多忙と多忙感の違い

今さら指摘するまでもなく、実態が「忙しい」ということと「気ぜわしい」ということは同じではない。後者は「多忙感」にすぎない。たとえば、師走を迎え、日々やるべきことが山積しているわけでもないのに、だいぶ先の年末年始の漠然とした予定を睨んで何となく落ち着かなくなっている。誰かに「どう、忙しい?」と聞かれれば、「うん、何だかんだあってね」とケロリと答えるかもしれないが、傍から見れば、多忙どころか時間を持て余していたりする。

数年前までは年に百数十の研修や講演をこなし、出張宿泊も月間で10泊になることもあった。しかも、合間には準備をせねばならないし、企画の仕事も手掛けていた。それでも精神的圧迫感はなかった。一日24時間というキャンバスを描かねばならないというよりも、すでに絵具が塗りたくられたキャンバスに向かうような印象であった。多忙には違いなかったが、意志を自在に貫く余地がないから、ある種の諦観の境地に入っていたのかもしれない。

多忙であることを選んでいるかぎり、精神的にも肉体的にもさほど問題は起こらない。ハードワークとノーワークを天秤にかけてみれば明らかだろう。仕事がなくて退屈極まりないほど辛いことはない。二十代後半に職場を数ヵ所変えたことがあったが、望む仕事にありつけず半年ほど無職を体験した。職を探しながらもなかなか叶わず、やむなく読書三昧の日々を過ごしていた。その時期の独学が財産になっていることは間違いないが、思い出すたびに過剰な有閑にはぞっとする。時間を潰さねばならない苦痛に比べれば、時間が埋まっている忙しさなど大したことはない。多忙はぼくにスローライフの意味を教えてくれた。


「忙」という漢字が「心を亡くす」という意であるのは広く知られている。仕事を追い、仕事に追われていれば、たしかに精神的にまいるだろう。しかし、好きな仕事に集中しているときの状態は心を亡くしているのではなく、心を意識していないと言うべきである。ほんとうに心を亡くしてしまっている人に仕事がやってくるわけがないではないか。実は、多忙よりも危なっかしいのが、仕事の量とは無関係に多忙感を漂わせることなのだ。こっちのほうが心を亡くしている状態に近い。

ふと、かの有名なパーキンソンの法則を思い出した。支出額が収入額を優に超えたり、金持ちほどケチが多いという現実があるので、第二法則の「支出額は収入額に達するまで膨張する」には首を傾げる。しかし、第一法則の「仕事量は、完成までに与えられる時間をすべて使い果たすまで膨張する」はほぼ正しい。官僚の仕事ぶりを観察・研究して導かれた法則だが、おおむねすべての組織や仕事に当てはまるように思われる。

組織における個人の仕事は、仕事の難易度や重要度とは無関係に、許容された時間をすべて食い潰す。わかりやすく言えば、仕事量ではなく時間量のほうが仕事ぶりを決定しているのである。効率よくやれば一時間でできる仕事も、半日与えられていれば半日かけてしまうのだ。したがって、当人はいつも仕事をしている気になっている。まったく多忙ではないのに、当人は多忙感を抱いている。新しい仕事を頼もうとしても、いっぱいいっぱいという状態なのである。多忙感はやがて「仕事のふり」へと変貌する。実際の仕事が減っているのに、忙しそうに見える職場が目立つのは気のせいではないだろう。 

メディア依存の日々

新聞を購読せずにインターネットだけで情報を得ている若者を何人も知っている。多様なリアルタイム情報の提供という点に関して、新聞はインターネットに太刀打ちできなくなった。一ヵ月の新聞購読料およそ4,000円。デフレの時代、この金額は学生にとっても若い社会人にとっても決して小さくはない。では、テレビはどうか。テレビならインターネットに対して好勝負ができているのではないか。いやいや、このように問うこと自体が白々しい。残念ながら、20世紀半ば生まれのぼくでさえテレビの大苦戦を認めざるをえない。

手早く何かを知りたいとき、情報源としての新聞もテレビもかつての輝きを失ってしまって久しい。今から30年ほど遡れば、まず百科事典が色褪せ、次いで年鑑の類い、季刊誌、月刊誌、週刊誌の順で優先度が低くなっていった。もちろん、緊急を争わなければ、つまり、何事かをじっくりと楽しんだり学んだりするのであるならば、そして対象が普遍知に近いものであるならば、ぼくが所有している1969年版のエンサイクロペディア・ブリタニカなどの百科事典にもいくばくかの使い道は残っている。古書も古い雑誌も、鮮度を競わないのであれば、何がしかの価値を湛えている。

