学びの場、ジャパニーズスタイル

大阪市内にあって、自宅もオフィスも歴史にゆかりのある一角にある。もちろん立ち並ぶ建物はことごとく近代化しているのだが、大川には八軒家浜の船着場の跡があり、少し西へ行くと旧熊野街道が南北に通っている。大阪の由来となった「大坂」――文字通り、大きな坂――はオフィスのすぐそばだし、5分も歩けば大阪城の大手門にも到る。テナントとして入っているこのビルは、その昔両替商だったらしい。

ここから南の方へ少し下ると、坂のある路地が細く入り組んだ古い街並みが残っている。広い敷地の旧宅をそのまま生かしたギャラリーや蕎麦屋もある。長屋続きの町家も随所に点在していて昔を偲ばせる。仕事に役立つかどうかわからないが、そんな町家を一軒借りて、一見遠回りな講話をしたり対話をしたりする私塾を主宰してみたいとずっと考えてきた。これまた近くに残っている緒方洪庵の適塾が特徴とした輪講なども人間力鍛錬にはいいだろうなどと構想を練ってきた。しかし、なかなかいい物件が見つからず今に至っている。今年の私塾大阪講座は老舗のホテルでの開催になった。

ぼくの私塾を〈岡野塾〉と命名したのは京都の知人である。自分の姓を表看板にするほど実力も知名度もないが、言われるままにそうさせてもらった。以来数年が経ち、当初ほど違和感を抱いてはいない。かつての談論風発塾同様に、ぼくの私塾のイメージは「和風」を基底にしている。「まさか、冗談でしょ? 講座のテーマはほとんど洋風じゃないですか?」とチクリと言われそうだが、精神は根っから和風なのである。ついでなら、場も空気も和風にしたいと本気で考えている。


飲食しながら即興で知技と遊芸を競い合う、不定期の集まり〈知遊亭〉を近々開く運びになった。「ちゆてい」と読む。ぼくが席主となるが、入門に小難しい規定はない。「知遊亭○○」と号なり芸名を名乗り、毎回自前の飲食代だけ払ってもらえればよろしい。趣意書も出来上がっているが、定例開催の場所が決まらない。和の条件を満たす場探しにしばらく時間がかかるかもしれない。決まれば、本ブログ上で趣意書を公開して門下生を募りたい。なお、お題は当日来なければわからない。ぼくを感心させぼくから笑いを取るたびにポイントを加算して、知遊ランキングを上げていく。

ところで、研修や講演を和室でおこなった経験がないわけではない。傑作だったのは、洋風研修の最たるディベートを旅館の大広間で実施したことだ。主催者がディベートに不案内のまましつらえた結果だが、お座敷では京ことばや琴の音は似合っても、白熱の激論というわけにはいかなかった。なにしろ、座布団に座って向き合い、「エビデンスをお持ちですか?」などと問うのだから、力が入らない。旅館側のお節介な配慮によって、卓袱台には湯飲みと茶菓子まで置いてあった。講演するぼく自身も寄席の講談師のようであった。

研修所では小さな和室での少人数研修というケースも何度かあった。ご存知の通り、旅館のような和室には押入れがあり、その押入れの襖の柄が入室する扉の襖の模様と同じであったりする。研修担当者がそろりと襖を開け、会釈して入室し参観する。しばらくして、座ったまま静かに後ずさりし立ち上がって、音を立てぬよう襖を開ける。ところが、開けた襖の向こうには重ねられた布団! そう、出入の引き戸と押入れを間違えてしまうのだ。静寂が破れて大笑い。ジャパニーズスタイルの学びの場には、ハプニング性の滑稽と可笑しさが潜んでいる。それがまたたまらない。 

思考と指向と嗜好

時代を反映する〈思考の指向性〉について書こうと思っていたら、「思考」と「指向」が同音異義語であることに気づいた。ついでに、もう一つの同音異義語である「嗜好」も付け加えてみた。他意はないが、数分思い巡らしているうちに、これら三つがつながってくるような気がしてきた。なんだか問題を解くような気分である。

気まぐれに思考の指向性を考えたわけではない。今年は1995年に起こった二大惨事の回顧報道によく巡り合う。阪神淡路大震災とオウム真理教事件である。そこでぼく自身のノートを繰ってみた。同年316日から515日までの二ヵ月分のメモが一冊のノートに収まっている。そして、メモの半分はなんと危機管理に関するものだった。これらのメモが当時のぼくの思考の断片であるなら、思考が時代を色濃く反映していることが手に取るようにわかる。

