商売人失格

仏教用語としての正用からは外れるが、この話には「因果応報」と刻みたくなる。小さな因果が確実に働いて、いずれ応報になる話。

数年前、兵庫県のとある駅に降り立った。駅前に、最近よく見かけるガラス張りの賃貸住宅ショップがあった。仕事は翌日だが前日入り。宿泊先として指定されたホテルの場所がわかりにくかったので、その店で尋ねた。
店員が「交番で聞きゃいいだろ!」と翻訳したくなるような語気で面倒臭そうに対応をした。おそらく知っているのだろうが、教えてくれなかった。十数秒の親切をしても日銭にはならないだろうが、駅前不動産なのだから交番の役割も担って何か問題が生じるか。地域のナビゲーター役になる絶好の立地にあるのに、なんという機会損失かと思った。

ぼくは残念に思っただけで、恨みも怒りも引きずらなかった。それでも、後日、もしこの方面に引っ越しする人がいたら、躊躇なく「あの駅前の○○不動産には行かないように」と助言する。「あの店」だけで済めばいいが、「あの会社」という烙印を押されてしまうと、同じ会社の(善良かもしれない)他のショップにも影響が出るだろう。
因果関係というものは、辿ればどれも複雑だ。特に今の時代、「一因一果」などのような単純な因果関係はほとんどありえないだろう。だが、この一件に関して言えば、一事が万事になりかねない。
ちょうどその頃は、大阪の例の名門料亭がアウトになった時期に重なる。さんざん良からぬことを重ね、バレたりバレなかったりしながらも息を吹き返して延命してきた。あの料亭は、情けないことに「ワサビの使い回し」というちっぽけな原因で終幕した。社会の堪忍袋の緒が切れたらおしまい。商売人にとって、一人一人の顧客は社会につながっている。PRとは“Public Relations”の略、つまり「社会との関係づくり」にほかならない。商売人の原点はそこにある。

食事処に物申す

酒はだいたいどこの店にも同じものが置いてあるが、料理にはそこにしかない品もしくは味という前提がある。たとえ他店と大差のない料理であっても、「うちにしかないうまいものを出す」という気迫が漲らねばならぬ。「この店は味自慢」と認めるからこそ、こちらも料理を決めてからそれに合う酒を選ぶ。
以上のようなことを、あくまでも個人的な意見として、「何を食べるかも決めていないのに、はじめに酒の注文を聞くべからず」と前回のブログに書いた。今日はその続編である。お品書きもしくはメニューについての話。

以前、3,500円、5,000円、7,000円のコース料理を出すビストロがあった。将来顧客になるかもしれない団体の代表者と公認会計士とぼくの3人での会食だ。ぼくが場所と食事を決めてご馳走するという設定だった。店に入って席に就くなり、店員が「本日はご予約ありがとうございます。5,000円のコースで承っております」と言ってくれたのだ。バカな確認をするものである。
コースとアラカルトは注文のしかたが違う。アラカルトならメニューを全員に配るから、接待であれ割り勘であれ、値段は全員に知られる。それはそれでよい。しかし、コース料理の場合で誰かが他のメンバーを接待している時に、コース名と値段を明かしてはいけない。
割烹に「おまかせ料理」を予約して行った。カウンターに座ったら「本日はおまかせ料理ですね」と確認された。よく見ると、壁に「おまかせ料理2,980円」と貼紙がしてあった。がっかりである。
イタリア料理店でワインリストからワインを選び、「これをお願いします」と指差ししたら、「こちらの2,800円の赤ですね」とご丁寧にも金額を言ってくれた。
ご馳走されるほうは、ワインリストを渡されてもなかなか選びづらい。ざっと視線を走らせても、たいてい「お任せします」と言う。しかし、店によっては値段の安いものから高いものへと「秩序正しく」ワインを掲載しているところがあるから、指の差す位置によってどの程度のものを注文したかがすぐにわかってしまう。
以上のようなデリカシー違反の店は一流にはなりえないだろう。それはともかく、接待する側でも接待される側でも疲れる手続きなので、この頃は気のおけない人としか食事に行かないようにしている。メニューの値段もオープン、店も明朗会計というのがいい。
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英語とイタリア語が併記されているレストランのメニュー(イタリア・オルヴィエート)。

