文字にしてわかること

目を閉じて腕を組み考えている。傍からは考えているように見えるだろう。だが、目を開けて腕組みをほどくと、明瞭な考えを巡らしていた痕跡が何一つないことに気づく。何だか渺茫びょうぼうとした平原をあてもなくさまよってきたかのよう。つかみどころのないイメージはおびただしく現われては消え、消えては現われた。ことばの断片だって見えたり隠れたりもした。一部の語は響きもした。しかし、考えていたつもりのその時間のうちに豁然かつぜんとした眺望が開けていたのではなかった――ということが後でわかる。

考えるということは雑念を払うことではない。むしろ、雑多なイメージや文字の群れを浮かばせては、その中に紛れ込み、そこから何かを拾い出して結んだり、ひょいとどこかへ飛び跳ねたりすることだろう。ぼくは沈思黙考という表現を好むが、現実の思考にはそんな落ち着いた趣はない。もちろん瞑想とはさらに距離が隔たる。雑念を払おうとする瞑想は、ものを考えるという行為の対極に位置すると言ってもよい。

考えているプロセスは、実はぼくたちにはよくわかっていない。また、考えたことと紙の上に書いていることはまったくイコールではないのである。腕を組んで考えたことのある部分は漏れこぼしているし、いざ書き始めたら考えもしていなかったことを綴っていたりする。考えたことを書いていると思っているほど、考えたことと書いていることが連動しているのだろうか。むしろ、書いている今こそが考えている時間であり、次から次へと現われる文字の群れが思考を誘発している気さえする。

☆     ☆     ☆

あることばや漢字がなぜこのように綴られ発音されているのかが急に気になり出すことがある。さっきまでふつうに使っていたのに、ふと「ぬ」という文字が変に見えてきたり、「唐辛子」が人の名前のように異化してきたりする(「変」という文字が変に見えてくる話を以前書いた)。今朝は「一」が気になり、これを「いち」と読むことがさらに気になり、その一に「人」や「品」や「点」や「匹」がつくことがとても奇妙に思えてきた。それで、目こそ閉じはしなかったが、ぼんやりと「一」について考えていたのである。

ふと我に返れば、まっとうなことを考えてなどいなかったことがわかった。考えているつもりの大半が「ぼんやり時間」なのだろうと思う。試みにノートを取り出して「一人」と適当に書けば、何となくその文字に触発されて「一人でも多くの人」という表現が浮かんだので、そう書いた。そして、「一人でも多くの人に読んでほしいと語る著者の本心が、一人でも多くの人に買ってほしいであったりする。読まれなくても買ってもらいさえすればいいという本心。では、ぼくたちは、一人でも多くの人に本心からどうしてほしいと思い、どうしてあげようと思っているのか。明文化は一筋縄では行かない」と続けた。

ペンを持って紙の上を走らせるまではそんなこと考えてもいなかった。いや、考えていたかもしれないが、言語的には何一つ明快ではなかった。おそらく、「一」という対象に意識が向けられて、かつて考えたり知ったり経験したりした脳内のことばやイメージが起動したのだろう。そして、リアルタイムで書き、その書いている行為がリアルタイムで考えを形作ったと思われる。「下手の考え休むに似たり」に通じるが、文字化せずに考える時間は凡人にとっては無駄に終わる。とりあえず書く。書くという行為は考えるという行為の明快バージョンと見なすべきかもしれない。

全体と部分の関係

よくある折りたたみ式のヘアドライヤーを使っている。整髪のために使うのではなく、濡れた髪を乾かすためである。そのドライヤーの折りたたみ部のプラスチックが欠けた。小指の爪ほどのかけらだ。「強力瞬間接着剤」で何度もくっつけようと試みたが、100円ショップで買ったその接着剤、まったく強力ではない。くっつくことはくっつくのだが、折りたたみ部を伸縮させるとすぐに剥がれてしまう。それ以上意固地にならず、また、買い替えようとも思わず、機能そのものにまったく支障がないので今もそのまま使っている。