昨日、「さかな検定」が実施されたとテレビのニュースで知った。ふと先週の金沢での晩餐を思い出す。塩焼きに田楽焼き、刺身に天ぷら、ぬたに調理した岩魚イワナ三昧を満喫した。一昨日はテレビでウグイ料理を見た。自宅に「川魚図鑑」などというシャレたものはない。ほんの少しばかり知っておきたいと思っただけで、図書館や書店に行くほどの動機づけもない。こうなると、やっぱりインターネットの簡単検索に頼らざるをえない。イワナがサケ科でありウグイがコイ科であることを知り、ついでにあれこれと読んでみる。ほんのわずか数分で、ついさっきよりももうひらかれている。


「マルチメディアの時代」ということばがまだ生きているとしても、もはや群雄割拠の様相ではなくて、インターネットが主役に躍り出ている状況である。ぼくの世代より上ではおそらく新聞、テレビが依然として主力情報源だろうが、下の世代ではほぼインターネットが拠り所になっている。もちろん、人間を有力情報源にしている人たちもいる。人はとてもありがたいソースだ。但し、情報の確かさ、ソースの信憑性については気をつけておかねばならない。人はよく勘違いするし、錯覚したまま情報をリレーする。そして、その種の誤謬推理はインターネット上でも頻繁におこなわれる。

情報、あるいは広く知識や事実のすべてをぼくたちは記憶に止めるわけではない。ほとんどの情報は一過性で、記憶領域での滞留時間はすこぶる短い。この意味では、テレビも新聞もインターネットも同質的である。これらのメディア間の特徴的差異は、情報の発生から発信までの時間の遅速にある。裏返せば、急がず慌てないのであれば、半日ないし一日遅れの新聞で十分なのだ。いや、新聞にはブログよりも信頼性の高そうな論評や解説が掲載されるから、知るだけでなく検証するきっかけにはなる。

周囲の人々に始まって、新聞、テレビ、インターネット、雑誌、書籍、講演・セミナーなど多種多様なメディアが情報生活を彩り、これらメディアなくして社会と自分の位置関係を見極めることはむずかしくなった。かつて世間のことは何一つ知らずともせっせと本を読んでいればいい時代もあったし、新聞も本も読まずとも古典落語の与太郎のように雑談を情報源として日々を送れる時代もあった。もはやぼくたちに選択の余地はないように思われる。ぼく自身のメディア依存の日々も当分続きそうだが、時代や世界に最先端で向き合っているのは五感にほかならない。どんなマルチメディアの時代になろうとも、マイメディアとしての五感の感度が問われるのだろう。 

理屈を通すべき時

口うるさいオヤジが見当たらない。なるほど、軽い気持で若者に注意したら、車中やコンビニの前で逆切れされて身に危険が及びかねないご時勢だから、誰彼ともなくやみくもに注意したり説教を垂れたりするわけにはいかない。彼らにも人を諭しにくい事情がある。いまここで言う「口うるさい」とは、そんな見ず知らずの、わけのわからぬ連中への小言のことではない。ここぞと言うときの筋の通し方についての話である。

旧勉強会で幹事を務めてくれたS氏のブログにおもしろい話が載っていた。おおよそこんな話である。ある機構の巡回指導員が会社にやって来て、ひとしきりチェックをした後で「だいたいは出来ているので、特に指導する内容はない。今後も引き続き重点的にコンプライアンスに取り組んでいただきたい」という所感があったという。その会社の代表であるS氏は、「だいたい」ということばに鋭く反応して、「『だいたい』の意味がわからない。判断は出来ているか出来ていないかのどちらかのはずだ!」と少々語気を荒げて、「だいたい」ならばどこかに改善の余地があるはずだから教えてほしいと食らいついたのだ。

「ことばのアヤじゃないか、大人気ない」と言い放つのは簡単である。ぼく自身はS氏のようにアグレッシブには反応しないと思うが、彼の「事は出来ているか出来ていないかのどちらか」という言い分には筋が通っている。なるほど100パーセントなどというものはなかなかないだろう。だから指導員が90点と判断して、それが自分の合格基準を満たしていれば、「よく出来ています」と総括すべきなのである。「だいたい出来ている」という寸評に対して、真面目に取り組んでいる職場であればあるほど、その「だいたい」ということばで示された足りない部分を聞きたくなるのは当然のことである。