ある一件が生じる。それを「事態」と呼んでおく。その事態は破局へと向かうかもしれない。それを予測して収拾・安定策を事前に講じようとするのが危機管理である。ぼくたちは危険と安全の岐路に立てば、おおむね安全を取るものである。問題は、危険と安全の分岐点にいるのかどうかがわかりづらいということだ。いま岐路と分岐点ということばを使ったが、左が危険、右が安全のように標識が立っているわけではない。リスク要因と安全要因は混在するし、リスクの大小判断も容易ではない。危険と思った選択が安全、安全と思った選択が危険というケースが多発するからこそ、危機管理術は一筋縄ではいかないのである。


ノートの話に戻る。オウム真理教についてのメモが多いが、ところどころで食に関する危機管理について書いている。ここで、タイトルの「嗜好」の出番である。

飽食の時代が満足しない舌・・・・・・という危機を招く。地下食堂街に行って驚いた。中華弁当セット、イクラとウニの海鮮丼、米沢のこんにゃくそば、同じく米沢牛のタンのスモーク、ちぎり天ぷら、洋風エビカツ、特製稲荷寿司店……。どれもうまそうに見えて、結果的に決め手を欠いている。グルメの本質には、本来「この一品」という主義があると思うが、あれもこれものグルメブームはやがて舌を麻痺させるだろう。結局、薄味が濃厚な味付けに敗北するのではないか。

次いで、ぼくが招かれた立食パーティーの話。実は、同会場で提供されたサーモンによる食中毒が翌日に明るみに出た。ケッパと玉ねぎのスライスをスモークサーモンで包み込んだのが大好物だが、幸いにしてぼくは口にしていなかった。そこで、こう書いている。

何でもかんでも危機管理できるわけではない。自分で作った料理の安全性を極めるすべはあるだろうが、ホテルの立食パーティーの食事には信頼性があると決めてかかっている。シェフは毒味係も兼ねているが、傷んだサーモンは彼の検証に引っ掛からなかったようである。

ふと先々週の金沢での食体験を思い出した。ホタルイカもぼくの好物で、現地でなければボイルせずに生で食すことはむずかしい。ホタルイカの刺身には寄生虫が稀に見つかるらしい。ごく小さなリスクだろうが、それを覚悟するならお店が出すと言う。隣りに座っていた初対面の男性は、自身ホタルイカを獲りに行くらしく、えらく詳しかった。「しっかり噛めば唾液の力で大丈夫」と請け合ったので、よく噛んで数匹食べた。食べた後に「運が悪いと胃に穴が開きます」と冗談まじりで話していたが、そんな程度でおびえはしない。この歳になれば、すべての嗜好には悦楽と危険が潜んでいることくらい重々承知している。

続きが思い出せない

自分からぷつんと集中の糸を切ってしまうこともある。集中には危なっかしいところがあるので、自動停止して浄化するようになっているような気がする。たとえば、これ以上集中的に考えるとちっぽけな頭がもたないような時、無意識のうちに集中をやめてしまうのだろう。オーバーヒートに対する自己冷却機能みたいなものだろうか。

しかし、経験を積んで集中力に筋金が入ってくると、集中の糸も丈夫になり、危険域までの緩衝ゾーンが広くなってくる。つまり、集中力が強く深く続くようになる。裏返せば、集中を浅い段階でしょっちゅう途切れさせていると、弱々しくて甘くなってくるわけだ。休めすぎてはいけないのである。小中学校の時間割の一時限は45分だが、これに慣れてしまうと「45分脳」になる。実社会の仕事や生活はもっと長時間の集中を求めるので、一時間にも満たない集中脳ではなかなかやっていけない。

さて、集中が途切れるのは、自発的沈静作用だけによらない。おおむね電話と他人が土足で入ってきて、せっかくの集中時間を遠慮なく踏みにじってくれる。電話は遠隔の人と交信する装置でもあるが、人の都合を推し量ることなく、ふいに邪魔をしてくる機械でもある。さらに厄介なのが、同じ職場で働く上司、同僚、部下たちだろう。二人三脚やチームワークを組む一方で、彼らはお互いの集中を乱し足を引っ張り合う。


ノートに書きかけのページがある。「歩くこと(1)」という見出しをつけて、途中まで書いてある。そして、この途中までしか書いていないメモを元にして散歩に関するブログもすでに書いている。しかし、そのブログのタイトルにはノートのような(1)なる番号は付いていない。実は、ぼくが集中してノートを書いている時に邪魔が入ったのである。その時、間違いなくぼくは「シリーズ発想」していた。そうでなければ、何の根拠もなく(1)などとは書かない。きっと(2)も(3)も(4)も構想したうえで書き始めたのだ。しかし、さっぱり思い起こせないのである。途切れた集中の損失は大きい。しかも、誰もその損失を補填してくれはしない。