これは、部分の欠損が全体に対して特段の影響を及ぼさないケースだ。しかし、さほど重要ではない部分が全体の価値を落としてしまうこともある。たとえば、チャーハンに入っているグリーンピースやカレーライスに添えられた福神漬け。これらの取るに足らない脇役のせいで食事を心から楽しめていない人たちがいる。彼らは、嫌いなグリーンピースを福神漬けを悪戦苦闘して排除しようとする。全体に関わるマイナスの部分に容赦ならないのである。

実は、ことばというものは、ある文脈でたった一語が足りないだけで意味を形成しづらくなる。ことばはお互いにもたれ掛かってネットワークを構築しているので、ある語彙の不足・忘却は既知の語彙全体の使い方にも影響を及ぼす。

では、アタマの働きはどうなのだろうか。人の身体には欠損を補おうとする機能がある。アタマも同様で、たとえば左脳に傷害が起こると右の脳が部分的に代役を務めることはよく知られた話だ。だが、精密機械の小さな一部品の故障が機械全体の不具合を招くように、言語と思考は一つの異常や不足によって全体の磁場を狂わせてしまうと考えられる。個がそれ自体で独立しているのなら不都合はないが、おおむね個は全体あっての存在なのである。だからこそ、個の問題はつねに全体に関わるのだ。

☆     ☆     ☆

「全体は部分の総和以上であり、全体の属性は部分の属性より複雑である」とはアーサー・ケストラーの言である(『ホロン革命』)。ケストラーによれば、「複雑な現象を分析する過程で必ず何か本質的なものが失われる」。つまり、全体を個々の部分に分解しても全体と部分の総和はイコールではないということである。このことは少し考えてみれば納得できる。レシピの材料の総和以上のものを料理全体は備えているし、住宅はあらゆるコンポーネントを組み立てた以上の存在になっている。

腕時計の完成形という全体構想に合わせて部品が作られ集められるのであり、一軒の家の設計図があって初めて柱や壁や屋根やその他諸々の部材が規定されるのである。決して部分を寄せ集めてから全体が決まるのではない。この話は、総論と各論の関係にも通じる。意見の全体的なネットワークを総論とするなら、各論が勝手に集まって総論を形づくっているのではない。思想や価値観の根幹にかかわる、その人の総論がまずあるべきなのだ。

人の顔色を見てそのつど間に合わせの各論を立て、それらの各論を足し算したら総論になったなどというバカな話はない。総論はさまざまな意見の全体を見晴らしている。それはつねに漠然としながらも、人生や世界や他者に対して変わりにくい価値を湛える。総論という意見のネットワークにはもちろんケースバイケースで各論が入ってくる。それはまるで、時計や家にソリッドな堅強系の部品とデリケートな柔弱系の部品が共存するようなものだ。各論に極論があってもいいが、総論には全体調和論がなければならないのである。

押し入ってくる情報

リチャード・ワーマンの『情報選択の時代』が発行されたのが1990年(翻訳は松岡正剛)。原題“Information Anxiety”は「情報不安」という意味である。同書の第1章には次の記述がある。

毎週発行される一冊の『ニューヨーク・タイムズ』には、十七世紀の英国を生きた平均的な人が、一生のあいだに出会うよりもたくさんの情報がつまっている。

それはそうだろうと思うかもしれない。なにしろ400年前との比較なのだから。しかし、よく考えてみてほしい。ぼくたちが一週間に耳にし目にする情報は週刊の『ニューヨーク・タイムズ』一冊程度ではないのだ。テレビにインターネット、毎日の新聞に会話、雑誌に書籍、それに仕事上の諸々の情報を総合すれば、一週間でかつての英国人の生涯五回分の情報に晒されている計算になる。これは一年で「二百五十回の生涯」、60年でなんと「一万五千回の生涯」に相当する情報量に達する。

IT時代に突入する前、情報にまつわるキーワードが「情報収集」だったことを思い出す。昨今、この四字熟語にはめったにお目にかかれない。情報を集める必要がなくなったのである。情報は勝手に集まってくる。メディアに対して自分を開いておきさえすれば、大多数の人々にほぼ同量で同質の情報が「押し入って」くる。そして、その量たるや、情報洪水などという表現が甘く響くほどの凄まじさなのだ。

