イチジクのノスタルジア

青果店でイチジクを見かけた。初物だったので、桃に比べて高値感が強く、渋々見送った。もうしばらくすると1キロ1,7002,000円で取引されるらしい。一つ平均60グラムなので、100120円見当ということになる。単純比較はできないが、200円の桃と100円のイチジクなら前者を選ぶ人が多くなるに違いない。

各種ドライフルーツを袋に詰め放題というコーナーがデパートの一角に出ることがある。イチジクとイチゴばかり詰めている人がいる。お得感があるのだろう。売られている乾燥イチジクのほとんどがトルコ産。トルコは生産量世界一を誇る。生食には向かないが、乾燥させたものはワインのつまみに合う。

もぎたての無花果いちじく甘し他所よその庭  粋眼

買わずに他家のものを黙って拝借するとうまさが増す。子どもがイチジクを盗んで補導されたなどという話は聞いたことがない。警察にイチジク事件簿はたぶんなかった。しかし、この一年、ハクビシンがイチジクを食い荒らし、新潟では人間がイチジクの盗みをはたらき、つい最近ではイチジクの木50本が収穫直前にへし折られた事件が報道された。


小学2年の夏、大阪の古い下町からわずか3.5キロメートル離れた別の下町に引っ越した。引っ越し先にはまだ田畑が残っており、耕作しなくなった土地が少しずつ住宅地として整備され始めていた。新築の家のすぐ隣りは田んぼで、ザリガニやタニシが棲息し、トンボもチョウも普通に飛んでいた。田んぼには水路があり、そこにイチジクの木が何本も植わっていたのである。

外で遊ぶとお腹が空く。暑い季節にはイチジクをもぎって食べた。イチジクの木は田んぼの所有者か誰かが昔に植えたのだろうが、イチジクの盗み食いをしても誰にも咎められなかった。理科好きならイチジクはどんな果実でなぜここにるのかと一考したかもしれないが、ぼくにはイチジクが甘くてうまいという単純な感覚以外に何も芽生えなかった。

イチジクはそのまま食べてもいいが、生ハムとメロンの組み合わせのように、何かと組み合わせるとそれもまた乙な味になる。煮たり焼いたりする肉料理にも合う。食材への尋常ならぬぼくの好奇心はイチジクにまつわるエピソードと無関係ではない。イチジクが桃に勝つのは難しいが、少なくともノスタルジア世界ではイチジクに一日の長がある。

「並」が「上」に化ける

ネットでチェックできることは知っていたが、実際にやってみた人から直接聞く機会があった。「中国産の一尾千円程度の鰻をうまいうな丼に仕上げる」というテーマである。料理好きのその人は「数種類のやり方があるので試行錯誤は必要」と言う。やってみた。

鰻に取り掛かる前に、たれをあらかじめ用意しておく。レトルトパックにたれが付いていてもそれを使わず、自前でたれを作る。1人前なら、醤油とみりんをそれぞれ大さじ2、酒と砂糖をそれぞれ大さじ1。これをすべて煮詰めて冷ましておく。

調理開始。スーパーで売っているレトルトパックの中国産鰻一尾を、そのまま、または半分くらいに切る。そして、うな丼グレードアップ作戦の、最初にして最重要の信じがたい作業に取り掛かる。身が崩れないように「洗う」のである。言い換えよう。あらかじめたれで蒲焼きされた鰻の、そのたれをきれいに落としてしまうのだ。

洗って濡れた鰻の水気みずけをキッチンペーパーに吸わせるように拭き取る。力を入れると身が崩れてほぐれてしまうから、丁寧に扱う。安い材料だからこそ余計に慎重に扱うべきである。たれがクレンジングされてスッピンになった鰻。これをフライパンに乗せる。酒少々と水で身が浸るようにし、弱火と中火の間の火加減で煮る。3分からせいぜい5分以内。

フライパンから鰻を取り出す。ふっくら感が出ているはず。フライパンを軽く洗い、アルミホイルを敷く。鰻の身を表にして並べ弱火にかける。先に作っておいたたれを刷毛でぬり、裏返して皮のほうにもぬる。濃い味が好みなら何度か繰り返してもいい。

