けるようになりたい」と締めくくろう。驕らず謙虚に、驕らず謙虚に、驕らず謙虚に。これも三回繰り返すにふさわしい。 

イタリア紀行3 「歩き尽くせぬ空間」

ヴェネツィアⅢ

日本の大都会の住人からすれば、たかだか2キロメートル四方の街なら一日もあれば見尽くせる。たとえ徒歩であれ、名所はくまなく巡れるはずと自信満々。さらには、4泊もするのだから、観光スポット以外の生活者領域にも足を踏み入れられるだろうと思っていた。

だが、ヴェネツィアほど地図と現実が一致しにくい街も珍しい。東西南北の感覚がズレる。狭い空間にもかかわらず、そこに毛細血管のような狭い通りや小径が複雑に張り巡らされ、おまけに小運河や橋や袋小路が出没して歩行者の感覚を錯綜させる。この街の物理的な狭隘のほどを地図で認識していても、現実に遭遇する迷路設計の空間は途方もなく広がっていく。

サンタ・ルチア駅から逆S字で辿る大運河を何度も水上バスで往来し、そこかしこで下船もして散策してみた。だが、目にしたり通り過ぎたりして記憶に残っているのは、貴族の館や商館、リアルト橋やアカデミア橋、何度も紹介したサンマルコ広場、その寺院と時計塔、総督宮殿……これらはすべて名の知れた観光スポットばかりである。ヴェネツィアは生活感に触れようと思う現代人にはなかなか手強い街だった。

それでもなお、夜にはレアルト橋裏手の飲食通りを徘徊し、朝市にも行ってみた。そこには触手を伸ばしたくなる海の食材も豊富にあったが、ホテル滞在では調理のしようもない。ホテル近くのサンタンジェロ広場とサント・ステファーノ広場には何度も足を運んだ。後者のトラットリアやバールには地元の人々の姿も見られた。「そぞろ歩き」はそこに住む人々の生活を素直に映し出すものである。

「ヴェネツィアにまた行ってみたいか?」とよく尋ねられる。他にも訪れたい都市があるので、優先順位はもはや上位には入らないかもしれない。しかし、もし再訪の機会があれば、次は下手な企てなどせずに、純粋に旅人として『おとぎの国のヴェニス』を堪能すればいいだろう。そして、もっともっとディープな路地に迷い込んでみたいと思う。 《ヴェネツィア完》

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サンマルコ広場から見る運河にはギリシャからエーゲ海、アドリア海をクルーズしてきた豪華客船が停泊している。水際の玄関口の小広場では、翼のある獅子の円柱と聖テオドーロの円柱が人々を出迎える。
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大運河から奥へと分け入っても、行く所どこでも小運河に分岐する。これなどまだ幅が広いほうで、ゴンドラ一艘が通るのが精一杯という水路がある。しっかり目印を焼き付けておかないと、すぐに迷い子になってしまう。
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豪華なゴンドラに乗るセレブ風の乗客。このような狭い水路の橋の下からも乗船できる。
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営業時間前の朝に出番を待つ、サンマルコ運河のラグーナに繋がれたゴンドラ。
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有名なリアルト橋。逆S字型の大運河には橋が三つある。その一つであるリアルト橋は街の中心部にあり、運河のもっとも狭いスポットに架かっている。この近くのリストランテでヴェネツィア名物イカ墨のパスタと海の幸のフリッタを賞味した。美味だったが値段も張った。

「店員に呆れ果てる」の巻

店舗や店員に対するぼくの観察がとてもおもしろいと言ってくれる人がいる。何がおもしろいのかと聞けば、普通の人では気づかない小さな言動を精細に描写する「一種偏執的な観察眼」だと言う。たぶん褒められているのだろう。では、期待にお応えしようではないか。

☆     ☆     ☆

小話その

アイスコーヒーをカウンターで注文すると、「シロップとフレッシュはお一つずつでよろしいでしょうか?」と聞かれる。この話、前にも書いた。「はい」と答えていたが、最近では首を縦に振るだけにしている。暑くて「はい」の二音すら発する気にならないからだ。