指導員の「だいたい」は、責め立てるには気の毒な、あどけないことばの弾みなのか。そうではない。何事に関してもそんなふうに物事を中途半端に片付ける性向をもつ人なのだ。「70点です。足りない30点はこれこれのポイントです」と言うのが良識というもので、「だいたい」ということばは何か奥歯にモノを挟んでいる。実際、このような灰色的言動で御座なりに生きている連中がそこらじゅうにいる。誰かを紹介するときに「こちら、○○さん、一応・・本会の会長です」などと平然と言ってのける者がいる。失礼もはなはだしい。人を「とりあえずビール」のように扱っているではないか。その人を紹介した男に対して、ぼくは即刻「一応などという言い方はやめなさい!」と叱責する。

繰り返すが、ちょっとしたことばのアヤだとか舌が滑ったのではない。それは口癖であり、口癖は長年の習慣によって形作られた性格、ひいては人間関係の処し方をありのままに反映するものなのだ。何かにつけて「そう、変ですよねぇ~」と言う知人に「何が変?」とぼくが聞き返して、まともに返事が戻ってきたためしはない。それはただの場つなぎ、または同調目的の口癖であって、何かをよく考えた結果の相槌などではない。軽はずみにこのような形骸語をつい洩らしてしまうのは責任感の欠如にほかならない。

しかも、不幸なことに、こういう連中に一言注意しようとする理屈を通すオヤジがめっきり少なくなった。そっぽを向かれたり嫌われたりするのを恐れるオヤジどもが増えたのだろうか。それとも理屈派が棲息しにくい世の中になったのか。ところで、一世を風靡した「だいたいやねぇ~」をトレードマークにしていた評論家がいたが、冷静に考えれば「だいたい」ということばには反論を未然に防ごうとする思惑が隠されている。なにしろ「だいたい」なのだから、反論しようにも狙いが絞り切れない。「だいたいやねぇ~」を怒りではなく笑いの対象にしたのはしたたかな老獪ぶりだ。しかし、S氏の前に登場した男の「だいたい」には笑えない。イエスかノーしかない場面で「だいたいイエス」という発言に怒りを覚えるのは正常なのである。

ただ、理屈を通す側も自制を忘れてはならない。自らの品格をおとしめてまで激昂しないことである。理屈にはエスプリが欠かせない。叱りつけても最終的には笑い話として仕上げるのが小言オヤジの生き残り方法であると思う。「理屈がだいたい通った」と判断したら、さっさと切り上げるのが正しい。

何をどう読むか

ぼくが会読会〈Savilnaサビルナを主宰していることはこのブログでも何度か紹介してきた。サビルナとは「錆びるな!」という叱咤激励である。本を読み誰かに評を聞いてもらっているかぎり、アタマは錆びないだろうという仮説に基づく命名だ。登録メンバーは20数名いて、毎回10名前後が参加している。前回などは二人のオブザーバーも含めて14名だったので、発表時間が少なくなった。せっかく読了して仲間に紹介しようとするのだから、最低でも10分の持ち時間は欲しいが、少人数では寂しく、また、賑わうこと必ずしも充実につながるものではないので、少々悩む。

今のところ年に8回をめどにしている。あまり本を読まない人でも、皆勤ならば8冊は読むことになるわけだ。この会読会では書評をレジュメ2枚以内にまとめることを一応義務づけている。そして、新聞雑誌での著名人による書評が当該図書の推薦であるのに対して、この勉強会の書評と発表は「自分が上手に読んだから、話を聞いてレジュメを読んでもらえれば、わざわざこの本を読むまでもない。いや、すでにあなたはこの本を読んだのに等しい」と胸を張ることを特徴としている。なお、ネタバレになるので詩や小説を取り上げないという約束がある。それ以外の書物であれば、時事でも古典でもいいし、洋の東西も問わない。

なぜ書評を書くか。これはぼくの「本は二度読み」という考えを反映している。娯楽や慰みで読む本を別として、読書には何がしかのインプット行為が意図される。そして、インプットというものは一度きりでは記憶として定着しないから、できれば再読するのがいいのである。しかし、一冊読むのに数日を要し、再読に同じ時間を費やすくらいなら、別の本を読むほうがましだと考えてしまう。結果的には、「論語読みの論語知らず」と同じく、「多読家の物知らず」の一丁上がりとなる。本に傍線を引き、欄外メモを書き、付箋紙を貼っておけば、200ページ程度の本なら再読するのに1時間もかからない。読書の後に書評を書くという行為には再読を促す効果があるのだ。


さて、書評で何を書くか。実は、これこそが重要なのである。まず、決して要約で終ってはならない。要約で学んだ知は教養にもならなければ、人に自慢することすらできない。一冊の本を読んで、要約的な知を身につけた人間と、その本の一箇所だけ読んで具体的な一行を開示する人間を比較すれば、後者のほうがその書物を読んだと言いうるかもしれない。そう、具体的な箇所を明らかにせずに読後感想を述べるだけに終始してはいけないのである。したがって、引用すべきはきちんと引用し、読者として評するべきところをきちんと評するのが正しい。誰も他人の漠然とした読後感想文に興味を抱きはしない。