丼にご飯を盛り、鰻を乗せて最後にたれをかけて仕上げる。好みで山椒をかけるが、けちらずに少しいいのを振りかけたい。普通にそのまま食べれば「並」または「並以下」だったはずの鰻が、「上」または松竹梅の「竹」クラスのうな丼に化ける。それがこれだ。

フライパンを使わずに、水気を切った鰻を酒に浸してラップしてレンジで加熱という方法もあるらしいが、まだ試していない。ともあれ、千円が2.5倍の値打ちに変わった気がする。しかし、元の中国産の「地力の差」もあるだろうから、味の安定感は保証しかねる。

10日間の習慣見直し実験

去る85日にブログを書いて以来、今日までの10日間PCに触れなかった。盆休みを挟むこともあって急ぎの仕事がなく、PC作業が不要不急だったからだ。そうだ、ついでにスマホとも距離を置いてみよう、と思った。1990年代前半まで当たり前だった日常のスタイルが復活した。

現代人はスマホに触れないと手持ちぶさたになる。それが証拠にメトロの車内では乗客の8割がスマホを操っている。「要」にして「急」な様子も雰囲気もうかがえない。暇を持て余すのは、何かすべきことが決まっていないからである。暇とは「しなければならないことがない状態」にほかならない。

3日に一度iPadでメールだけチェックしたが、すべて不要不急。このように脱デジタルすると、必然SNS上の親しい人たちの投稿もチェックしない。ほとんどの情報は不要不急の類ということになるが、不要不急が悪いわけではない。触れなくても困らないというだけのことだ。ともあれ、メールもSNSも一切受発信せずに今日に至り、いま11日ぶりにブログを書いている。


数年前に比べてSNS上では発信機会に比べて受信機会が減っているような気がする。つまり、投稿はするが他人のはあまり読まない。マメにコメントしていたが、今は義理の「いいね」で済ます向きが増えている。外部と情報が隔絶されても困ることがほとんどなく、要にして急なことはテレビで間に合う。テレビはスマホの小さな画面よりはよほど見やすい。

暇にあかしてスマホをいじるよりも、かけがえのない時間の過ごし方があるのではないか。見ようと思わないのについ見てしまうスマホの電源をしばしオフにして、読もうと思いながら読めていない本を読むことにした。何冊も読んでいると、いま考えていることと呼応する一節に出合うものである。たとえば次の一冊。

(……)彼はたまたま自分の内部に溜まった一連の決まり文句、偏見、観念の切れっ端、あるいは意味のない語彙を後生大事に神棚に祀ったあと、天真爛漫としか説明しようのない大胆さをもってそれらを相手かまわず押しつけている。(オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』)

90年も前に書かれた文章である。現在のSNS上の現象を言い当てているかのよう。同一の投稿者がよく似た投稿を繰り返す。そのことの好き嫌いや是非は人それぞれだが、スマホを触ると目に入ってくる。日記もそうだが、毎日書いているとよく似たことばかり書くようになる。マンネリズムは必ずしも忌むべきものではないが、マンネリズムというものは、自分よりも他人の方が先に感知する。

SNS同様、このブログもそうだが、この先も生き残らせて日々の楽しみや慰みとするためには、あの手この手を繰り出すしかなさそうだ。ちょっとした習慣見直し実験をしたわけだが、いろいろと気づかされた10日間だった。

抜き書き録〈2022/08号〉

都道府県別と全国合計のコロナ感染者全数把握。いつまで発表し続けるのか。ゼロになるまで? まさか。さてどうするか? 次の文章にヒントがあるような気がする。

数字は明らかに抽象であって、自分の目で確認した「事実」ではない。つまり意識の変形である。コロナによる本日の死者何名。この目線はいわば神様目線である。「上から」目線と言ってもいい。(養老孟司『ヒトの壁』)