さて、ここからが本題。先週の話だ。例の通り、シロップとフレッシュはそれぞれ一つずつでいいかと聞いてきた。目と目を合わせて大きくうなずいてあげた。席に着いて、ミニ容器のツメを機械的に開けて、ほとんど目もくれずに両方ともアイスコーヒーに入れた。こげ茶色のアイスコーヒーがみるみるうちにベージュに変色していく。

よく見たら二つともフレッシュで、シロップがないではないか。あぁ、やっぱり、この連中にはうなずくだけではダメなのだ。シロップを手に入れたければ、「シロップとフレッシュはお一つずつでよろしいでしょうか?」に対して、「はい。シロップ一つにフレッシュ一つ。そこんとこ間違えずによろしく」でなければならない。

怒りをあらわにせず、貴重なシロップを一つカウンターで配給してもらった。「めっちゃ甘党のオッサン」と思われたに違いない。

☆     ☆    ☆

小話その2

ディスカウントの文具店である。ポストイットを買いに行った。量販店というほどではないが、通路が5本あり奥行きも10メートル以上あるので探すのは面倒だ。天井から吊るしてあるコーナー表示板に「ポストイット」の名を掲げる店はまずない。

男性店員に場所を聞いた。「3番の通路を進まれて、棚が途切れたところで、右手に封筒コーナーがありますが、その手前側に置いてあります」。あぁ、パニックに陥りそう。

こうして文章に書けばわからぬでもないが、音声をキャッチして理解できるか!? しかし、やむなし。ええっと、3番の通路? あ、すぐそばだ。先へ進むが、わずか数歩で棚が途切れたぞ。で、次の棚に目をやれば、棚のサイドにすぐ見つかった。何のことはない、カウンター内の男性からは一切の遮断物がなく斜め直線で5メートルほどのところにポストイットのコーナーが見えていたではないか。

「ポストイットはあそこです」と指で示せばおしまいだった。あんなふうにことばを羅列したのは、自分たちの説明責任トレーニングのついでに客の理解力もチェックしていたのだろうか。

健全なる精神は健全なる肉体に宿る

おなじみの「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」。これは、“Anima Sana In Corpore Sano.”というラテン語を訳したものだ。ちなみに、それぞれの頭文字をつなげると、シューズで有名なスポーツメーカーの社名になる。

もう15 年以上前の話。アメリカの国際弁護士事務所が日本オフィス開設にあたって、東京と大阪でパーティーを催した。領事館員や諸外国のビジネスマン、日本の実業家らが集う大阪会場に招かれた。事務所代表のユダヤ系アメリカ人G氏がぼくへ歩み寄り、数年前から日本に滞在している息子A君のことを尋ねてきた。

「息子は、頑張って仕事をしていますか?」
「ええ、とても。ただ、トライアスロンほどではないですが(笑)……」とぼく。

もちろんジョークである。欧米人主催のパーティーでは、会話相手に一度や二度は笑いの場面を作らねばならない。質よりもスピードがものを言う。A君の父G氏も切り返しは速い。

「予想通りですな(笑)。しかし、健全なる精神は健全なる肉体に宿る、と言いますからね」と暗に息子を援護した。

この時の諺が、なんと冒頭のラテン語での引用だったのだ。ふつうは分からない。しかし、ぼくは悪運が強い。当時から勉強していたイタリア語では“Mente Sana In Corpo Sano.”なので、その類似性から意味がわかったのである。そこで、さらに切り返した。

「できることなら、『健全なる肉体が健全なる精神に宿る』であってほしいですがね(笑)」

芸は身を助ける。こんな場面はめったにないが、外国語とディベートを学んでおいてよかったと思う瞬間である。

☆     ☆     ☆

その後、G氏が居を構えた東京麻布の広いコンドミニアムにも招待された。A君には六本木に連れていってもらい、夜遅くまで飲み語り合った。

A君はぼくの会社に約3年間勤めてくれた。頭の回転がいい父親に比べればおっとりタイプ。たぶん潜在的には能力が高かったと思うが、知的であることよりもマッチョであることに「逃げていた」かもしれない。カラオケでは自称十八番の『和歌山ブルース』をよく歌った。彼が歌うたび、耳鳴りと苦笑に耐えながら、みんなで拍手喝采をしてあげたのを覚えている。