☆     ☆     ☆

前掲書『情報選択の時代』は、20年前に情報不安症の兆候を察知していた。どんなに爆発的な量の情報にまみれても、人は情報が足りない不安にさいなまれる。このような予見をするからこそ「自制的選択」を基軸にした情報行動を強く意識せねばならないのである。情報選択とは、一般人にとっては広範囲から少量ずつ主体的に取り込むことだろうと思う。腹一杯情報を消化せねばならない理由など微塵もない。

知らなくてもいいことが次から次へとやってくる。こちらの優先順位などにはお構いなく、ただでさえ情報の扱いに四苦八苦している記憶の領域に闖入し占拠してしまう。手元にあるいくつかの情報だけで十分に仕事に役立てることができるにもかかわらず、押し入ってきた情報をちらっと見たのが運の定めか、もはや手に負えなくなって仕事が遅滞してしまう。そんな連中を最近とみに目撃するようになった。

そうなっては抵抗不可能である。窓越しに覗いたら隣りの垣根のすぐ向こうに情報が迫ってきている……そんな気配を感じた時点で手を打たねばならない。「知らなくてもいい情報がやってきても、知らん顔をして受け流せばいい」と油断していると手遅れだ。なぜなら、それが知らなくてもいい情報だと知ってしまった時点で感染しているからである。対策はただ一つ。週に何度か、自分が持ち合わせている知識で何とかやりくりする、〈情報鎖国主義〉を貫くのだ。決して自知防衛を怠ってはいけない。

諸説紛紛あるとき

旅や出張で見知らぬ土地にいて不案内なことがあれば、たいていの人は誰かに尋ねる。誰かは観光案内所のスタッフであったりタクシーの運転手であったり住民らしき通行人であったりする。当地で評判の食事処を聞き出し、半日で回れる観光スポットを尋ね、所要時間や乗り継ぎ情報を知ろうとする。尋ねる相手がその道の権威とはかぎらないが、少なくとも自分よりもわかっているはずと見なしている。

知識不足を補おうとすれば、ガイドブックやネットでもいいが、もっとも手っ取り早いのは人というメディアだ。旅や出張はつねに「アウェイ」なのだから、「ホーム」の人たちに問い合わせるのは理に適っている。ぼくはそうしている。実は、一昨日の夜に山口に入り昨日研修をして帰ってきた。日本全国たいていの所を巡ってきたが、不思議なことに研修で山口から声が掛かったのは今回が初めてだった。

新山口という新幹線駅での下車も初めてである。到着したのが遅かった。食事処にホテル内の中華料理店を選んだ。観光する時間は到底ないから、名所旧跡について聞くことはない。ぼくの最大関心事は、宿泊ホテルから会場のセミナーパークまでタクシーでどれくらいの時間がかかるかである。だから、ホテルのフロント係の女性に尋ねた。「そうですね、早ければ30分。渋滞で混んだりしますと、40分かかるかもしれません」と彼女は言った。手慣れた応答に、ぼくはひとまず彼女を信用した。

☆     ☆     ☆

しかし、「何か変」を直感したので、翌朝、念のために会場でぼくを待ち受けてくれる担当の方に電話をした。ホテルではこう言っているが、ほんとうにそんなにかかるのかと聞けば、「20分あれば十分です」とおっしゃる。おまけに「20分にタクシーに乗ってください」という助言までいただく。やっぱり40分もかかるはずがない。なぜなら、午後4時に終了して午後441分の新幹線には間に合うと聞いていたからだ。そこで、早めにタクシー乗り場に行き、タバコを吸っていた運転手に聞けば「10分ちょっとだ」と言う。乗り込んだタクシーの運転手は「15分」と言った。

あいにく同じ見解がないから多数決というわけにはいかない。しかし、この場合、諸説紛紛に戸惑うことはない。研修担当の方の意見に従っておけばいいのである。もちろん、遅れては話にならないから、フロント係の40分に従って早く着いておくのも悪くはない(実際の所要時間は行きが15分、帰りが20分弱だった)。ところで、食事処のお薦めが諸説に分かれたらどうするか。これはさらに簡単で、好きなものを食べればいいのである。