なるほど。だから、「数字なんかいらない」と言うと神様に逆らっているようで言いづらいのか。しかし、神様の言うこともあてにならないことが多いのだ。


あまり手にしない類の本だが、手にしたのも何かの縁。アンディ・ウォーホルの『とらわれない言葉』は彼のアフォリズム集。一気に読んだ。

忙しくしていること。人生で一番素晴らしいのはそれだ。

退屈なことが好きなんだ。

別々のページで全然違うことを書いている。いったいどっち? と問うまでもなく、すぐに別のページの次の一文で納得させられる。

僕はこの世界に魅せられているんだ。

世界に魅せられているなら、多忙でも退屈でもどっちでもいい。すべての矛盾や意見の相違を飲み込んでしまえるいい言葉だ。応用できる。たとえば「ぼくはいつもその時々にしていること、していなことのどちらも好きだ」。


をかし・・・は)美的理念。感興をそそられる。王朝以降は「あはれ」がしんみりとした情趣に対する感動を表す語とみなされるのに対し、明るい対象や状態に触発された感動を表す形容詞とされる。(河出書房新社編集部『美しい日本語の究める やまとことば』)

王朝期ゆかりのやまとことばどころか、江戸時代の諺や明治の言葉遣いでさえどんどん減って絶滅を危惧されている。「をかし」も「あはれ」も、発音すれば現代語の「おかし(い)」と「哀れ」と変わらないが、書き言葉の印象と意味は繊細に異なる。をかしとあはれをぜひ復権させたい。


今日こんにちを特徴づけているのは、「活字離れ」ではありません。むしろ今日、読書という問題をめぐって揺らいでいるのは、本というものに対する考え方です。(……)本を読むということは、その内容や考えを検索し、要約するというようなこととはちがいます。それは本によって、本という一つの世界のつくり方を学ぶということです。(長田弘『読書からはじまる』)

春先に依頼されて、現在某所で「読書室」の企画と設計と選書に関わっている。まだ半年、いや一年以上続く。本を所蔵して貸し出す図書室ではなく、敢えて読書室と名づけた。ここに来て本を読む。オフィスの一室を読書室に作り替えてから4年と少し。その経験が役立っている。ここのところ選書作業で忙しい。

ところで、みんなが本を買わずに借りて読むようになると、出版社や書店はやっていけなくなる。本が発行されなければ図書館の所蔵図書のタイトル数が減る。出版文化維持のために、そして「本という一つの世界」がなくならないために、図書館で本を借りる人も3冊のうち少なくとも1冊は書店で買ってほしいと願う。

一品から一式へ

文具店でボールペンを何本か試し書きした。100円ちょっとの書き味のいい新製品があった。オフィスに戻り、革の手帳のペンホルダーに差し込もうとしたが、入らない。ボールペンが少し太いのか、いや、革製のペンホルダーが少し狭いのか。翌日、ミニクリップの付いたスプリングリング状のを500円で買った。ボールペンは手帳に収まった。

これまでの自分のやり方に「新しいものや価値」が加わると、それに合わせて何かが変わる。新しいボールペンが新しいペンホルダーを買わせた。勢いづいてボールペンに合ったリフィル用紙を求め、さらに高じると手帳そのものを買い替えるかもしれない。ものや価値は連鎖する。新しい筆記具から生活習慣の構図が一変する。決して冗談ではない。

18世紀フランスの哲学者で美術批評家だったドゥニ・ディドロ。ある日、知人から緋色のガウンを贈られ大いに気に入った。だが、そのガウンを着ると、書斎の調度品が貧相に見えてきた。ディドロはガウンにふさわしい品質の椅子や調度品や書棚をすべて新装した。ガウンが生活の支配的な存在になり、その他の要素を従えるようになったのである。

コンプリートへの欲望が極まった恰好だ。「ディドロ現象」として知られている。これまでとは違った価値水準、雰囲気、イメージ、ニュアンスのものがたった一つ日常生活に入り込むだけで、その一つに適合するように書斎の他の所有物をすべて統一したくなる。きっかけになった一品の文化的意味が、身の回りの一式に共有されていく。

所有物の文化共通性は書斎という一つの生活シーンだけにとどまらない。異種ジャンルを貫いて生活全体にまで及ぶ。たとえば長年憧れていたクルマを手に入れた。クルマという文化カテゴリーの満足だけで話は完結しない。クルマに対応するような時計、万年筆、読書、映画、服装、食事、観戦スポーツ、祝日の過ごし方が変わる。