この諺、洋の東西を問わず、あまりオツムのよろしくない肉体派スポーツマンを美化するために用いられるようである。人間のメカニズムは、良質の野菜が良質の土壌で育つようにはいかないだろう。精神と肉体の相関関係を否定する気はない。しかし、野菜に比べれば相関関係はだいぶ薄い。

それにつけても、つくづく教養と思考スピードは武器だと思う。加えて、ユーモアと自己正当化も対話の必需品である。もしかすると、「健全なる……」は、奥手な息子に大器晩成の夢を託したある父親がこしらえた「苦肉の金言」だったかもしれない。

諺や金言は自分の都合であり自己正当化であるものが多い。トラ、特に子どものトラを希少だと考えた者が、「虎穴に入らずんば虎子を得ず」を編み出した。「餅は餅屋」と言い出したのは間違いなく餅屋であって、饅頭屋ではない。「酒は百薬の長」の作者? もうお分かりだろう、大酒飲みに決まっている。 

Before-Afterの入門企画術

初心者向けの企画研修機会がそこそこある。年間20回はあるだろう。企画には定型がなく、どこを起点に指導するかにいつも頭を悩ませる。企画研修のカリキュラムは過去10年で7回近くバージョンアップしてきた。「アップ」になっていると信じている。

テーマを絞れ、コンセプトを一言で表わせ、企画書は一枚(いや、一行という超手抜きもある)、構成はシンプルに……など、企画の仕事には簡素化ハウツーが多い。そんな悪銭身につかずの心得ではダメ? そんなことはない。むしろ、奥深い仕事だからこそ、そうしなければならぬと思っている。

突き詰めれば、企画が価値をもつかどうかは、目新しさと改革にある。

目新しさ。すなわちテーマもタイミングも旬でなければならない。どこかで誰かがすでにやっていることを企画とは呼ばない。少しくらい模倣があっても大目に見るが、根底にある提案は企画者のオリジナルであるべきだ。

改革。「現状よりもよくなる」という仮説とアクションのシナリオが企画書に書かれていなければならない。その企画を実施すれば、現状の問題が解決するか、しかるべき理想が実現するか、メリットや便益が増えるか――これらのいずれかを証明するものでなければならない。

☆     ☆     ☆

指導したいことは山ほどある。だが、焦ってはいけない。「その企画を試みたら、現状(=Before)よりもベターな将来(=After)が約束できるか?」と、演習をしている初心者たちに尋ねる。何も変わらない、むしろ悪くなるというのでは話にならない。

Beforeのステージでは現状の短所を分析する(もちろん、よいものはよいと評価せねばならないので長所も分析する)。正確に言うと、分析だけでは不十分で、「内因性」という「短所の指摘と、その短所の主たる原因」を探る。これがうまくいけば、少なくとも「現状はそのままに放置してはならない」という企画の動機が正当化できることになる。

「いま使っている水性ボールペンは書き味が悪い、よくインクがかすれる」などの短所を挙げる。次いで、書き味が悪い原因、インクがかすれる原因を分析する。これらの原因はすべて「その水性ボールペン」に内因するものであること。つまり、紙が原因であったり書き手の癖が原因であってはならない。これでBeforeのゆゆしさがクローズアップできる。

Afterのステージでは短所の修正を提示する。原因の解消である。小幅の修正で済まないのなら、代替策を提案することになる。「紙と書き手を選ばない書き味とインクの長持ち・スムーズさ」がAfterの見せ場。これによって、After-Beforeの差が歴然となり、「After<Before」が証明できることになる。

☆     ☆     ☆

企画シナリオの基本はこれだけである。企画意図や提案骨子などは後で書けばよろしい。まずは、(1) Beforeに対するAfterの目新しさ、(2) Beforeを改革したAfterは短所が少なく長所が多い、という二点を押さえる。

Beforeの分析から入ると時間がかかったり逆にわかりにくくなったりするのではないかという懸念がある場合は、思い切って理想のAfterを掲げることもある。流れがAfter→Beforeの順になっても、企画のねらいは同じで、両者の歴然とした差を描きAfterBeforeに対する優位性を説く。