注文の順序――食事か酒か

どう見ても居酒屋とは呼べない、ある程度の格のある割烹。あるいは少々値の張る寿司屋。こんな店で席に着くなり、「まず飲み物のご注文からおうかがいします」と促される。

庶民的居酒屋で多人数ということになれば、それもやむをえない。年配者が和を乱すこともないだろうと、一応妥協する。しかし、実のところ、「とりあえずビール」など論外だ。集まりの冒頭の乾杯で足並みを揃える必要などまったくない。これは単に幹事と店側の都合にすぎない。二十代に入って酒を飲み始めた頃から異様に思っていた。

酒を飲むことよりも食べることを優先しているからかもしれないが、「飲みに行かないか?」に未だになじめない。「食べに行かないか?」でなければならない。「飲みに行かないかには食も含まれているんだよ」と言い含められても、納得しづらい。野暮を承知で言う、ぼくは食べに行くのであり、食べたいものに合わせて飲み物を決める。ゆえに、最初にドリンクを注文しない。する時は、何を食べるかがわかっているときである。


先月、吉田類の『酒場放浪記』で「(焼きとりの)白レバーを頬張り、生ビールで胃に流し込む」というナレーションを耳にした。不快であった。「とりあえずビール」で始め、その後お店がお薦めする一品の白レバーを注文した場面である。

胃に流し込まれる白レバーにも流し込む生ビールにも失礼である。早食い大食いコンテストでもあるまいし。じっくりと味わい、食と酒の相性を味わうべきではないか。自称グルメには咀嚼時間の短い輩がとても多い。三口ほど噛んで酒を流し込むくせに、食通ぶってはいけない。

場末の居酒屋とは一線を画すると自負する飲食店なら、洋の東西を問わず、食べ物の注文が先である。メニューを眺めて「ああでもない、こうでもない」と考慮する時間から食事が始まっている。よく来る店で注文するものもだいたい決まっていても、時間をかける。しかるべき後に、好みの酒を選ぶか薦めてもらう。

もちろん例外もある。高級な焼酎を一本もらったりワインの店で薦められて買ったりする時は、「はじめに酒ありき」だ。また、料理と連動させなくてもよい食前酒や食後酒もありうる。しかしながら、何を食べるかに迷い、その料理に合いそうな酒を選ぶという時間を楽しみたい。おそらく、「飲み放題付き宴会コース」なるものが、選択の自由と時間を奪うようになったのだろう。

まずい鯖寿司の話

今日は恵方巻が飛ぶように売れているが、ふだん食べる太巻よりも格段にうまいわけではない。ただ、通常切り分けて食べるのを「痛快丸かぶり」するから、うまさの触感が増しているかもしれない。

人から聞いた話だが、恵方巻ではなく、まずい焼き鯖寿司の話を書く。

とある店の焼き鯖寿司がうまいとテレビでべた褒めだったので、Yさんは差し入れにと買った。土産にした本人は食していない。鯖寿司をもらった女性二人は「テレビで評判のうまい」という触れ書きをアタマの片隅に置いてYさんが去った後に食べたという。結論から言うと、「とてつもなくまずかった」。彼女ら二人とYさんは一緒に働く、きわめて親しい関係にあるが、翌日会った時にさすがに「Yさん、あれはまずかったわ」などとは言わない。それが良識というものだ。

一ヵ月ほどしたある日、3人が一緒にいる時に、たまたま別の土産物をもらったそうで、味の話になった。そこで、「Yさん、言いにくいんだけど、この間の鯖寿司ね、全然おいしくなかった」と一人の女性が切り出した。告げられたYさんは驚いた。まるで自分の責任のように感じたのも無理はない。


うまい・まずいは人それぞれだ。この焼き鯖寿司に関するかぎり、二人の証言しかないので結論を下せない。だが、Yさんはその店の評判よりも友人である二人の女性の声を信頼する。悔しいが、Yさんは店にもテレビ局にも文句は言えない。「うまいと言って買ってくださる人が大勢いる」と言われたらそれまでだ。したがって、マスコミの「イチオシ情報」を今後鵜呑みにせず、その店の焼き鯖寿司を二度と買わないようにする。むろん、Yさん一人の抵抗で店が淘汰されることはないだろう。