ところで、なぜ(2)も(3)も(4)もと言い切れるのか。ぼくの性格からすると、2回に分けて書くときには(上) (下)、3回なら(上) (中) (下)とするからである。(1)としたからには、おそらく4回以上あれこれと考えていたに違いないのである。いや、ちょっと待てよ。そこまでの確証がほんとにあるのか。上下の2回だと分かっていても、敢えて「○○○」と「続○○○」ということもあるではないか。あるいは、「歩くこと」なら複数ページにわたって書けると目算して、たまたま(1)と書いただけではないのか。

こんなことを思っているうちに、ふと團伊玖磨の有名なエッセイの題名を思い出した。第1巻から第27巻までは次のように命名されている。

パイプのけむり、続パイプのけむり、続々パイプのけむり、又パイプのけむり、又々パイプのけむり、まだパイプのけむり、まだまだパイプのけむり、も一つパイプのけむり、なおパイプのけむり、なおなおパイプのけむり、重ねてパイプのけむり、重ね重ねパイプのけむり、なおかつパイプのけむり、またしてもパイプのけむり、さてパイプのけむり、さてさてパイプのけむり、ひねもすパイプのけむり、よもすがらパイプのけむり、明けてもパイプのけむり、暮れてもパイプのけむり、晴れてもパイプのけむり、降ってもパイプのけむり、さわやかパイプのけむり、じわじわパイプのけむり、どっこいパイプのけむり、しっとりパイプのけむり、さよならパイプのけむり。

最後の巻『さよならパイプのけむり』が発行されて数ヵ月後に著者は没した。「さよなら」に意味があったのか、単に筆を置こうとした偶然なのかわからない。ちなみにぼくは最初の2巻だけ読んだ記憶がある。タイトルの付け方に行き当たりばったりもあっただろうし、次も考えたうえでのたくらみもあっただろう。本文を読まずとも、題名だけでいろんな想像が掻き立てられて愉快である。

ゆめゆめ手を抜くことなかれ

昨日のタイトルが『もはや手に負えない』で、今日が「手を抜かない」。語呂合わせを企んだわけではない。たまたま二日続きで「手」がひょいと出ただけである。

人間を分類する基準にはいろいろある。血液型は4タイプに分けるし、干支は12タイプに分ける。男女に分けるなら2タイプ、老若男女だと4タイプ。正確を期すれば、後者は老若と男女をクロスして4タイプになる。つまり、男・老、女・老、男・若、女・若。「男」のみや「若い」のみでは、あまり分類効果は感じられない。「犯人は男」や「犯人は若い」では捜しにくいだろう。もっと項目が欲しいところだ。「犯人は若い男でメガネをかけ、黒いTシャツを着ていた」という、より細かな分類、すなわちより具体的な描写をするほうが逮捕の手掛かりになりやすい。

最近、モノローグ派とダイアローグ派に分けて人間観察している。モノローグ派とは相手を意識せずに独白するタイプで、社交ダンスのように歩調を合わせるように会話をしない人のことだ。モノローグ派二人が会話をしているのを傍らで聞いていると、片方が一方通行でひとしきり喋り、続いて相手が同じように喋る。交替に話してはいるのだが、さほど交叉することなく、フラットに流れていく。他方、対話を得意とするダイアローグ派は、たとえ話し手と聞き手の役割があるように見えても、問いや相槌も含めてよく交叉する。複雑にり組み、よく接合し、話に凹凸感が漲る。言をよく尽くすので、交わされる情報量も圧倒的にモノローグ派よりも多い。


ダイアローグ派は「この間、あの店へ行ったら、多忙にかこつけてサービスがおろそかになっていた。お勘定する時に詫びもしなかった。しばらくあの店に行くのはごめんだね」というふうに話す。これがモノローグ派になると、下線部を独白――内へ向かっての無言のつぶやき――で済まし、結論部分の「しばらくあの店に行くのはごめんだね」だけを発話する。唐突もはなはだしいが、本人は下線部も発話したつもりになっているのである。ダイアローグ派は棘のある言を発し、時には毒舌で相手を傷つけ、モノローグ派は独りよがりな話法に終始し、ことば足らずで誤解を招く。