えらく大袈裟な話をしてきたようだが、仕事から離れた私生活ではみんなこうしてBefore-Afterを直感的に天秤にかけている。いつも飲んで帰っているが(Before)今日はまっすぐ帰ろう(After)、ソファを中心にリビングをレイアウトしているが(Before)グリーンを主役にしてみてはどうか(After)という具合に、小さくて身近なテーマを拾ってBefore-Afterに習熟してみよう。企画が親しみやすい存在にはなってくれるはずだ。企画とは「たくらむ」。スケッチの数をこなすのが上達への近道である。

ランチタイムの選択肢

 できれば弁当持参のほうが迷わないでいいというのがホンネだ。しかし、ランチのふいのお誘いが少なくないため、弁当を食いそびれてしまうことがあった。その弁当を夕食にするというのはちょっと情けないし、この時期だと食中毒すらありえる。というわけで、ランチはほとんど外食である。

 同じ店に週に二回も三回も通わない性分なので、オフィス近辺の食事処はだいたい知り尽くしている。時間があれば一駅くらい平気で歩いて行く。目当てがあるわけではなく、新しい店を探すことも多い。店構えと店名とメニューと料金で推理し、当たり外れに一喜一憂するが、ぼくの選ぶ店は当たりが多い。知人友人も認めてくれている。

 それにしても、何十年にもわたってランチタイムに少考したり迷ったりしてきたわけだ。出張時にはさっさと決められるのに、地元ではついつい選択の岐路に立って自虐的に迷いたがる傾向がある。

 お決まりの店に毎日通い、まったく悩むことなく日替わり定食一本主義のM。誰が何と言おうと、ビッグマックとコーラ以外を口にしなかった、かつての同僚アメリカ人のR。この二人を思い浮かべると、心中複雑だ。彼らの確固たるランチ哲学を羨む一方で、それじゃまるで餌ではないかと皮肉りたくもなる。

☆ ☆ ☆

 どこで何を食すかに迷うのはやむをえない。自分がそれを内心望んでいるからだ。しかし、そうして注文した後に、今度は店側からオプションを突きつけられて、さらに迷ったり不条理な選択肢に首をかしげさせられたりする。

 そのランチはセットメニューで、たぶんこの店の定番である。うどん、コロッケと鶏のから揚げ、ポテトサラダ、ライスの組み合わせだ。メニューを見て「これください」で注文完了。と思いきや、それで終わらない。

 うどんは「そば」に変更でき、しかも「温」か「冷」を選べると言う。温かいうどんのつもりで頼んだが、冷やしうどん、かけそば、ざるそばという三つの選択肢が増えた。しばし迷って、ざるそばにした。「うどん・温」を「そば・冷」に変えるのは二重の変更で、あまりにも節操のない自分に呆れる。

 さらに、「生卵か味付け海苔、どっちにしますか?」と奇妙なことを聞いてくる。

 トッピングみたいなものがこの定食にはついてくるのか。まったくの想定外である。そんなものを客に選ばせることはない。両方ともつけたらいいではないか。しかもだ、しらす大根おろし vs 冷奴とか、バニラアイス vs 抹茶アイスなら両者拮抗しているが、生卵と海苔は選択肢としてバランスが悪い。

 生卵が苦手なお客さんのためのオプションが味付け海苔? たぶんそうなのだろう。それはともかく、バリエーションやオプションが豊富であることがサービスともかぎらない。こっちは店と品物を選ぶまでに十分に迷ってきているのだ。「顧客の選択をこれ以上ないくらい容易かつわかりやすくしてあげる」というシンプルマーケティングの要諦を思い出した。

 今日のランチは迷わずに上うな丼にしよう。少なくとも、温か冷か、生卵か味付け海苔かで迷わされることはなさそうだ。

イタリア紀行2 「青に浮かぶ都市」 

ヴェネツィアⅡ

観光の中心スポットであるサンマルコ広場まではホテルからほんの数分。カフェや散策目当てに何度も足を運べる。それ以外に何か格別の楽しみ方はないだろうか。前泊地のミラノにいる時からこんなふうに45日をどう過ごそうかと構想を練っていた。持参していた『迷宮都市ヴェネツィアを歩く』(陣内秀信著)がインスピレーションを与えてくれた。世界でもっとも美しいと謳われるサンマルコ広場に海側から近づくという一つの提案がとても気に入った。