それにしてもだ。賞味期限や成分偽装などの品質問題には文句を言えるが、味を問題としてクレームはつけにくい。スカスカのおせち料理には文句を言えるが、てんこ盛りになったまずいラーメンには心中「まずい」とつぶやいて、これまた心中「二度と来てやるものか!」とつぶやくのが精一杯の抵抗である。

ぼくの経験では「名物にうまいものなし」はだいたい当たっているが、それでもそのまずい品が名物であり続けるのは、ぼくとは味覚が違って「うまい」と評する者が後を絶たないからだろう。加えて、人には自ら選択したものがまずかった時に「うまいと思い成そうとする心理」が働く。いわゆる〈認知的不協和〉の一種だ。

さあ、夕刻になったら、うまい恵方巻を買って帰ろう。買う時点では「うまい」は仮説である。頬張ってから味の良し悪しが判明する。もしまずかったら、また後日悪口を書いてみようと思う。

苦情の語調

十日前に焼鳥屋の日替りランチを食べた。ランチの話題はふつう味云々ということになるのだろうが、そうではない。もう一度書くが、食べたのは日替りランチである。カラアゲ定食ではない。ぼくと知人男性の二人で行った。知人はカラアゲが好物である。その日替りランチを注文した。鶏のカラアゲ、豚肉とオクラの炒めもの(スパゲッティ添え)、コロッケの三品がワンプレート。これに小鉢一品。もちろん、ご飯と味噌汁とお新香もついている。以上がプロット。

ぼくたちの23分後に入店してきた男性3人が隣のテーブルにつき、同じ日替りを注文した。しかし、ランチは彼らに先に配膳された。時間差なくサーブされる可能性があるので、まあいい。これくらいのことで文句は言わない。言わないでよかった、ほどなくして日替りが来たから。しかし、持って来たのは一人前のみ。ぼくの前に置いた。同じものを頼んだのだから、当然すぐに来ると思い、「じゃあ、お先」とゆっくり食べ始めた。

だが、待つこと数分、あと一人分が来ない。「よし、ここで一言しておくか」と思ったちょうどその時に来た。女性店員は知人の前にランチを置いてそそくさと去る。その盛り付けを見て呆れた。キャベツの上にカラアゲが寂しそうにポツンと1個ではないか。ぼくのは3個だ。メニューの日替りランチの内訳の一つ目にカラアゲと書いてある。味噌汁の多少ならともかく、カラアゲの個数を人によって変えてはいけないだろう。これで三度目、店員を呼びつけようとしたら、知人がぼくの殺気を感じたのか、「あ、自分で言います」とつぶやいたので、任せた。


後ろを通りかかった別の店員を呼び止め、人のいい知人はまだ手をつけていないカラアゲ1個を指差して、「すみません、これちょっと少ないんですけど……」と言った。とても上品だが、こんな文句の言い方では話にならない。間髪を入れずに、「同じランチを注文して、こっちがカラアゲ3個で、今来たのが1個というのはおかしいだろ!?」とぼくが追い打ちをかけた。店員の顔に「しまった」と「どうしよう」が錯綜した表情が浮かんでいる。

結論から言うと、厨房の男性が小皿にカラアゲ2個を持って来て詫びた。「なんでこんなことになるんでしょうね?」と知人は怒る様子もなく、ぼくにつぶやく。「店ぐるみの準確信犯だよ、これは」とぼく。「その時間ごとにおかずの増減が起こるから、グループが違えばおかずの量を調整する。カラアゲが足りなくなって1個にした。その穴埋めのつもりで、きみの豚肉とオクラの量を多めにしたんだろう」。

同じグループだが、何かの拍子に厨房への注文が別扱いになった。運んできた店員は一人客だと思っていたが、二人連れで、しかも先に一人前がサーブされているのに気づいた。だが、カラアゲ1個はやばいと思いながらも、そのまま置いていったに違いない……というようなことを知人に話したら、「ただの凡ミスではないですかね?」と鷹揚である。物分りがよすぎるのも困ったものである。

店員の顔には、「カラアゲ1個はまずいが、ええい、ままよ! 何か言われたらその時はその時」という表情が明らかに浮かんでいた。「きみね、クレームのつけ方が穏やかすぎる。化け物のようなクレーマーになってはいけないが、毅然とした語気の強さを欠いてはいけない」とぼくは知人に言った。「これちょっと少ないんですけど……」はない。学校給食と違うんだから。店を出る頃、店の対応よりも知人の対応にぼくは苛立っていた。