きちんと引用しておけば、書評に耳を傾けてくれる仲間にその書物の「臨場感」を与えることができる。引用には書物の凹凸があるが、感想はすべての凹凸をフラットにならしてしまう。これぞという氷山の一角を学べる前者のほうがすぐれているのだ。何よりも、引用こそが知のインプットの源泉にほかならない。ともあれ、ルールという強い縛りではないが、以上のような目論見があれば、10人集まる会読会では、仲間の9冊の本を読むのと同じ効果がある。少なくとも読んだ気にはなれる。

どんな本をどのように読むか。強制された調べものを除けば、原則は好きな本を楽しく読むのだろう。世には万巻の書があるから、好奇心を広く全開しておくのが望ましい。食わず嫌い的に狭い嗜好範囲で小さな読書世界に閉じこもっているのはもったいない。ぼくの読書はわかりやすい。知識の補給としての書物と、発想や思考を触発する書物の二つに分けている。前者と後者の割合は2:8程度。前者には苦痛の読書も一部あるが、後者は嬉々として著者と対話をする読書である。対話だから真っ向から反論も唱える。今は亡き古今東西の偉人たちとの対話が個別にできるほどの愉快はない。たとえば、『歎異抄』を読むということは、親鸞の知と言について唯円と対話するということなのだ。

これまで、取り上げる書物については、文学作品以外に制限はなかった。次回6月の会読会では、初めての試みとして「読書論、読書術」にまつわる本を読んでくるという課題を設けることにした。会読会メンバーの最年少がたしか37歳なので、今さらハウツーでもないのだが、自分の読み方を客観的な座標軸の上に置いてみるのも悪くないと思った次第。ぼくは二十代半ばまでに50冊以上の読書論、読書術、文章読本の類を読んだ。大いに勉強にはなったが、中年以降になったら読書術の本を読む暇があったら、せっせと読書をすればいいと考えている。ゆえに、今回のハウツーものの課題は一度きりでおしまい。 

自信と力量のはかり方

ABがいる。趣味が同じである。その趣味が腕を競う類のものだとしておく。評者はABの趣味に打ち込む情熱についても力量についても知らない。そこで、評者は両者に自信のほどを尋ねる。「お二人は趣味の腕前に自信をお持ちですか?」と、少しありていな質問を投げかけた。

サッカーでは「オレにPKを打たせろ」とばかりに自信を誇示し合う場面があるが、上記の場面では、Aが「自信あります」と答え、Bは「あまり自信がありません」と言ったとしよう。自信の有無は自己評価であり、両者を比較検討しうる指標にはならない。しかし、一方が自信あり、他方が自信なし、と言明したら、しかもAが声高らかに毅然と、Bが消え入るような声で弱々しかったなら、自信度の現われによって評者は力量を判断してしまうかもしれない。自信のほどを聞く一問のみしか許されないならば、現実的には、自信ありそうなAを優位に見積もってしまうのが常だろう。

以上の話を趣味から仕事に、自信からキャリアに変えても大同小異である。しかし、仕事に対する自信の度合いとキャリアによって、Aの力量がBのそれを上回るなどと即断するわけにはいかないのだ。自信にしてもキャリアにしても、ABが同じ土俵に上がって実力を競っているわけではない。Aの自信とキャリア、Bの自信とキャリアは拮抗的にぶつかり合ってはいない。確実に言えることは、Aは仕事に自信を持ち、かつキャリアを誇り、Bは仕事に自信がなく、かつキャリアがない、ということだけである。新たな、同じ課題を前にして、両者がどのように力量を発揮するかは別問題なのである。


わかりやすい例で繰り返そう。ペーパーテストでAが100点、Bが50点であることは、ほとんどの場合、しかるべき知識の領域の多寡を示しているにすぎない。知識イコール力量と断定することができるならともかく、ペーパーテストの結果が示すのはおおむねその分野についてどちらがよく知っているかということに限定される。その知は発揮される力量と必ずしも正比例するものではない。

ぼくたちは何度も人を見誤る。「自信あり!」という者に希望を託し、「キャリアあり!」に仕事を任せる。これは、現役チャンピオンが挑戦者に絶対に負けないという法則を信じることにほかならない。だが、実際の力量は両者が攻守交える拮抗状況の中で明らかになる。ペーパーテストやリハーサルの出来は、ぼくたちが常識として想像しているほど、実践や本番に結びつかないものなのだ。