いずれもパーフェクトではない。しかし、手を抜いたように見られるモノローグ派よりも手を抜かないダイアローグ派をぼくは優位に見立てたい。

そもそも、一般常識から考えても当たり前の意見である。事はことばの発しようだけに止まらない。手を抜いていいことなどめったにないのである。あることを貫徹するには、必要欠くべからざる最少工程をこなす。一工程を飛ばしてしまうと完結しないし、仮に手順前後してもよい場合でも、いずれ手を抜いた工程をどこかで穴埋めしなければならない。手を抜いたツケを仕事も人も見逃してくれはしないのだ。

まずまず気に入っている居酒屋がオフィス近くにある。ここ二ヵ月ほどの間に、昼も夜もそれぞれ三、四回利用している。ある日、ランチに行って、日替わり弁当を注文した。酢豚に魚フライ、野菜と味噌汁、それにご飯である。不満なく食べ終わった。夕方に来客があるので、席を予約して店を出た。(……)夕刻。予約の時間に店に行き、焼酎の水割りを頼む。最初に出てきた付き出しは、なんとお昼に食べたのと同じ魚フライだった。ランチの残り物か、同じものを付き出し用に今しがた用意したのか。明らかに前者であった。

その店に二度と行かないぞなどと頑固を決めこんではいない。なにしろオーナーとも親しくなったし、とてもいい人なのだ。料理にも趣向を凝らしているから一応の評価を下している。しかし、一品料理同様に一工夫すべきだろう。いや、ランチのおかずを夜の宴席の付き出しに回すような、拙い手抜きをしてはいけない。しばらく間を空けてから行き、誠実にぼくの意見を述べようと思う。ぼくの誠実とは、はっきりと非を指摘することにほかならない。  

もはや手に負えない

耳を疑った。新型のスマートフォンでソフトが2万種類もダウンロードできるというのである。もっとすごいのは、一番よく売れているタイプなら18万種類に達するという。使いこなせばすごいことになると喧伝される。たしかに使いこなせばすごいことになるだろう。

昨日『招かれざるバージョンアップ』について書いた。ぼくたちの手に負えないほどソフトや製品が進化し続けている。実際に日々使いこなす機能はおおむね基本的なものに限られていて、十中八九そうした機能だけでも十分に便宜を受けることができる。だが、高機能・多機能が描き出す夢の世界はどんどん膨らむ。ところが、その世界をじっくりとクローズアップして見えてくるのは、ソフトが主役の生活やビジネスシーンであって、ぼくの目にはそれを使っている人間がなかなか見えてこない。たぶんぼくの居場所が最先端ソフトと無縁であるからなのだろう。

現実となりつつあるこの未来光景は、何かに酷似している。そう、すでに1980年代にぼくたちを手招きしたオフィスオートメーション時代の予兆にそっくりなのである。当時、創造的な仕事を手に入れたはずのぼくたちにはかつてない効率性と余暇時間が約束された。スピード、短縮、高性能などの威勢のよいキーワードが飛び交い、整然としたペーパーレスオフィスが描き出された。それから30年、さらに進化したIT環境に置かれているはずのぼくたちは、依然として同じ時間働いているし、休暇の取り方は下手だし、小さな機器に向かってキーボードを叩きながらせっせと書類をプリントアウトしている。


伝書鳩と携帯電話には画然とした違いがあるだろう。その違いは馬車と自動車以上の相貌差異に思える。しかし、正直なところ、ぼくの使っているPCと携帯はぼくの期待以上にすでに十分に多機能かつ高機能なのである。いや、事はソフトだけの話ではない。どんなに情報が膨大しても、ぼくには一日24時間しかないのだ。毎朝一紙にざっと目を通すだけでも半時間を要し、ネット上には何万年生きても追いつかないほどの情報が溢れている。

音楽CD600枚ほど所有している。すべてのCDを再生してはいるが、過去何十年もかけて買い集め、そのつど聴いてきた結果である。今からこれらすべてのCDを再聴するとなると、一日一枚の調子で楽しんでも二年近くかかる勘定である。蔵書になると、おびただしい冊数を廃棄したが、それでもなおオフィスと自宅に2500冊ずつ所蔵している。絶対に不可能なペースだが、仮に一日に一冊再読しても15年近くかかってしまう。もちろん、ぼくは三度食事をするし、誰かと会って対話もするし、出張にも出掛け、オフィスで仕事もせねばならない。できれば7時間は眠りたいし、他にもしたいことが山ほどある。地デジもBSもケーブルテレビもおびただしいチャンネルと、休むことなく番組を提供してくれているが、週に三つ四つの番組を視聴するのがやっとだ。