クルマが生活全体の主役になり、その他の異種ジャンルが車に共鳴するように変えられ選ばれていく。クルマを中心としたライフスタイルが構築される。そしてその次には、住宅や職業が見直されるかもしれない。エスカレートし続けるにはある程度の資産が必要だろうが、誰もが生活許容範囲でディドロのように自己洗脳して行動するのは稀ではない。

付箋紙メモ5題

メモや文章はひとまずノートに手書きしている。システム手帳なので分厚くなりかさばる。ランチやちょっとした雑用で出掛ける時は携えない。しかし、そんな時にかぎってよく気づくし記録したくなる話題に出合う。最近は付箋紙と水性ボールペンだけポケットに入れて出る。付箋紙には見出しか要点だけを記し、長い文章は書かない。

そうしたメモは数日以内に手書きで文章にしておく。かなり日が経ってしまうと、メモをした意図すらわからなくなる。読書量もノートに書くメモの数も減る猛暑の季節。付箋紙由来のメモから雑文を起こしてみた。

📝 いま生きている者はみな時代の最先端にいる。断崖に立って見えない未来に直面しているようなものだ。最先端で生きるなんてカッコいいようだが、不安で落ち着かないし、決して楽観的にはなれない。人類はいつの時代も宇宙の危なっかしい場所に居続けてきて、何とかリレーしてきて今に至っている。

📝 英語の“enjoy”には目的語がいる。日本語の「楽しむ」はそれだけで使える。何を楽しむか言わないのは明快ではない。しかし、文脈や行間からわかることが多いから、「何々を楽しむ」といちいち几帳面に言うのは少々野暮である。

📝 午前10時。全方向をくまなく見渡して空を仰ぐ。薄雲は一条の線も引かず、白雲は小さな欠片かけらも固めず。つまりは、晴れわたり澄み切った青天白日。この光景をいつもいつも「青空」と片付けてしまうのは怠慢ではないか。

📝 マスクという制限、ステイホーム(外出自粛)という制限、少人数の黙食という制限。制限は不自由だ。制限が課されると、制限がなかった過去を思い出す。「自由はいいなあ」とつぶやく。この過去の思い出があるからこそ、制限解除後の未来の自由が想像できる。自由と自由がサンドイッチのように制限を挟んでいる状態をイメージしている。

📝 半年ぶりの他県でのリアル研修だった。テーマは企画。企画について新しい発見があった。即効性と構築性(またはアドリブと計算)、感覚と戦略、瞬発と熟成などの二項概念がもたれ合って一つの形を作っていく。それが企画という仕事である。

見極めの作法

行政の事業やイベントの審査をこの10手伝ってきた。毎年4つか5つの案件を見てきたので、かなりの数になる。コンペやプロポーザル方式で専門事業者の企画提案内容を評価し、複数の審査員で審議して最優秀事業者を選ぶ。審査員は3人~5人。数社がエントリーしてくるので、満場一致で決まることはめったにない。

審査と言えば、ディベート大会には40年以上関わってきた。練習も含めると、たぶん千に近い試合を審査してきたはず。ディベート審査では、3名、5名、7名など、奇数の審査員が一人1票を肯定側か否定側に投じる(引き分け判定はない)。拮抗しても必ずどちらかの票が他方を上回る。

行政の選定会議は投票方式ではなく、個々の事業者を採点して審査員の点数を合計する。合計点の多い事業者が最優秀になる。たとえば、事業者A社、B社、C社を4人の審査員が審査。3人の審査員の採点でA社が1位になったとしても、残る一人の審査員が大差の点数でC社をトップ評価したら、合計点でC社がA社を上回ることがある。実際、そんなことが二度あった。最高点と最低点をつけた審査員の点数を除く「上下カット方式」がフェアだが、あまり採用されない。


最初の事業者のプレゼンテーションはその内容だけを絶対評価する(フィギュアスケートやアーティスティックスイミングの最初の競技者に対する採点と同じ)。しかし、二番目以降は、たとえ絶対評価のつもりで採点しても、先に終えたプレゼンテーションと比較しながらの評価にならざるをえない。天秤にかけながら優劣判断をすることになる。