一番つながりの怪

車を運転しない。所有していて運転しないのではない。車を持っていないのである。もっと正確に言うと、運転免許を取得したことがないのである。別にアンチオートモービリズム(反自動車主義?)の思想家でも運動家でもない。人生において何百分の一かの偶然によって縁がなかっただけの話である。

「車がなくて困ったことはないか?」とよく聞かれてきたが、車がないこと、つまり「車の欠乏」が常態であるから困りようがない。いや、困っていることを想像することすらできない。だってそうだろう、無酸素で生きることができる人間に「酸素がなくて困ったことはないか?」と聞いているようなものではないか。但し、「車があれば……」と想像できないほどアタマは固くない。「もし手元に自由になる百万円があれば……」を仮想するのと同じ程度に「もし車があれば……」と仮想することはできる。

と言うわけで、真性の車オンチである。車オンチではあるが、広告やマーケティングのお手伝いも少々しているので、仕事柄テレビコマーシャルはよく見るし、その中に自動車も含まれる。だが、傾向としては、他商品に比べると淡白な見方になっているのは否めない。メーカー名も車種も覚える気がないので、コマーシャルの構成やプロットも流すようにしか見ていない。だから、狂言師の野村萬斎がいい声でホンダのフィットを持ち上げているのを耳にしても、「ふ~ん」という無関心ぶりであった。


ところが、先日、数度にわたってじっくり見てしまったのである。そして、見てしまった結果、「これはダメでしょう、ホンダさん!?」とつぶやいたのである。「たとえばケーキだと、一番売れてるケーキがやっぱり一番おいしいはず」という命題はどうにもいただけない(広告コピーに命題とはなんと大げさなと言うなかれ。英語では“selling proposition”、「売りの命題」と言う)。

販売至上主義やナンバーワンがどうのこうのと道徳論を持ち出すつもりなどない。一番は二番よりもいいことくらいわかっている。言いたいのは、「一番売れてるケーキ」が何を意味しているか不明であること。ケーキの種類なのか、特定パティシエが創作するケーキなのか、お店やベーカリーを暗示しているのか、さっぱりわからない。仮にイチゴショートが一番売れているのなら、それが一番うまいということになる。そして、秋には栗たっぷりのモンブランにおいしさ一位の座を奪われるというわけだ。

次に問題なのは、あることの一番が自動的に別のことの一番になるという、無茶苦茶な論法である。一番売れてる◯◯は一番流通上手、一番宣伝上手、一番安い……など何とでも言えるではないか。ケーキだから「おいしい」がぴったり嵌っているように見えるが、「一番売れてる本」なら「一番何」と言うのだろうか。一番売れてる本がやっぱり一番おもしろいはず? 一番ためになるはず? 一番話題性があるはず? 一番読みやすいはず? どれでもオーケー、自由に選べる。命題はまったく証明されていない。たかがコマーシャルだけれど、そう言って終われない後味の悪さがある。

「一番売れるケーキが一番おいしいはず」という仮説を持ち出した手前、この広告は「日本で一番売れているフィットが10周年。これまたおいしそう」で締めくくらざるをえなくなった。いや、ケーキを持ち出したのだから、「一番おいしいつながり」以外に終わりようがない。おいしいケーキは想像がつくが、おいしい車にぼくの味覚は反応しない。狂言が好きだし、従妹もホンダアメリカにいるので大目に見たいが、わざわざケーキをモチーフに使った意味が響いてこない。ケーキと車がどうにもフィットしないのである。

効果を見極める

一つの原因から一つの結果が生まれるようになれば、分析も予測も誰がやっても同じになるに違いない。たぶんものの見方もアタマの使い方も簡単明快になるはず。科学至上主義への懐疑も霧消して、科学は完璧主義という地位を獲得する。いや、運命決定論的にすべてを支配することも夢ではない。同時にそのことは、ハプニングや意外性やユーモアやジョークのない、さぞかしおもしろくない世界になるだろう。

ぼくのような浅学の身でも、少しでも考えようと頭に鞭打つのは、原因と結果の関係が定まらないからだ。直接・間接の原因があり、遠因と近因があるし、アリストテレスによれば質料因、作用因、形相因、目的因も考慮せねばならない。さらに、これらが混ざり合って一つの結果が生まれているわけではなく、結果も複合的であることがほとんどだ。因と果がぴったり対応しないからこそ、固定観念を反省したり創意工夫をする気になったりもする。原因も結果もよくわからないのは不安定だが、苦労せずによくわかってしまうよりもずっと精神衛生上はいいはずである。