アナログ書籍から電子ブックになっても、ポータビリティ以外の事情は変わらないだろう。繰り返すが、ぼくたちの生は有限であり、一年は365日なのであり、一日は24時間なのである。どんなに多機能・高機能になっても、自分へのインプット・記憶にはアナログ的過程を経なければならない。電子ブックと脳を直接ケーブルでつないでダウンロードできるのならばともかく、媒体が何であれ読まねばならない。デジタル化しても見なければならないし、アナログ処理しなければならない。

多品種大量ソフトの時代になっても、ぼくたちに便宜をはかってくれるのはわずか一握り分のソフトにすぎない。便利な知へのアクセスと己の知のサクセスをゆめゆめ混同してはならないのだろう。 

招かれざるバージョンアップ

バージョンアップの恩恵にいろいろと浴してきたから、ことさらその便宜に意見するのを少々はばかってしまう。コンピュータソフトの改訂を重ねる意に用いたのがバージョンアップの始まりだが、今では広くどんなことにも使われる。ぼくの場合、テキストや講座のバージョンアップという使い方をする。「あの店はランチをバージョンアップしたね」などと時たま耳にする。言うまでもなく、改訂、つまり改め直すのはよい方向への変革である。ランチのバージョンアップと言う時、それはうまくなったか分量が増えたかのどちらかを意味する。

いかにも英語らしく響くが、「バージョンアップ」という語は、固有名詞化したものはいざ知らず、英語にはない和製語である。一般的な英語表現は「アップグレード(upgrade)」である。それにしても、バージョンアップということばは、何かしらよりよいものに変わっていきそうな予感を秘めている。どこの誰が太鼓判を押したのか知らないが、そこはかとなく権威の雰囲気を醸し出している。このことばのマジカル効果はなかなかのものである。

IT関連の知人友人もいて話をいろいろと聞くが、どちらかと言えば、ぼくは最新ソフト情報には疎い。それでも、仕事柄、現状機能はそれなりに使いこなしている。講師業を営んでから二十年以上になるが、当初は手書きのレジュメを配付していた。次いでOHPの時代に入り、ワープロ専用機でテキストを編集し、OHPシートでも活字を使うようになった。およそ十年ほど前から研修施設内にもPC用のプロジェクターが設置されるようになり、半数以上の講師は徐々にパワーポイントによるプレゼンテーションをおこなうようになった。ぼくはしばらく様子を見ていて、ギリギリまでOHPを使っていた。OHPをパワーポイントに切り替えるのに少し手間取ったが、6年くらい前からパワーポイントで講義している。


ところが、研修施設の受講生が実習で使うPCにはバージョン2007が搭載されている。講義では持参のノートパソコンを使うから問題はない。しかし、研修指導するときに、受講生が使っているパワーポイントをうまく扱えないのである。使い慣れた機能に辿り着くための「入口」がだいぶ違っていて、即座に見つからない。ちなみに、キャリアが浅い割には、ぼくのパワーポイント技術を若い受講生たちが認めてくれている。受講生にはパワーポイント経験のない人たちが半数以上いて、発表の助言やサポートをするのだが、その時に2007で速やかに指導してあげることができないのである。

おそらくあと何年かの現役生活をぼくは2003で凌いでいきそうな気がしている。一念発起して奮い立てば新しいソフトに挑戦できるとは思うが、仕事が遅々として進まない状況に妥協できるかどうか。携帯電話についても同じことが言える。スマートフォンなどの新しい機器には好奇心があるほうなのだが、この齢にしてあまり新しいものへの志向性が強いのも困りものなのだ。新ソフトとぼくが慣れ親しんでいる旧ソフトとの間にややこしくない互換性があるかぎり、ソフト保守主義を貫こうと覚悟を決めている。 

ふと、この道はいつか来た道ではないかと考える。自由に温度設定してカスタマイズできる冷蔵庫のフリールームを使っていない。洗濯機の乾燥機能はここのところ稼動していない。携帯電話もテレビもハードディスクも大半の機能を活用していない。新機能や高機能が謳われるたびにぼくたちは心惹かれて手に入れるのだが、おそらく大半の消費者は必要最低限の機能を使うに止まっている。どんなにときめくバージョンアップ機能であれ、一日24時間で使えるものには限度があるのだ。

さらにふと想い起こす。良かれと思ってテキストや講義内容をバージョンアップしたら、主催者側から文句を言われたことがある。同年度に同一研修希望者が多い時は、たとえば7月と12月などの二回にグループを分けて実施する。7月に実施して振り返り、わかりにくそうだったことを改め新しい事例に差し替えたりする。12月に実施する研修では20パーセント程度バージョンアップしていたりする。「受講内容が変わると均一教育にならないから、勝手に変えてもらっては困る」というわけだ。

「昨年のものをバージョンアップしようと思っているのだが……」と申し出ても、「昨年と同じで結構」と返されるケースが二回に一回。先方にも三年計画などがあって、同一テーマ、同一研修、同一内容などの趣旨がある。バージョンアップがいつでもどこでも歓迎されるわけではないのである。

その人はどんな人?