ある一つの物事だけが対象なら、その物事の本質や出来栄えなどを評価して最終的に「イエスかノー」の判定を下す。他方、二つの物事の評価となると必然的に比較をして優劣を決めることになる。こう書けば簡単そうに見えるが、優劣の判断には感覚や経験が含まれる。また、「鼎立ていりつ」という、三者対立などもあって評価は一筋縄ではいかない。

事業者選定や議論の勝敗に関わる審査は、利害関係を抜きにしたロールプレイ的ミッションである。しかし、仕事や生活上の人柄と所業の見極めや大小様々な意思決定は生身の自分事だ。得失を優先するあまり善悪を棚上げする者がいるし、「美しいと思うから美しいのだ」と短絡的な論法で決めつける者もいる。何を根底に置いて評価すればいいのか、見極めの作法は定まりにくい。しかし、少なくとも、得失の判断を真偽・善悪・幸不幸の見極めよりも優先させてはいけない。自然界に得失はない。得失は人の邪心にほかならないのである。

イズム(–ism)はほどほどに

昨年12月、コンサートに招待された。断っておくが、企画したのは怪しい主催者ではない。大阪に何らかのゆかりがある複数の歌手がそれぞれ23曲歌った。その中の一人はすでに70歳を過ぎ、30数年前に比べて露出は減ったが、ブレることなく今もわが道を歩み続けているらしい。この歌手の、観客を置いてきぼりにする自己陶酔ぶりにうんざりしてしまった。

自己陶酔の英語は“narcissism”。正確な発音は「ナルシシズム」だが、慣習的にはシを一文字落として「ナルシズム」と呼ぶ。己に陶酔しすぎると、他者や景色は見えなくなる。自分が中心で、自分が好きでたまらない困った人だ。ステージに立っているのを忘れているのではないかと思うほどの傍若無人だった。

“ism”は、それ自体が単独で使われることはまずないが、接尾辞としてある用語にくっつくと用語のとんがり感が強くなる。Darwinismダーウィニズムは「ダーウィン進化論説」、feminismフェミニズムは「女性解放思想」、nationalismナショナリズムは「国家主義」という具合に、何とかイズムは主義や先鋭や排他のニュアンスを濃く漂わせることになる。


おなじみのdandyismダンディズムを例に考えてみたい。適訳がないので今も昔も「ダンディズム」が一般的。これは男性に使われることばで、主として服装や身のこなしや付き合い方がスマートで洗練されている様子を表わす。ダンディズムを極めていくと――と言うか、調子に乗り過ぎると――ディレッタンティズムになる。耽美主義だ。人生最上の価値を「美」ととらえ他のことには見向きもしない頑なな姿勢である。

服装や身のこなしだけではない。筆記具などのステーショナリー、靴や鞄や札入れなどの皮製品、時計と眼鏡の使いこなしにも言える。また、食材や料理とその食べ方、酒とその飲み方、店の選び方にも主義がある。愛用するものやスタイルには理由があり、問われれば饒舌にならない程度に蘊蓄を傾けることができる。

ダンディズムは一目で、一言で差異がわかる。品性もさることながら長年培った流儀が感じられる。それは、エステサロン帰りに細身のスーツに身をまといオーデコロンを香らせるのとは別物である。財布から札を取り出して祝儀をはずむのもダンディズムではない。誰が言ったか忘れたが、ポケットに硬貨を入れておいてそっと取り出すのがチップの心得だ。服装もことばも小道具も、これ見よがしではなく、さりげなく。ダンディズムに形だけで頓着すると野暮になる。

語句の断章(35)演繹と帰納

〈演繹〉と〈帰納〉は決してやさしくない哲学用語である。研修で何度か使っているが、中心テーマになったことはなく、周縁的にさらりと使うだけで深く掘り下げていない。質問を受けたこともない。ぼんやりとわかっている、辞書を調べてもあまりピンとこない、わかっているつもりだが「意味は?」と聞かれたら説明できない……演繹と帰納に対してはおおむねこの程度の距離感の人が多いのではないか。

手元の『新明解』によると、演繹とは「一般的な原理から、論理の手続きを踏んで個々の事実や命題を推論すること」、帰納とは「個々の特殊な事柄から一般的原理や法則を導き出すこと(方法)」。この説明を読んで、「ガッテン!」と膝を打つ人はたぶんいない。