この本で固有名詞もしっかり覚えたつもりだった。しかし、イタリア語の名称は、宗教人であれ建物であれ地名であれ、「サンタ」と「サン」を冠するものが多い。実際現地に降り立つと、区別もつかなければ、しょっちゅう言い間違いをする始末だった。

にもかかわらず、サン・ジョルジュ・マッジョーレ島だけはしっかり覚えていた。サンマルコ広場からわずか数百メートル沖合いにあるこの島内に同名の教会があり、その鐘楼のテラスからの眺望を見逃してはいけない。

さて、海側から広場へのアプローチはもちろん船しかない。水上バスの3日券は乗り放題で約3000円。これを使って、リド島へ向かい、そこから折り返して広場へ向かう。リド島はヴェネツィアのみならずイタリア全土における有数のリゾートであり、ヴェネチア映画祭の会場として知られている。滞在中、同じルートで二度そこへ行った。もちろん乗船・下船を繰り返して、その他の路線の大半も遊覧し尽くした。

ご当地に諺がある。ヴェネツィア方言で“A tola no se vien veci.”と言い、「食事の間は歳をとらない」という意味だ。「船に乗っている間は歳をとらない」という新しい諺を作ってもよいくらい、青地に浮かぶ街の佇まいに飽きることはない。

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砂漠に揺らぐ蜃気楼を実体験したことはないが、ヴェネツィアの街は幻かのように海面下に沈んだり海面上に浮かんだりを繰り返す。上下しているのは船のほうなのだが……。
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水上バス”ヴァポレット”でサンマルコ広場にアプローチ。空の面積を大きく撮ってみた。するとどうだろう、青いキャンバス上に落ち着いた街の気配が漂ってくる。10月のこの日、晴朗極まる青の競演が見られた。
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サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会から臨むサンマルコ広場。写真外の左右にも街並みはあるのだが、ここに写っているのがヴェネツィアのほぼ全貌。至るところに小さな運河や水路が網の目のように広がっている。

ノウハウと固定観念の紙一重

 ノウハウ。いちいち考えなくても、条件反射的に成果を導ける。見覚えのある場面で発揮する熟練の技。無意識的に何事かを成し遂げる力。

 固定観念。事にあたって取るべき方法や手段をパターン化する。辿り慣れた常識の絶対視。なじみ親しんできた慣習、法則、かくあらねばならないという強迫観念。

 二つの概念は酷似している。ノウハウだと思って身につけたものが、見方を変えれば明日の臨機応変を阻む固定観念であったなどということはよくある。かと言って、固定観念のない赤子のような精神作用だけで高度な仕事をこなすことはできない。何か「定番」と呼ぶに値するノウハウが欠かせない。

 困ったものだ。ぼやぼやしたり安住したりしていると、ノウハウはすぐに固定観念に化けてしまう。技を磨いてきたつもりが、気がつけば身動きできぬ状態になっている。

☆ ☆ ☆

 両者の紙一重の違いをどう察知すればよいのか。ぼくは、ノウハウを「型に溺れない型」、固定観念を「型に溺れる型」ととらえている。あるいは、それぞれを「変化に強い型」と「変化に弱い型」と言い換えてもよい。

 固定観念は行く手に立ちはだかる内なる壁である。財産であるとかたくなに信じてきたものが壁となって新しい仕事の邪魔をする。地図の読み方は習得した。しかし、地図の縮小率や色分けが変わってしまうと途端に窮してしまう。

 ノウハウは行く手を切り開く道具である。手に入れてきた道具を微妙に調整し、時には敢えて陳腐化したものを捨てる勇気である。地図の種類が変わっても自分が置かれた場所が変わっても、習得してきた地図の読み方が生かせる。

 ノウハウを固定観念という過去の遺物へと凋落させるのは未練であり執着である。加速化し多様化する時代にあって、ノウハウは短命を余儀なくされる。ノウハウを駆使できる仕事の賞味期限も短い。大胆に修正したり、場合によっては潔くシフトしたりすることが、真にノウハウを生かす道なのだろう。

 こうして切磋琢磨され取捨選択された結果、それでもなお残りうるものこそが、普遍的ノウハウの地位を築く。それはもはやノウハウの域を脱して、「知恵」と呼ぶにふさわしい。  