医者に行く。「どうされましたか?」と聞かれ、「ちょっと熱があるんです」と答える。「咳は?」「時々出ます」などのやりとりの後に胸と背中に聴診器が当てられて、やがて「どうやら風邪ですね」と所見が下されて納得する。だが、なぜ風邪を引いたのかまで深く顧みることはない。仮にここ数日間を振り返ってみたところで、原因はわかりそうもないし、一つともかぎらないだろう。二、三日して体調が戻る。よくなった原因が薬だったのか、よく睡眠を取って休息したからか、あるいは自然治癒したのかは不明である。


一度でもお試しサプリメントを注文すると、その後しばらくDMが送られてくる。以前、そんなDMの一つにグルコサミンとコンドロイチン配合のサプリメントやサメのコラーゲンの案内があった。「足首や膝に痛みを感じたり階段を上り下りしたりする時に思うように動けない、脚力や関節に不安がある、そんな方にぜひ」というふれこみである。無料お試しを申し込んだのも、たしか同じような文言に反応してのことであった。

テレビにもDMにも折り込みチラシにも消費者の声が紹介されている。「歩くのも階段の上り下りも楽になった」と異口同音の摂取体験談。足に「何だか」力が入るようになり、痛みも「気にならなくなってきた」と言う。はたしてサプリメントは効いたのか。それとも、サプリメント摂取を機に、よく歩くようになり軽い運動すら始めるようになったからか。関節の痛みが改善されたのが、健康食品か新しい生活習慣なのかはわからない。

サプリメントや薬物には自己暗示を促す効果があるのかもしれない。プラシーボ効果である。ところで、こんなことを考えていくと、落ち込んでいたので買物をしたら気分がよくなったという因果関係にも同じことが言えるかもしれない。ふと、ぼくの研修もプラシーボなのではないかとの思いがよぎる。おっと、とんだヤブヘビになってしまった。残念ながら、直接効果のほどは証明のしようがない。ただ、改善や向上に努めようとするきっかけの一つになっていてほしいと願うばかりである。

問いは人を表わす

1月の会読会でメンバーの一人が問題解決のためのヒューマンスキルの本を取り上げた。彼の書評の中に「重要なのは答えることではない、問うことである」という引用があった。まったくその通りである。問いと答えはワンセットだが、答えは問いに従属するのである。そこで、「問わなければ答えは生まれない」という一行も付け加えておきたい。

問いの中身と形式を見れば、問う人がわかるし、答える人との関係もわかる。ある日突然、仲の良い同僚があなたに「オレは誰?」と聞いてきたら、穏やかではないことがわかる。だいたい二、三問ほど聞いていれば人がわかる。ちなみに、「お元気ですか?」は疑問文だが、めったなことでは実際の健康状態を尋ねてはいない。これは挨拶の変形である。若者の「元気?」は「こんにちは」に近い。英語を学習し始めた当初、“How are you?”に対して、いちいち“Fine, thank you. And you?”とアルゴリズムに忠実だったが、ぼくの問いに答えないネイティブも少なからずいて、これが挨拶の一つであることを知った。

「旅行はどうでしたか?」と聞かれるとぼくは困る。問いが大きく漠然としているからだ。だが、こんな問いには適当に答えておけばいいのである。この問いは社交辞令的な問いであって、興味に揺り動かされた素朴な問いではない。「ありがとう、よくぞ聞いてくれた。ものすごいよかったよ!」と言っておけばよろしい。おそらく相手もこう言うだろう、「へぇ~、それはよかったですね」。


インド料理店で「ナンまたはライスは食べ放題」と書いてあって、ナンを注文した。「または」だから、ナンと決めたらずっとナンだと思っていたが、食べ放題ならどっちでもいいのではないかと思い、ライスを頼んでみたらちゃんと出してくれた。メニューには「ナンとライス」と書くのが正しい。「または」や“OR”は相手に選択を迫る問いだから、「何でもあり」の食べ放題に「または」はめったに使われない。食べ放題でよくあるのは、「または」ではなく「但し」だろう。「当店はテーブルオーダー方式の食べ放題です。但し、食べ残しがございますと……」という場合。いつでも「但し」ほど恐いものはない。