ぼくの場合、だいたいの意味がわかるきっかけになったのは英語だった。演繹と帰納はそれぞれ英語で“deduction”“induction”という。使った英英辞典は新明解以上に明解で、演繹は“from general to special”、帰納は“from special to general”と定義されていた。一般から特殊を導くのが演繹、特殊から一般を導くのが帰納。枝葉が省かれてわかりやすかった。

たとえば何かについて話す時、総論から始めて具体的な事柄を紹介するのが演繹的話法。他方、一つまたは複数の具体的な事例を切り口にして一般的な考え方で結ぶのが帰納的話法。演繹と帰納のことを知らなくても、現代人にはこの二つの思考パターンやまとめ方が刷り込まれている。一つの原理をいくつかに分析するか、複数の情報を総合するかのいずれかなのである。


演繹を図で表わすと上記の通り。一つの大きな概念を具体的なコンテンツに小分けする。「横綱を目指す力士は〈心、技、体〉を鍛えなければならない」や「日本の通貨には、一円、五円、十円、百円、五百円の硬貨と、千円札、二千円札、五千円札、一万円札の紙幣がある」。トップダウンの構造になる。


上図は帰納の構造を表したものである。演繹の図とは矢印の方向が逆になっている。小さな情報のいくつかを一括りにして上位の概念にまとめる構成だ。たとえば、「Aさんは時々遅刻する、アポの時間を忘れる、新幹線に乗り間違える。時間にルーズなAさんは社会人失格」とか、「香川、徳島、愛媛、高知の4県を四国という」など。ボトムアップの構造をとる。

どこで何を食べる?

現在の場所(大阪天満橋)で起業してから34年余り。この界隈の何十何百という食事処で、おそらく78千食のランチを食べたりテイクアウトしたりしたはずである。官公庁と中堅中小企業が集中するエリアだが、元々は住宅と商店がおびただしい街で、飲食店も多種多様である。

飲食業は栄枯盛衰、街中に在る店は一方で閉ざしては消え、他方でまた新しく生まれるが、総じて長くはとどまらない……などと書けば『方丈記』の「ゆく河の流れ」のごとし。記憶が正しければ、起業時から変わらず残っているのは牛丼の「吉○家」のみである。

コロナ禍で出張が少なくなり、仕事の本場所にいる日々が増えた。在宅でのテレワークが性に合わないので、ほぼ毎日事務所に来ている。おびただしい食事処から「さて今日の昼はどこがよいだろうか」と迷うのはこれまで楽しみだったが、長い年月を経た今、選択と決断は悩ましい。

どちらかと言うと食性が広いぼくは毎日同じような弁当で済ませることはできない。「昼にどこで何を食べるか?」と思案するのはほぼ毎日のこと、簡単には決まらない。但し、コロナ以降はもっぱら孤食をしているから、「誰と」を考える必要がなくなった。食事相手を気遣うことなくマイペースが保てる。


この一カ月、外に出るだけで暑い。出てから迷い歩きしていては食事にありつく前に熱中症をわずらう。出掛ける前に近場の店のツイッターやインスタグラムで本日のメニューをチェックするようになった。したがって、行ってみるまでメニューがわからない店に行くことはほとんどない。おおよそ56店に行きつけの店を絞り、あらかじめ注文まで決めてから出掛ける。

一番のお気に入りは一か月ちょっと前に初めて入った「Y」。直近の半月だけで4度足を運んでいる。毎日工夫のある7種の定食がメニューで、和風が4種、洋食が2種、中華/エスニックが1種というラインアップ。値段は800円から上限1,400円。おおむね1,000円前後。


今日も行ってきた。目玉の鰻丼定食、1,380円を注文した。三河産の鰻とは良心的である。どの定食にも具だくさんの味噌汁と小鉢2品が付いている(日によってはデザートも)。これまでに注文した食事は以下の通り。この店をマイ食堂に指名してもいいと思うほど変化に富んでいて飽きない。

海鮮竜田揚げ定食
おかあさんの酢豚定食
マグロ/中トロ/イサキ/フエフキダイの漬け丼定食