なぞなぞ風に考えていただこう。

「その人はゆっくり喋る。時には寡黙を決め込む。決して慌てず、急がない。そう、マイペースを保つ。仕事を欲張って抱え込まない。仕事が増えてくると断ることさえある。場合によっては、自分の仕事を同僚や部下に回してあげる。休暇をきっちりと取る。趣味の時間をたっぷり取る。さらに、ここまで挙げたことと打って変わるようだが、その人はお任せ的な生き方・働き方が好きで、自ら意思決定をすることはめったにない」

さあ、どんな人なんだろうか? 十数年前にぼくは複数の人々をよく観察し、その人たちに共通する特性を以上のように絞り込んだのである。一体どんな人なのか? 答えは「ストレスの溜まらない人」である。えっ? と思った方がいるかもしれない。ストレスを溜め込まない人には、明朗でアバウトで嫌なことをすぐに忘れて……などのイメージがつきまとうようだが、それは誤った通念である。にわかに信じがたいなら、試みに上記の段落の個々の文章を打ち消し文にするか、表現を対義語に変換すればいい。「その人は早口で喋る。いつも慌てていて、急いでいる……」というように。そこに描き出される人物が「ストレスを溜めてしまうタイプ」であることが明らかになるだろう。


「彼は強烈なリーダーシップを発揮する。仕事も趣味も愛し、いつも元気に高笑いしている。わがままで好き放題に生きているわりには、人から信頼されていて、いつも取り巻きに愛されている」。一見すると豪傑タイプに見えるこの彼が、実は神経質でストレスに苦しんでいたりする。逆に、気が小さくてナイーブ、人の顔色ばかり見ておどおどしているようなタイプが、ストレスにはまったく動じていなかったりする。人とストレスの関係は不可思議である。

ストレスの心理や科学についてはまったく不案内である。ぼくのストレス観は、英和辞典の意味に忠実で、「圧力、抑圧、緊張」。仕事や人間などの対象から解放されているとき、人は圧力、抑圧、緊張を軽減することができる。但し、対象の中には内なる完璧主義や理念のようなものがあって、これらがストレス要因になったりすることもある。脱ストレス的生き方をしようとすれば、対象へのこだわりを少なくし、対象を軽く流すことが不可欠になる。これが冒頭で描写した生き方に通じてくるのだ。

対人関係におけるストレス。人間が二人以上集まり、そこに一人とは異なる関係が生まれる時、何らかのストレスが生まれる。ストレス量が10で、二人が5ずつ分け合えばまずまずだろう。実際は、ストレスの溜まり具合は偏る。だから自分が楽なときは相手がしんどいのだろうとおもんぱかってみる。だいたいにおいて、ストレスを溜めない人間がいれば、その周りの人間にストレスが溜まっているものである。最悪は、本来のストレス量が両者に分散されず、それどころか、それぞれが倍のストレスを受け取ってしまうケース。こうなると関係修復はむずかしい。  

カフェの話(7) 思い出

イタリア語でエスプレッソを注文するとき、最初の頃は「カッフェ・エスプレッソ」とていねいに言っていた。しばらくして「カッフェ」でいいことがわかった。バールに入って立ち飲みするときは、入口近くのレジで「ウン・カッフェ」(エスプレッソ一杯)と告げてお金を払い、レシートをもらう。そのレシートをカウンターに置いて示せば、バリスタが手早くエスプレッソを作って差し出す。次いで、レシートの端をつまんで指先で少し破る。サーブ済みという印である。

バジリカータ州マテーラ近くのバールでアイスコーヒーを頼んだ。「カッフェ・フレッド」と言う。フレッドというのは冷たい・寒いという意味だから、誰だって「氷の入ったよく冷えたエスプレッソ」のつもりになる。このときばかりは、あまりよく知らないものを不注意に注文すべきではないことを悟った。そのコーヒーは「冷めたコーヒー」に近いアイスコーヒーだった。いや、アイスは入っていないから、どちらかと言うと、生ぬるいコーヒー。アイスコーヒーは日本人が一番よく飲み、そして日本のものが一番うまいのだろう。