一年ちょっと前に会読会で取り上げた『足の裏に影はあるか? ないか?』の中のものさしの話を思い出した。二本の30センチのものさしの目盛りが微妙にずれているのである。どっちが正しいのか。たくさん集めて多数決を取るか、製造元の鋳型を調べるか、さらにもっと権威筋のパリ近郊に格納されているメートル原器を調べるか……。諸説から真らしきもの、より信頼できるものを引っ張り出すのは労力を要する。諸説に悩んだら――実は、悩むこと自体、すでに理詰めの選択ができない状況であるから――気分か気合で決めるしかない。ぼくはそうしている。できれば一番余裕のありそうな説に与しておくのがいい。

ウサギとカメ、再戦

「イソップ寓話のウサギとカメのかけっこの話、知っているよね」

「もちろん。能力のあるなしよりも努力の大小のほうが成功にかかわるという教訓と理解している。それがどうかしたの?」

「もう十年も前になるけれど、『ウサギとカメが再戦したら、今度はどっちが勝つか?』というテーマでディベートをしてもらったことがあるんだ」

「おもしろいねぇ。で、どうなった?」

「今度はウサギが勝利すると主張した者は、かけっこの絶対能力を持ち出した。ウサギは走るが、カメは歩く。①居眠りさえせずに一気に駆け抜ければウサギが勝つ。そして、②凡ミスに懲りたウサギは必ず巻き返す、というのが論点だった」

「多分に期待が込められているね。というか、居眠りイコール凡ミスが例外だったのか、それとも染み付いた属性だったのかがわからないから、『居眠りさえせずに』という条件はあくまでも仮定にすぎない」

「まあまあ、慌てずに。今度もカメに軍配が上がると主張した者は、どう反論したと思う?」

「かけっこは単に俊足対鈍足の勝負ではなく、他にもメンタルな要因もあるということだろうか。いや、ウサギのカメを見下す態度は変わらないから、やっぱり油断をする。だから、何度勝負をしてもウサギに勝ち目はない。こんなところかな」

「ウサギが今度は居眠りしないという証明もできなければ、きみが今言った、他にもメンタルな要因があるということも証明しにくい。したがって、結局のところ、このディベートではウサギが前回の失態を改善できるか否かというのが主要争点になったんだよ」

「要するに、カメにとっては自力勝利はないわけだ。カメはひたすらウサギが居眠りしてもらうことを祈るしかない。これに対して、ウサギは意地でも眠ってはいけない。自力勝利の目は自分の采配しだいなのだからね」

「いかにも。ちなみに、そのディベートではレトリックにすぐれたカメ派が勝ったけどね」

「それで、きみはどんなコメントをしたんだい?」

☆     ☆     ☆

「その前に一言。このディベートのテーマは『ウサギとカメが再戦したら、今度はどっちが勝つか?』だっただろ。これって論題形式の記述になっていない。だから、前回カメが勝ってウサギが負けたという事実から、必然『再戦したら、今後はウサギが勝つ』という論題として読み替えられた。立証責任を背負ったウサギ派が『今度は絶対眠らない』と言い張っても説得力はないよね」

「どうやら、ウサギ派の『三度目の正直論』とカメ派の『二度あることは三度ある論』の言い合いに終ったようだね。もっともこれは二度目の勝負ではあったけれど……」

「ぼくは最後にこう締め括ったんだ。寓話によれば最初のかけっこを挑んだのはカメだった。お前はのろまだと小ばかにされたカメから申し出たのだから勝算があったはずだ。そして、実際に勝利した。だから、ウサギがリベンジを誓う挑戦もきっと受けて立つだろう。おそらくカメはウサギの変わらぬ性向を見抜いているのだよ」

「う~ん。それだって、ウサギ派が導いた推論の蓋然性とそんなに変わらないよな」

「いや、そうではない。この戦い、ウサギという種とカメという種の戦いではないのだよ。これは、ある特定のウサギとある特定のカメとのかけっこだったんだよ。米国対日本という戦いではなく、一米国人対一日本人の戦いのようなものだった。そのウサギは居眠りする怠け者だったうえに、もしかすると仲間内で一番鈍足だったかもしれない。他方、そのカメは仲間内でもっとも俊足で試合巧者だったかもしれない」