「パンにされますか、それともライスですか?」は希望を尋ねている。希望を聞くのはオプションをいくつか用意できているからであり、また相手に強く関与しているからである。とは言え、オプションが多すぎると、「ランチのパスタは何にされますか?」と聞かれ、「何がありますか?」と尋ねると、50もの種類の写真メニューを見せられて困惑する。多すぎるオプションは、逆に無関心の表われになってしまう。「焼き加減は、どうされますか?」という問いは、通常、レア、ミディアム、ウェルダンの三段階の希望を聞いている。選択肢が二、三に絞られていて、なおかつ聞いてくれるときに、問う側の自分への関心と誠意を感じるのである。

一見すると、「ABか?」は二者択一を迫って険悪な空気を漂わせる。しかし、選択肢であるABが同格同等、かつ満足に関わる時、この問いは相手に対するおもてなしになる。どうでもいい相手や関心の薄い相手に、人はこのような聞き方をめったにしない。もちろん聞くこともある。その時は、どちらを選んでもマイナスになりそうとか、ジレンマに陥って答えられないなどの問いである。「転勤するのか、やめるか、いったいどっちなんだ?」などはこの一例だが、明らかに問う者はいじめかパワハラのつもりである。

棘のあるコミュニケーション

「批判される」の能動形は? ふつうは「批判する」。当たり前だ。否定形は「批判されない」。では、「批判は受けるもの」の反対や逆は? 「批判は受けないもの」? いや、おもしろくない。もう少しひねってみよう。一方的に批判を受けるのではなく、言い返したり反論したり。批判からたいかわす方法もありうる。しかし、とりあえず、「批判は受けるものである。決して受け流してはいけない」と言っておこう。

体を躱したついでに、批判や反論の矢から逃れることはできる。知らん顔したり黙殺したりすればいい。しかし、逃げれば孤立する。さわやかな議論であれ真剣勝負の論争であれ、当事者である間は他者や命題と関わっている。逃げてしまえば、関係は切れる。ひとりぽっちになってしまう。本来コミュニケーションにはとげと毒が内蔵されている。にもかかわらず……というのが今日の話である。


「みんな」とは言わないが、大勢の人たちが錯覚している。親子のコミュニケーションや職場のコミュニケーションについて語る時、そこに和気藹々とした潤滑油のような関係を想定している。辛味よりは甘味成分が圧倒的に多い。フレンドリーで相互理解があって明るい環境。コミュニケーションがまるで3時のおやつのスイーツのような扱われ方なのである。コミュニケーションに「共有化」という原義があることを承知しているが、正しく言うと「意味の共有化」である。このためには、必ずしも批判を抜きにした親密性だけを前提にするわけにはいかない。差し障りのない無難な方法で「意味」を扱うことなどできないのだ。

家庭や行政にあっては、たとえば子育て。職場にあっては、たとえば顧客満足。いずれも人それぞれの意味がある。子育ての意味は当の夫婦と行政の間でイコールではない。顧客満足の意味は社員ごとに微妙にズレているだろうし、売り手と買い手の意味が大いに違っていることは想像に難くない。意味の相違とは意見や価値観の相違にほかならない。互いの対立点や争点を理解することは意味の共有化に向けて欠かせないプロセスであり、単純な賛成・合意の他に批判・反論も経なければならないのである。棘も毒も、嫌味のある表現も、挑発的な態度もコミュニケーションの一部である。これらを骨抜きにしたままで信頼できる人間関係は築けるはずもないだろう。


Aは賛否両論も踏まえたコミュニケーションをごく当たり前だと考え、強弁で毒舌も吐けば大いに共感もする。誰かに批判され反論されても、どの点でそうされているのかをよく傾聴し、必要があれば意見を再構築して再反論も辞さない。要するに、Aは酸いも甘いもあるのがコミュニケーションだと熟知しているのである。

ところが、Bはお友達関係的であることがコミュニケーションの本質だと考えている。意見の相違があっても軽く流して、極力相手に同調しようと努める。こんな等閑なおざりな習慣を繰り返しているうちに、安全地帯のコミュニケーションで満足する。ちょっとでも棘のあることばに過剰反応するようになり、次第に先のAのようなタイプを遠ざけるようになる。このBのようなタイプにAはふつうに接する。むしろ距離を縮めて議論を迫る。しかし、BにとってAはやりにくい存在だ。