個人の力量は、人間どうしの拮抗的アドバーサリーな関係においてしかはかりようがない。人との協同、人との対話、人との交渉で発揮される成果のみが真の力量である。他者との接点、他者との関係性における力量以外に力量などというものはありえないのだ。自信とキャリアによって評価されてきた人々が繰り広げる痴態と非生産性にそろそろ気づくべきだし、そのような尺度によって力量を見定める努力しかしないぼくたちの想像力の無さを大いに嘆くべきだろう。

モノローグの中のダイアローグ

T 「ツイッターは、まだ? 岡野さん、時代に取り残されますよ。」
F 「あ、そう。それなら、ぜひ時代に取り残されたいもんだよ。」

T 「怠け者が『来週中に』と言えば、月曜日であることはまずなく、たいてい金曜日の夜中を意味している。」
F 「そいつは未熟な怠け者だな。ベテランの怠け者は約束もしないし守りもしない。さらに怠惰道を極めた師になると、もはやぼくらと同じ浮世にはいない。」

T 「淡々と語り振る舞えば、お前は醒め過ぎだと評される。」
F 「ならばとばかりに、熱弁を振るい活気に溢れた動きを見せれば、テンションだけ高くて空回りとのそしりを受ける。」

T 「あなたの悪口を言っている人がいますよ。」
F 「ありがたいことです。存在意義がなければ誰も悪口すら言ってくれなくなりますからね。」 


わざわざツイートフォローしなくても、上記のようにぼくたちは独白モノローグの中で知らず知らずのうちに一人二役でツイッターをしているものだ。自分がつぶやき、もう一人の自分がつぶやく。主客相対するダイアローグである必要はない。所詮つぶやきだから、そこに主観と客観の対比がなくてもいいだろう。

元来相手を特定せずに、ぽつんと独り言をこぼすのがつぶやきだ。このつぶやきに不特定多数という誰かを想定するのがツイッターである。純粋な独り言なら発信したり公開したりするに及ばないから、どう考えても特定せぬ相手を考えているのはたしかだろう。すると、これはどうやら演劇の舞台のモノローグと似てはいないか。役者が一人で語る台詞せりふは一種のつぶやきで、その心中の思いをことばにした語りは居合わせる観客に向けられている。要するに、聞かれたい知られたいつぶやきなのである。

聞かれたい知られたいと思い、さらにフォローをしてほしいと願い、その結果、何らかのやりとりが成立すれば、それはまさしく初歩的なダイアローグの様相を呈する。モノローグという形式の中でおこなわれるダイアローグ。自分一人でこなすダイアローグは文字も音声もともなわず、思考する内言語として現れる。自分の日常茶飯事のツイートをフォローできていないし、目の前の対話相手のツイートの面倒を見るのに精一杯のぼくだ、大海原のようなツイッターの世界に飛び込むのは容易でない。

こんなことをつぶやいたら、「そんな理屈っぽい世界ではなくて、もっと軽やかですって!」と諭された。「軽やかで理屈っぽくないから、相性が合わないのだよ」と返事しておいた。 

喜怒哀楽の大安売り

「この頃、自分でも驚くほど涙腺が甘くなって……」というため息混じりのつぶやき。「親の死に目に立ち会えなかった時も涙しなかったのに、後になって思えばあんなくだらん映画についもらい泣きをしてしまった」。こう言う中年男が、「あの映画で泣いたことを思い出すたびに、泣きたくなるくらい悔しい」とほとんど涙ぐんでいる。「男は少々のことでは泣くな!」と幼少期から躾けられたらしいが、理性に感情をコントロールする力があるかどうかは疑わしい。ラ・ロシュフコーは『箴言集』の中で「知は情にいつもしてやられる」と言っている。

誰だって哀愁漂う旋律に胸がジーンとすることがあるだろう。少々メランコリーな気分の時に切ないメロディーが重なれば、涙腺の奥が湿りもするだろう。音楽だけではない。淡々とした文章がふと人をしんみりさせたりもする。「棟方はゴッホになれなかった。しかし、世界のムナカタになった」という一文に何とも言えぬ感動を覚えたことがある。必ずしも悲しいからではなく、何かの拍子に感極まり目頭を熱くしてしまう。ツボにはまって笑いが止まらないように、涙のツボもありそうだ。

ぼくはクールな人間だとよく指摘される。ろくにぼくのことを知らないくせに失敬な! と思ったりするが、冷静かつ客観的に自分を眺めてみれば、たしかに人前で悲しみに打ちひしがれたり感涙にむせんだりすることはほとんどない。ぼくよりも一回り若い塾生の男性などは、ある一件で昔ひどい仕打ちを受けた年配の男を恨み続けていたが、ある講演会でその男の苦労話を聞いて涙が止まらなかったと言う。ぼくには考えられない出来事である。どんな事情があろうとも、その男の話を聞いてみようと心境が変化することはありえないだろう。