「ウサギが種の競走ととらえ、カメは個体間競走と見た。なるほど。間違いなく詭弁だろうけど、おもしろい分析だね。賢いアキレスにも追い付かれないカメだから、ウサギに負けるはずもない」

「あっ、それはなかなかの論点だ。詭弁ついでに言えば、居眠りをした時点でウサギはおそらく狩人に捕まっていただろうから、再戦はありえなかったと思うけどね」

人それぞれの難易度感覚

Nさんが「前回の哲学の話はものすごく難しかったが、今日の広告の話はよくわかった」と言えば、Mさんは「ぼくは前回はよくついて行けたが、今日の分野は奥が深くて難しさも感じた」と言う。二人はぼくの私塾の同じ講座について語っている。「そんなもの、人それぞれが当たり前。得意不得意もあるし……」で片付けてもいいが、単にケースバイケースだけで事を済ましていては進歩がない。ゆえに少考してみる。

仮に二人が同じテーマに関して「難しい」とつぶやいても、その難易度感覚が同じであることはない。そして、一方がその分野を得意とし他方が苦手としている現実があるとしても、いずれもがそれぞれの難易を感じることがあるだろう。人にはそれぞれの難易度感覚があるのは間違いない。しかし、その難易度を表現することはできないし、ぼくが彼らの難易度感覚を精細に突き止めることなど不可能だろう。

英語で生計を立てていた時期に超難解とされていたソシュール言語学を勉強してみたが、初耳で目からウロコでポカンと口を開けてしまう内容だったからこそ、砂地が水を吸うようによくわかったという経験がある。逆に昨年から再読し始めた老子などはあれこれと本を読めば読むほどますます混乱して、ぼくにとっては難しさが増している。いったいぼくの知はいずれに深いのか。難易度感覚は実際のぼくの理解度に比例しているのか。ともあれ、ぼくはそのことを楽しんでいる。

☆     ☆     ☆

哲学に「他者問題」あるいは「彼我問題」というテーマがある。人ははたして他人のことがわかるのか、もしわかるのなら、どこまでわかるのか。いやいや、他人のことなどわからない、わかるのは自分のことだけ。いやいや、人は自分のこともわかっていないのではないか……などと考えてみる。もう一歩踏み込めば、他人の何がわかる・わからないのかが浮かび上がる。哲学的に考察したらキリがないが、現実生活にあっては「人は他者がわからない。ましてや他者の心理や気持などはわからない」とぼくは割り切っている。

妙なもので、わからないと割り切るからこそわかろうと努める。とりあえず話し合う。議論もする。他者をわからないとクールに構えるぼくは結構他者理解に努力をしているつもりだ。むしろ、人同士は心が通い合い自然とわかるものだという連中のほうが油断して、誰のことも自分のこともわかっていないことが多い。彼らと話をしても、何も証明しないし、ただひたすら他人の心がわかると言うばかりだから、そんなものを信用するわけにはいかないのである。

難易度感覚はたしかに人それぞれだろう。しかし、難易度感覚に左右されることはない。それは理解度の最大瞬間風速センサーのようなものだ。難しい易しいと感じたことは事実だとしても、センサーの針の大きな動きに惑わされる必要はない。易しくてよくわかったことを記憶だけに留めて何もしないよりは、難しくてわからなかったことの一つでも実践できれば楽しい。学びの感想の軸を難易度から幸福度や愉快度にシフトするのがいいだろう。  

型を破る型はあるか、ないか?