Aを敬遠するBは議論の輪に入れず孤立するだろうか。いや、この国の大きな組織では孤立してしまうのは、むしろAのほうだ。残念ながら、コミュニケーションを正常に機能させようとする側がいつも貧乏くじを引く。それでも、言うべきことは言わねばならない。相手に感謝されるか嫌がられるかを天秤にかけるあまり、言うべきことを犠牲にしてはいけないのである。

遠近にとらわれない記憶

記憶に遠近感があることに誰もが気づいている。脳には遠い記憶と近い記憶が入り混じって同居している。直近の事件や事故は大きく見え即座に想起できるが、実質的にはより深刻だった過去の事件や事故が小さく見え意識に上ってこない。高齢になると例外的に逆の現象が起こるが、病理的な原因もあるだろうし、最近の出来事への関心が薄れるという理由もあるだろう。美空ひばりの思い出が強く、AKB48には興味がないという場合などだ。直近の事柄が記憶にすら入っていないから、想起できないのもやむをえない。

数百年前の人々が生涯に見聞してきた情報量に、現代人はほんの数日もあれば曝されてしまう。日々忙しく生きているから「点情報」を動態的に追い掛ける。憎しみや悲しみはさっさと忘れてしまいたいという心情もある。しかし、忘れることができても、憎しみや悲しみはいくらでも更新される。マスコミは情報を垂れ流すし、ぼくたちも最新の事件ばかりに目がくらむ。大震災があって津波があって原発事故があった。悲惨である。しかし、すべての媒体が「悲しい色」に染まるべきではなかった。NHK教育テレビぐらいは子ども向け番組を編成してずっと放送し続けてもよかったのではないか。

直近の悲劇を深刻に受け止める代わりに、その直前までに起こっていた大小様々の問題や怠慢や失態を忘れる。もっと恐いのは、やがて一段落すると、次なる目先の「どうでもいい芸能ニュース」が復活し始めることである。実際、そうなりつつある。熱しやすく冷めやすいと揶揄され続けてきた国民性だ。何度も見てきた「喉元過ぎれば熱さを忘れる」がまた蘇りそうな空気が漂う。執念や執着のプラス側にも目を向けておきたい。同時に、どんな悲劇があっても、それまでの幸福や恵みを忘れてはならない。


口の中に入った瞬間は熱くてたまらないから身に染みる。しかし、いったん飲み込んでしまえば、喉を火傷していないかぎり、ついさっきの熱さもすぐに忘れてしまう。苦い経験も苦痛も、過ぎ去れば忘れる。嫌なことをいつまでも覚えているのはストレス因になるから、忘却は脳生理学的には健全であるとも言える。人間は「忘却の生き物」なのである。しかし、よいことも忘れる。恩も忘れる。学んだことも教訓も忘れる。あれほどまでに憤り憎しんだ記憶も彼方に消える。カレー事件はすぐに思い浮かぶか、耐震強度偽装問題はどうか、食品偽装の数々はどうか。裁判で結審の報道があるたびに、「そう言えば、そんな事件があったなあ」という始末である。

記憶全体の地図上で行き先の一点のみを見ているようなものだ。直近の外部からの刺激に過剰反応して行動するのは、「目の前のエサしか見えないカエル」と同じである。カエルをバカにするわけにはいかない。あまりにも多種多様な情報が飛び交っているから、同時にあれこれと想起し考えられなくなっている。やむなく一つずつ処理する。目の前の事柄のみに日々追われる。まるで情報浮浪民である。

点しか見ないから、昨日の点を忘れる。点と点がつながらない。過去からの経験が連続体として生かされず、今日の記憶から過去の記憶が排除されてしまっている。記憶の線が途切れれば、論理的思考どころではなく、刹那的発想しかできなくなる。一見すると、〈いま・ここ〉の生き方をしているようだが、〈いま・ここ〉を通り過ぎるばかりで、〈いま・ここ〉に集中し注力しているわけではない。遠近両用の記憶を保つためには、もっと頻繁に過去や歴史への振り返りをするほかない。場合によっては、瑣末な最新情報に目をつぶることも必要ではないか。