強がって人前で涙しないのではない。安っぽく感極まるのが性に合わないのである。ぼくだって――可愛くはないだろうが――一人でいる時に胸をキュンとさせていることもあるのだ。たとえば、詩集『海潮音』に収められている「わかれ」という一篇を口ずさむとき。

ふたりを「時」がさきしより、
昼は事なくうちすぎぬ。
よろこびもなく悲まず、
はたたれをかも怨むべき。
されど夕闇おちくれて、
星の光のみゆるとき、
病の床のちごのやう、
心かすかにうめきいづ。

経験と二重写しになるわけでもないのに、青春時代からこの詩をはじめとする諸々の詩篇に何度も喉元が詰まるような思いをしてきた。詩人ヘリベルタ・フォン・ポシンゲルがぼくを動かすのではない。英独仏伊の言語に長けた訳者上田敏の、原詩そのものが精緻にして細微な日本語で紡ぎだされたかのように思わせる語感の天才ぶりに、過敏な感応を禁じえなくなるのである。

話を急転直下で現実に戻すと、昨今とみに喜怒哀楽のバーゲン現象が目につく。安直なコントや漫才に満点を与えるほど大笑いする同業芸人ども。有名女優の離婚騒動に「腰が抜けるほど驚いた」という、某テレビ司会者の情けなさ(そもそも芸能人の結婚には離婚が内蔵されているのではなかったか)。ぼくの周囲でもいい大人が、実態を的確にとらえることができず、また、その実態に見合った適正感度で表現できずに、ギャルのように「ウッソー」「スゴーイ」「サッスガー」を連発している。そんなに安売りをしていると、ここぞという時の悲喜こもごもや感動をどのように表わせばいいのか。情報化社会のデジタルリズムに流されぬよう、ふだんからしっかりと感情センサーの手入れをしておかなければならない。

相互参照はキリがない

忙しさにかまけて、インターネットでさっさと調べることがある。インターネットも百科事典のように〈相互参照クロスリファレンス機能〉を備えている。たとえば、ある本で知った専門語を手繰っていけば、そこから蜘蛛の巣のように相互参照のネットワークが広がっていく。両者の違いは、百科事典の場合には全巻の内部で相互参照が成り立っているのに対して、インターネットでは参照や引証がほとんど無限連鎖していくという点である。

この無限連鎖はまずい。本題から逸れてエンドレスサーチャーになってしまうからだ。そこで、ネットの利用に関しては歯止めになりそうな条件をつけるようにしている。まったく何も知らない事柄については、初動手段としてウェブを利用する(辞書は机上に置いてあるので、用語の意味はめったにネットでは調べない)。さらに、ある程度はわかっているが、具体的な事例が欲しいとき、身近にある書物以外に何かないだろうかとネットで調べることもある。もう一つは、いずれは読んでみたいと思っているが、当面のところ時間もないし他の本で手が一杯のとき、ネット上で読める専門家の書評や論評をとりあえず予備的にアタマの片隅に入れておく。松岡正剛の『千夜千冊』などはとてもありがたい無料の公開情報である。

正直に言うと、自分でもどこかで喋り研修のテキストなどでも使っているくせに、ふとした勘違いで間違ってはいないかと思ってインターネットにあたることもある。詠み人知らずの情報ではまずいので、ウィキペディアではなく、極力専門家のシラバスやその人たちが開設しているサイトを読んでみる。手元にどんな本でもあるわけではないから、そういう場合にはほんとうに重宝する。だいたい、気になって調べる時は事実誤認している意識がどこかにあるので、結果として念のために確かめておいてよかったと胸を撫で下ろすケースが多い。


浅学だが論理学を曲りなりに勉強し実践してきたから、〈小概念不当周延の虚偽〉という専門用語について知っているし、それが「小さな情報から大きな結論を導いてしまうことによって犯してしまう誤り」であることくらい承知している。たとえば、「彼は遅刻した。ゆえに信頼できない」などがその一例。一度だけの遅刻によって信頼できない男というレッテルを貼ると虚偽を導出してしまいかねない。他に好例がないかと思ってネットで調べてみたら、その項目で検索された最初のページの上から8番目に「オカノノート」が出てきた。どこかで見たと思ったら、本ブログではないか。思い出した。この用語が登場するブログ記事をぼくは以前書いていたのである。