プーリア州はレッチェのバール。ここで初めて「エスプレッシーノ」なるものを客が注文するのを耳にした。手元の伊和辞典には載っていない。バリスタに「エスプレッシーノはどんなものか? 」と聞けば、頃合いよく別の客が注文したので、出来上がりを客に出す前に見せてくれた。小ぶりな透明のグラスに入ったカプチーノのようであった。翌日飲んでやろうと思っていたが、ころっと忘れて別の店でエスプレッソを飲んでしまっていた。

カウンターで立ち飲みするときはコーヒーのみが目的。テーブルに座るときは観察、ぼんやり、考えごと、読書、次の旅の計画……。座って飲むときは、レジで先払いせずにテーブルに就く。席料とチップを含めて倍額または倍額プラスアルファになるが、立ち飲みの元値が安いので、一杯300円どまりである。コーヒーの味が重要であることは言うまでもないが、旅のカフェには思い出がついてくる。味を忘れても、その時々の場面や考えていたことはよく覚えているものである。 《カフェの話 完》 

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カウンターだが、椅子に座れるバール。半分ほど歩道にはみ出している。ヴェネツィアでは猫が手厚くもてなされている(リド島)。
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水際のカフェテラスもヴェネツィア名物。水の濃い青と空の晴朗感ある青に癒される。
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小奇麗なホテル内のバール(ボローニャ)。夜のバータイムはともかく、昼間は宿泊客はほとんど外に出るから、暇そうである。バリスタと会話をするには絶好だ。
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ボローニャのマッジョーレ広場に面するポデスタ館。一階がカフェテラス。ここに長く座り込んで向かいの市庁舎のスケッチをしていた(20043月)。

パラグラフ感覚

親しい知人が助言してくれた。「岡野さんのブログを読んでいます。内容はむずかしいですが、とても啓発されます。ただ、もっと改行して行間をたくさん空けられたほうが読みやすくなっていいと思うのですが……」

余計なお世話だと言い放つほど自分のスタイルを過信していないので、ありがたく拝聴した。もちろん愛読にも感謝した。ただ行間を空けたり頻繁に改行したりするほうがいい文章とそうでない文章があり、あるいはそうしたほうがいいテーマとそうでないテーマとがある。ぼくは当該段落で言いたいことを言い終えるまでは改行しないようにしている。ちょっと長くなったなあ、そろそろ改行して新しい段落にするか、などとは考えないのである。やれやれ、こんなふうに記事体裁に関する助言があったこと、そしてその助言について考えたことをあれこれと書いているうちに、この段落はすでに10行の長さに達しようとしている。この段落だけで、四百字詰め原稿用紙一枚に相当しているだろう。

行間を空けるとは段落パラグラフを増やすということだ。しかも、段落のブロックが重くならぬよう文章を少なめにするということでもある。このような助言をありがたく拝聴しておいたと言いながら、まるで逆らうように書いているのを反省する。しかし、反省することと変革することは別物だ。長年親しんできた自分のパラグラフ感覚をある日突然変えることはできそうもない。いや、このようなテーマについて書かなければ、ぼくだってどんどん改行し、一段落23行のブロックで見た目にやさしくすることもできる。実際、話題を雑記風に書くぼくのノートはそんなふうになっている。そのように書けば、たしかに読みやすそうには見える。しかし、文章が間断することがしばしばで、流れは悪い。要するに、目に訴える見た目の「快読感」と脳に訴える内容の「可読性」は違うのである。


そもそも段落は文章全体のテーマに従って構成されるものである。テーマが段落に小分けされて落とし込まれ、さらに個々の段落で長短さまざまな文章に分解される。理屈はそうだが、この説明はあまり現実的ではない。実際は、個々の文章を書いていくうちに、ひとかたまりの段落ができ、それがテーマの一断面についてのメッセージとなり、最終的にはすべての段落を通じてテーマの軸が一本通ってくるのである。

日本語の文章しか書かなかった20代半ばまではアバウトなパラグラフ感覚しか持ち合わせていなかった。前後して英語教育に携わり、その後海外広報の仕事に就くようになってから、英文を書く機会が一気に増えた。A4判シート30ページくらいの英文を一日で書いたこともある。その折に、ぼくは英語のスタイルブック(通称”シカゴマニュアル”なるもの)を中心に文章作法を徹底的に独学した。以来、日本語を書くときにもその習性を引きずっている。先にも書いたが、気まぐれに改行するのではなく、段落内の論理的帰結や内容の可読性を、見た目の体裁よりも優先させようとする習性である。うまくいっているかどうかは読者の判断に任せるしかないが……。