型に縛られていないようだが、アイデアマンにも発想の型がある。「やわらかい発想ができる」という自信は、慣れ親しんだ型に裏付けられているものだ。やわらかい発想について話をするとき、ぼくは必ず型の説明をしている。「やわらかい発想に型などない。以上」では報酬をいただくわけにはいかない。やわらかい発想のためには常識・定跡・法則の型を破らねばならないが、型を破るための型を示さなければ、誰も学びようがないのである。けれども、ぼくはある種の確信犯なのだ。「型破りに型などあるわけがない」と思っている。

「破天荒な型」などと言った瞬間、そのわずか五文字の中ですでに自家撞着に陥っている。破天荒な人物に型があったらさぞかしつまらないだろうし、そもそも型を持つ破天荒なヒーローなどありえない概念なのである。破天荒にルールはなく、型破りに型はない。野球で言えば、ナックルボールみたいなものである。無回転で不規則に変化するボールの動きや行方は、打者や捕手はもちろん、投げた投手自身でさえわからない。ボストンレッドソックス松坂の同僚で、名立たるナックルボーラーのウィクフィールドだって「どんな変化をしてどのコースに行くかって? ボールに聞いてくれ」と言うに違いない。そこには決まった型などない。

だが、ちょっと待てよ(と書いて、少考すること23分)。行き先や動きが不明ということがナックルボールの型なのではないか!? ふ~む。嫌なことに気づいてしまったものだ。たしかに、ナックルボールには、投げたボールがどう変化してキャッチャーミットのどこに入るか(あるいは大きく逸れるか)が皆目わからないという明白な特徴がある。それを型と呼んで差し支えないのかもしれない。ついっさきの、型破りな型などないという確信をあっさり取り下げねばならないとは情けない。野球の話などしなければよかった。

☆     ☆     ☆

以上でおしまいにすれば、文章少なめの記事となり、いつものブログのスタイルを破ることができた。しかし、気を取り直してもう少し考えてみることにした。先の「破天荒な型」に話を戻すと、その型が定着したり常習的に繰り返されないならば、つまり、一度限りの型であるのなら、これは大いにありうる、いや、あっていいのではないか。

マニュアルやルールの批判者が、『マニュアル解体マニュアル』を著したり『ルールに縛られないためのルール集』をまとめたりしたら、やはり節操がないと睨まれるだろうか。その批判者自らが提示する解体マニュアルと変革ルールを金科玉条に仕立てたら、当然まずいことになる。二日酔い対策のための迎え酒が常習化したら、昨日の酔いの気を散らすどころか、年中酒浸り状態になってしまう。

何となく薄明かりが見えてきた。マニュアルを一気に解体してみせる一回使い切りのマニュアルならいいのだ。また、ルールにがんじがらめに縛られている人を救うためのカンフル剤的ルールなら許されるのだ。したがって、型破りのための新しい型が威張ることなく、たった一度だけ型破りのために発動して役目を果たすなら、大いに褒められるべき型であるし共有も移植も可能だと思える。ここで気づいたが、この種の型のことをもしかすると「革命」と呼んだのではないか。

型という一種のマンネリズムを打破する方法は革命的でなければならず、その方法が次なるマンネリズムと化さないためには自浄作用も自壊作用も欠かせない。とにもかくにも、どんなに魅力ありそうに見える型であっても、型はその本質において内へと閉じようとする。型は決めたり決められたりするものだから、個性や独創と相性が悪いのである。型を破ったはずの型を調子に乗って濫用してはいけない。この結論がタイトルの問い《型を破る型はあるか、ないか?》の答えになっていないのを承知している。

大半の問題は良識で解決する

ぼくの習慣に倣って二年ほど前から気づくこと、見聞きしたことをノートに記録し始めたKさん。二冊目に突入した二、三ヵ月前、「気持が切れないようにするために、何か書いてほしい」と言ってきた(一冊目のときもそうだった)。そして、表紙を開けて最初のページを指差し、「ここにお願いします」。頼まれて揮毫などする立場でもないが、ありがたいことに彼はぼくを師と慕ってくれているようである。最近造語したばかりの四字熟語があったのでためらわずに油性ボールペンで書き、これまた求められるまま日付を入れて署名した。

「善識賢慮」というのがそれである。「良識」と書くつもりだったが、「良」という文字よりも「善」のほうがバランスが良さそうなので咄嗟に変えた。バランス以外に他意はない。格別なニュアンスの違いがあるのかもしれないが、善識と書いたものの意図は良識のつもり。これは、フランス語の「ボンサンス(bon sens)」の訳語であり、英語の「コモンセンス(common sense)」から訳された常識とは違う。意味に重なりはあるものの、良識は主として判断力にかかわる理性的な感覚である。先天的な普通の感覚ではない。これに対して、常識は健全な人なら誰もが持っている知識とされる。常識は、時と場合によっては、好ましくない強迫観念や固定観念の意味を込めて使われることがある。