自分の書いたものをあやうく参照するところだった。いや、ちょっと待てよ。それが仮にぼくではなく別の誰かが書いたものであったとしても、その誰かがもしかするとぼくの書いたものを参照したかもしれないではないか。ソースのわからない情報というのは、こんな具合に相互参照が繰り広げられて雪だるまのように膨らんでいる可能性がある。ふと思い出したが、以前ぼくがM君に話してあげたとっておきのエピソードを彼がある勉強会で披露した。後日、その勉強会に出席していたK君にいみじくも同じエピソードをぼくが語ったら、「先生、Mの話のパクリですね」と言われたことがある。ネット上では情報発信の本家がどこかはわからない。ぼくにしたって、そのエピソードをどこかで知ったのだから。

それにしても、変な尻尾だと思って正体を暴こうとしたら、それが自分に辿り着くなどというのはインターネット特有の現象ではある。ぼくのような人間には、小さく閉じられた世界の中でささやかに調べたり考えたりしているのがお似合いなのだろう。ブログやツイッターに日夜目配りしているのはよほどの暇人である。ふつうの仕事をしてふつうの生活をしていれば、たとえ義理があろうとも知人友人のサイトのことごとくに目は届かない。「岡野さんのブログを読ませてもらっています」と言われても、ほとんどがお愛想だ。そうそう、ネタの仕込みとして、ぼくと会う前日か当日にさっとブログに目を通している人は案外多いかもしれない。

顛末を詳らかにする

シェークスピアに『終わりよければすべてよし』という戯曲がある。“All’s Well That Ends Well.”という原題だ。いろいろな苦難や試行錯誤もあったけれども、結果がよければ救われる。その通りだろう。もう一つ、英語には“Well begun is half done.”というよく知られた諺もあって、「始めよければ半ば成功」という意味だ。これに相当する日本語は見当たらない。ふだんぼくたちが耳にするのは「始めよければすべてよし」だ。英語では謙虚に「半分よし」なのに、日本語では厚かましくも「すべてよし」。きわめて楽観的である。

そうそう、他に「始めよければ終りよし」もあった。始めと終りが接近しているのなら、そうかもしれない。愛想のいい運転手のタクシーに乗り気分よく出発したら、ワンメーターの近場の目的地までなら降りる時も気分はいいはずだ。始めと終りの時間が5分くらいなら、おそらく始めよければ終りよしに違いない。たとえば気持のいい朝を迎えたら、たぶん朝食はおいしくいただけるだろうが、だからと言って、いい朝を過ごしたその日の終りがハッピーエンドになるという保障はない。

会合の冒頭、挨拶のスピーチのつかみで成功した司会者が3分後に情けない終わり方をするのを何度も目撃してきたし、周囲が「おぉ」と驚嘆する出だしでカラオケを歌い始めた彼が次第に音程を狂わせ、耳をつんざくようにエンディングを迎えるのも珍しくない。一つの仕事も、大きな事業も、はたまた人生そのものも、そんなに都合よく始めよければ終りよしのように流れてくれるものではない。紆余曲折が常であり、始まりと終りに必然的なつながりを見出すのはむずかしいのである。


若手の経営者が画期的な発想でビジネスを成功させているという話をよく聞く。ちょうど今朝も、身支度しながらテレビの音声からそんな話が耳に入ってきた。正確に再現はできないが、どうやら廃業した店にほとんど手を加えずそのまま焼肉店として成功させているという話らしかった。壁や天井、店のインテリアなどに誰も関心はなく、うまい焼肉さえあれば客は文句は言わない。たしかに一理あるが、割烹やフランス料理になれば話は別だろう。食事には文化も人間もからむ。食べ放題が成り立つ焼肉の場合はともかく、一般論として起業家予備軍がこのオーナーの説を真に受けるのは危険である。

だいたいにおいて、成功美談は若き日の苦難と、そこから抜け出てビジネスを軌道に乗せるまでを取り上げる。とりわけマスコミはそのようにストーリーを組み立てる。芸人に関しては、落ちぶれてから「一発屋」なる概念でデビュー当時へと遡る。しかし考えてみれば、ほとんどの成功者はそもそも一発屋なのではないか。すべての業界には何がしかの登竜門があって、そこをクリアすること自体を一発屋的と形容することができる。小説家、芸術家、企業人、みんなそうである。千や万に一つの成功者が始まりでもてはやされる。にもかかわらず、よほどの著名人か有力企業でないかぎり、ぼくたちは彼らや組織の結末を知らされることはない。

点滴岩をも穿うがつような、地味だが着実な成功が珍しくなった。成功は一発的となり、自力だけではなく想定しえない外部環境も少なからず作用している。そのような、別名「強運」とも称される要因がいつまでも安定して続くことはありえないから、たとえば起業時点で成功した人間が終生うまくいく確率はきわめて小さい。二十代、三十代で華々しくビジネスを成功させた時代の寵児を、いかにも完成形の美談に仕立てて評価するのが性急すぎるのではないかと考える。