英文を書いていた時代の同僚にカリフォルニア州出身のアメリカ人がいた。その彼とパラグラフ感覚について話をしたことがある。「テーマに沿って書く。何行か書いて、気が向けば改行する。一行だけ書いて次の文章が浮かばなければ新しい段落を起こす。ただそれだけ。深呼吸したいときにも改行するね」と、彼は言ってのけた。彼には文才があった。正確に言うと、一行単位で読むと輝きを放つ瞬発力のある文才。だが、論理を追いかけるスタミナには決定的に欠けていた。この彼の、言わばスプリンター的文章作法を反面教師とした。これも、ご覧のような段落構成になっている理由の一つである。

正しいとか間違いとかの話ではない。書き手のスタイルである。スタイルだから、全文章を改行する「一文一段落」で書くハウツーライターもいれば、ぼくの段落のひとかたまりが可愛く見えてくるほど長い段落を諄々と書き綴る著者もいる。最近目を通した本では『啓蒙の弁証法』(ホルクハイマー、アドルノ著)のパラグラフが窒息しそうなほど長かった。段落が23ページにわたるのは当たり前、随所に56ページに及ぶ箇所もあるからたまげる。何よりも論理思考のスタミナに驚嘆してしまう。  

小なるものへの回帰

このブログではカフェの話を雑文で綴っていて、少し前に岡倉天心の『茶の本』に触れた。原著は明治時代に英文で書かれている。初めて読んだとき、茶とワインとコーヒーとココアの差異的描写がえらく気に入った。同書には、よく知られた別の名言がある

「おのれに存する偉大なるものの小を感ずることのできない人は、他人に存する小なるものの偉大をみのがしがちである」

自分はこれができる、あれもやってきた、そして他人がすごいと褒めてくれもする。しかし、たとえすごくて偉大であるように思えても、たかが知れている、そんなものはまだまだ小さいことなのだ。こんなふうに自覚できない者は、他人に対して逆のことが見えない。つまり、あいつは大したことはなく、やっていることも小さいことばかりだと表層だけで評価して、深層に潜むすごいところに気づかない。自分の過大評価、他人の過小評価。人はともすれば不遜な自惚れに酔いしれる。困ったものだ。

これとは逆のコンプレックスを人は持ち合わせる。「隣りの芝は青い」がその典型を言い表している。「他人のものは何でもよく見えてしまうこと」の喩えだが、これも別の意味で理解不足、事実誤認にして、彼我の状況や現象を見抜けていないことが多い。絵を描いたら先生に褒められ、「もしかしてぼくはピカソになれるかも」と思った。この例などとても教訓的だ。「バカも休み休みに言え。お前がピカソになれるはずがない」と自惚れの芽を摘むか、「小さなお前の中には潜在的ピカソがいる」と持ち上げて育てるか―微妙である。「小さなドングリの実にはバーチャルな樫の木がある」という考え方、教え方をぼくは好む。


偉大と思えたものが実は小さくて、取るに足らないほどちっぽけに見えたものが実はすごかったという思いや体験は身に覚えがあるだろう。大なるものを追いかけたが、そのお粗末さにがっかり。ちなみにわが国にはがっかり名所なるものがあるそうで、高知のはりまや橋、札幌の時計台などが上位にランクされている。落胆も感動も人それぞれだから一概に決めつけることはできないが、「名物にうまいものなし」はある程度正しく、ブランドや評判によって鑑定眼は曇ってしまうものだ。

「小なるものに大なるもの」を見いだしたときの喜びは格別である。いつぞやテレビでミニチュアの農機具や工具を作る鍛冶屋を紹介していた。いや、その番組だけではない。世間には小なるものに飽くなき視線を向ける情熱の系譜がある。ぼくはあのミニチュア工芸品を見て、その達人の、超のつく技に度肝を抜かれた。ピラミッドや万里の長城に匹敵する構想とエネルギーとテクノロジーではないかと感嘆しきりだった。

小なるものは来るべき時代の生き方を暗示している。小さな仕事、雑用、ちょっとした会話、ひいては腹八分目や資源節約など。何でもかんでも規模を拡大して破綻しては、結局縮減して小さく生きることの知恵を取り戻す。うまく機能し始めると調子に乗って、またぞろ貪欲に火をつけて大なるものへと指向してしまう。大都市、大組織、大事業……そんなにいいものなのだろうか。煽り立てられさえすれば、能力に疑問のつく人間だってその方面に向かうだろう。小なるものの見直しには知恵と賢慮を要する。「大きいことはいいことだ」はもう終っているはずなのである。