「問題ない」という問題

MONDAINAI(モンダイナイ)。

ローマ字・カタカナのいずれの表記も、いまや堂々たる国際語になったMOTTAINAI(モッタイナイ)と酷似している。だが、モンダイナイは世界の市民権を得るには至らなかった。

1980年頃からアメリカ人、イギリス人、オーストラリア人らと一緒に仕事をしていた。日本企業の海外向けPR担当ディレクターとして英文コピーライターチームを率いていたのである。彼らはみんな親日家であり、日本の企業で生き残ろうと自己アピールをし、自分の文章スタイルに関してはとても頑固であった。

日本語に堪能なライターもいればカタコトしか解せぬ者もいた。しかし、どういうわけか、「ノープロブレム(心配無用)」を「モンダイナイ」と言う傾向があった。これはあくまでも想像だが、彼らは「日本人が問題を水に流したり棚に上げたりするのが得意」ということを知っていて、別に解決していなくても当面問題が見えなければ良しとする習性に波長を合わせていたのではないか。

「モンダイナイ」とつぶやいておけば、とりあえず日本人は安心するだろうという一種の悪知恵であり処世訓だったかもしれない。しかし、彼らを責めることはできない。「腫れ物と問題は三日でひく」という諺があっても不思議でないほど、この国では「問題の自然解消」に期待する。さらに、小学校から慣れ親しんだマルバツ式テストのせいで、当てずっぽうでも50%の正解を得てしまう。問題がまぐれでも解けてしまうと錯覚している。

問題に対する姿勢を見るにつけ、日本人にとって問題解決は厄払いに近いと親日家たちが判断したのも無理はない。問題を水に流すなど、まさに厄払いそっくりだ。問題を棚に上げるように、祈願の札も神棚に奉る。TQCさえやれば問題なんてへっちゃらと思うのは、厄をぜんざいの中に放り込んでみんなで食べてしまうみたいだ。

こうした観察が「モンダイナイ」を生み出した。しかし、彼らは日本語の助詞が苦手である。そのため、三つの文脈すべてにおいて「モンダイナイ」を使ってしまう。正しく言えば、「モンダイナイ」は、(1) 問題(にし)ない、(2) 問題(を見)ない、(3) 問題(は解決して、もうここには)ない、というニュアンスを秘めている。

この用語の使い手の名人はアメリカ人のCだった。

ぼく 「(英文を見せながら)Cさん、これで大丈夫?」
C   「うん、それでモンダイナイ」
ぼく 「もし、誰かが文句をつけてきたら……」
C   「でも、モンダイナイから大丈夫」
ぼく 「ちょっと待ってよ、それでいいの?」
C   「そう、モンダイナイから平気」

と、まあ、会話の中にキーワードがふんだんに織り込まれるのである。これは禅問答ではない。彼は理路整然と受け答えしているのだ。上記の会話にニュアンスを足し算すると、次のようになる。

ぼく 「(英文を見せながら)Cさん、これで大丈夫?」
C   「うん、その文章の問題はすでに解決して、もうここにはない」
ぼく 「もし、誰かが文句をつけてきたら……」
C   「仮に問題があっても、それを見ないから大丈夫」
ぼく 「ちょっと待ってよ、それでいいの?」
C   「そう、問題にしないから平気」

ここまで解釈できない日本人スタッフはみんな「モンダイナイ」の三連発に安堵して、後日責任を負ってしまう。リスク管理に神経を使うぼくだが、それでも二度痛い目に合った。これは容赦できんとばかりに二度目の後に徹底的に詰問した。

Cさん、あれだけ自信をもって大丈夫だと繰り返していたくせに、問題が出たじゃないか! どういうつもりなんだ!?」とぼく。Cは身長190cmの巨体を縮め肩も狭め、小さくかすれた声でつぶやいた。「ごめん。モンダイナイ……つもりだった」。

彼はまだ素直なほうなのだ。彼以上に日本慣れしてくると、「どうしてくれるんだ!?」という怒号に対して、「じゃあ、もう一度モンダイナイようにしてあげよう」とケロリと言ってのける。そして、このときにかぎって英語で”ノープロブレム”と付け足すのだった。

「問題ない」を口癖にしている問題児、水に流し棚に上げて知らんぷりしている社員、あなたの回りにも必ずいる。たぶんそいつにオフィスの着席権を与えてはいけない。