ちなみに賢慮はアリストテレスのフロネーシスから「すぐれた思考」。四字熟語を書いた時点では、以上のような理解であった。その後何度か、人前で話す機会があり、良識と問題解決の関係についてぼくの考えていることを伝えたりした。「生活や仕事で知恵を発揮するのに天才である必要はない」という話である。アイデアの大部分が良識の範囲から生まれてくるものだ。そう、良識である。これは良識であって、常識ではない。常識はアイデアの邪魔をすることがある。ゆえに、「常識に振り回されるな、たいせつなのは良識だ」というひろさちやの主張に通じる(氏の『日本人の良識』は立ち読みしかしていない、悪しからず)。

☆     ☆     ☆

良識を発揮すれば、日常生活上や仕事上のほとんどの問題は解決できる。簡単にというわけではないが、現象としての問題に気づき、その原因に見当がつくのであれば、極上のひらめきや理性でなくても、まずまず明晰な判断力を用いれば何とかなる。但し、最上のソリューションを期待してはいけない。昨日が50点なら、ひとまず60点を目指すようなベター発想がいい。その時々の小まめな判断と解答を迅速にこなしていけば、アイデアがひらめくものだ。

こうして今日得たアイデアはベストな普遍法則などではないから、明日は役立たないかもしれない。しかし、別の課題に対してはそのつど日々更新していけばいい。小さな課題を小さく解いているうちに臨機応変のアイデアが増えてくるし、ひらめきの回路も鍛えられてくる。生活や仕事、ひいては人間関係や社会とのつながりをつねに動態的にとらえることができるようにもなる。天才を要する至高命題さえ棚上げすれば、良識は「よりよい価値創造」に働いてくれるのだ。少なくとも、ともすれば陥りがちな知的怠惰を未然に防ぎ、状況に応じた「機転のきく知恵」を授けてくれるだろう。

Kさんに四字熟語を贈ってから、おそらく三度目になると思うが、中村雄二郎の『共通感覚論』を読んでみた。良識についてこの本ほどよく考察された書物を他に知らない。ぼくの良識観がこの本の影響を強く受けていることが手に取るようにわかる。何ページにもわたって引用して紹介したいほどだが、今日のところは、ことば足らずを承知で都合よくまとめておく。

「良識という感覚は、ぼくたちと人との関係をつかさどる。細部のすべてがわからないまま全体を把握せねばならないときに、困難を打開してくれるのが良識。良識は葛藤する事実と理性の間で選択を促す。たえず更新される真理をめざす知的活動の源であり、生の意味を問いつつ思考と行動とを結びつける(公正の精神にもとづく)社会的判断力である」。 

エピソード学入門

エピソードとは逸話や挿話のこと。時の人物、物事、現象に関しての小さな話題であり、一見すると本筋ではないのだが、黙って自分だけの占有で終らせたくない小話だ。薀蓄するには恰好のネタにもなってくれる。また、どうでもよさそうな内容だけれども、案外記憶に定着してくれるのは、肝心の本題ではなく、こちらのほうだったりする。

雑学? いや、ちょっと違う。昨今の雑学はジャンル別になったり体系化されてしまったりしてつまらない。話がきちんと分類された雑学の本などがあって、襟を正して学ばねばならない雰囲気まで漂ってくる。雑学クイズはあるが、エピソードはあまりにも固有体験的なので、クイズの対象にならない。《エピソード学》という造語が気に入っていて、数年前から講義で使ったり、何度か『最強のエピソード学入門』というセミナーも開催したことがある。きちんとした定義をしたわけでもないので、用語だけが先走ったのは否めない。