シェークスピアの戯曲からは、対照的に「終り悪ければすべて悪し」も咀嚼せねばならない。誰も長い眼で若き成功者を序章から最終章まで追跡し、顛末のことごとくをつまびらかにしていないではないか。始めよくて終りが惨憺たる、経営的に短命な人物を多く知っているぼくとしては、出発点のサクセスストーリーに憧れて若い人々が錯覚を起こしてしまうのは見るに忍びない。世の中は「始め悪ければ終り悪し」ばかりでもないし、「始めよければ終りよし」もめったにないことを肝に銘じるべきだろう。現在進行形の事象にいたずらに一喜一憂するのではなく、顛末を以て事例に学ぶ。そして、顛末は同時代からは学びがたく、歴史をひも解かねばならないはずである。

「無用の用」の逆襲

「無用の用」は気に入っている表現の一つ。有用だと思うものだけを残してその他の無用をすべて捨ててしまうと、残した有用なもの自体が意味を持たなくなってしまう。有用なものを生かすために諸々の無用があるわけだ。「有用=主役、無用=脇役」という位置取りだが、主役と脇役はいとも簡単に逆転してしまうことがある。たとえば鶏卵。ある料理では黄身が必要で白身は不要、別の料理では白身のみ有用で黄身はいらない。まあ、タマゴの場合は安価だし、黄身も白身もどっちみち使い道はあるから心配無用だが……。

蒲鉾は板に乗っかっていて、当然板から外して食べる。板なんぞ食べないから作る時点で無用だと言うなかれ。板にへばりついているから蒲鉾なのである。無用な穴をふさいで全体をすり身にしてみたら、たしかにずっしりと重みのある棒状の練り物ができるだろうが、それはもはや竹輪ではない。穴が貫通しているから竹輪なのである。レンコンしかり。そもそも穴がなければレンコンという根菜は存在しない。穴が無用だからどうしても埋めたいと思うのなら、からしレンコンにして食べてもらうしかない。

こんなことを言い出すとキリがないほど無用は氾濫しているし、それらの無用と神妙に向き合えば、存在したり発生したりしているかぎり、そこに有用を陰ながら支える用があることにも気づく。身近にあって、本来無用のものが有用として供されている代表格はオカラかもしれない。あるいは、日々の新聞と一緒にやってくるチラシの類。片面印刷のチラシは裏面をメモにできるという点で無用の用を果たしている。他方、内容にまったく興味のない、両面印刷されたチラシは役立たずか。そうともかぎらない。紙ヒコーキや折り紙になってくれるかもしれないし、何かを包むのに使われているかもしれない。


無用の用が価値ある有用を逆転していることさえある。すでに別のオーナーに代替わりして別の料理店になっているが、二年前まで肉料理を出していた鉄板焼きの店があった。夜に人が入らないので店じまいしたようだが、ランチタイムはそこそこ賑わっていた。正確な値段を覚えていないが、たぶんステーキ定食が1200円前後、切り落しの焼肉定食が800円前後だったと思う。いつ行っても、誰もが切り落しを注文するばかりで、ステーキを食べている人を見たことがない。ちなみに切り落しというのは、もともと演芸場や劇場の最前列の、大衆向けの安い席のことだった。舞台の一部を「切り落して」設けたのである。これが転じて「上等ではなくて半端なもの」を意味するようになった。

さて、ブロック状のロース肉の有用なステーキ部分以外の肉の端っこを切り落す。むろん本体よりも切り落しのほうが量は少ない。しかし、これだけ切り落しに注文が殺到すると、ステーキ用の上等な聖域をも侵さねばならない。そう、無用な切り落しでは足りないから、ステーキ部分を削ぎ落としてまで使うのである。切り落しが主役を脅かす結果、もはや主役に出番はない。ブロックの塊すべてが切り落される。有用あっての無用だったはずの切り落しが堂々たる有用の任を担っているではないか。

ものの端っことは何だろう。それは、いらないものか、美しくないものか、商品価値の低いものか。かつてはそうだったかもしれないが、食べてみれば同じ。切り落しが400円も安いのならそちらに触手は動く。ぼくなどとうの昔にカステラの切り落しに開眼した。濃厚な甘みを好むなら「辺境のカステラ」のほうが絶対の買いなのである。ぶっきらぼうに袋に放り込まれているくらい何ということはない。ところで、割れおかきというのもあるが、よく売れるからといって、わざと割っているわけではあるまい。いや、肉の切り落し同様に、無用の用が逆襲している可能性もあるだろうか。