「十人十色」と形容されるように、人はみな違い、みな固有である。同時に、「彼も人なら我も人なり」という教えもある。諺や格言を集めてみれば、森羅万象、相容れない解釈だらけだ。このような相反する価値観にエピソード経由で辿り着く。おもしろい、愉快だ、なるほど、これは使えそう、馬鹿げている、非常識……エピソードに対して抱く感情は、ぼくたちの思想や心理の鏡でもある。日常茶飯事はアイデアと創造につながるエピソードに満ちている。ぼくたちはそのことにあまり気づかないで、フィクションや夢物語ばかりをやっきになって追いかける。エピソードには、まるで虚構のような真実も隠れている。

☆     ☆     ☆

情報を知ってハイおしまいなら、世間一般の雑学と変わらない。エピソードの良さは、考える材料になり、自作としてアレンジでき、そしてジョークにも通じるような、誰かに語りたくなる感覚を味わうことにある。

ある時、駅構内で「インドネシアからお越しのクーマラスワーミーさま、クーマラスワーミーさま、ご友人がお待ちですので駅長室までお越しください」というアナウンスが聞こえてきた。ぼくが聞き取れたのだから、インドネシア語ではなく日本語であった。日本語でクーマラスワーミーさんに呼び掛けた? そうなのである。呼び出されたその人が日本語を解する人だったのかもしれない。しかし、それはそれ。日本語で外国人に丁重にアナウンスすること自体に可笑しさがある。

同じく駅のアナウンスで「ただいま2番ホームに到着の列車はどこにもまいりません」というのがあった。ホームに立ってじっと見ていた、これまた外国人が、動き出した列車を見てこう言った。「ドコニモイカナイトイッタノニ、ドコカヘイッタジャナイカ!?」 たしかに。列車は車庫へと向かったのである。

次はアメリカ人のエピソード。

「鶏ガラを使ったスープを私は飲まない。タマゴは食べるけど、それ以外の肉食系たんぱく質はとらない」という女性がいた。ベジタリアンであった。「なぜタマゴはいいの?」と聞けば、「タマゴはどんどん生まれるから」と答えた(何? 鶏だってどんどん育つではないか)。野菜ばかり食べる彼女は慢性のアトピーに悩まされていた。しかも、肉食に何の未練もないと言い張りながら、肉を模した豆腐ステーキを食べたがるのである。枝豆にしておけばいいのに、こんがりと焼けたステーキを「偽食」したいのである。

偶然外国人がらみのエピソードばかりになったが、必ずしも偶然とは言えない面もある。ことばや文化や考え方の異質性や落差がエピソードの温床になることが多いからである。もちろん、日本人・日本全体においても多様性が進み異質的社会の様相が色濃くなってきたから、一見ふつうの人間どうしの交わりからもエピソードがどんどん生まれてくる。敷居学、室内観相学、路上観察学などはすでにそれなりの地位を築いている。人間が繰り広げる行動にまつわるエピソード学もまんざら捨てたものではないと思うが、どうだろうか。

学び上手と伝え上手

無意識のうちに「知識」ということばを使っている。そして、知識をアタマに入れることを、これまた無意識に「学び」と呼んだりしている。学ぶとはもともと「真似」を基本として習い、教えを受けることだった。プロセスを重視していたはずが、いつの間にか「知識の定着」、つまりインプットに比重が置かれるようになった。現在、一般的には、学びが知識の習得という意味になっているような気がする。

教えを受けるにせよ本を読むにせよ、知は自分のアタマに入る。「知る」という行為はきわめて主体的で個人的だ。ぼくが何かを知り、それを記憶して知識とする過程に他人は介在しないし、とやかく言われることもない。ぼくの得た知識はひとまずぼくのものである。だが、どんなに上手に学んだとしても、知識を誰かと共有しようとしなければ、その知は存在しないに等しい。共有は伝達によって可能になるから、伝えなければ知は不毛に孤立するばかりだ。

高校生だった1960年代の終わりに、情報ということばを初めて知った。知識が「知る」という個人的な行為であるのに対して、情報には「伝え、伝えられる」という前提がある。やがて、情報化の進展にともない、知識ということばの影が薄くなっていった。

ちなみに、「知る」は“know”、その名詞形が“knowledge”(知識)。他方、「伝える」は“inform”、その名詞形が“information”(情報)。動詞“inform”は「inform+人+of+事柄」(人に事柄を伝える)という構文で使われることが多いから、このことばには他者が想定されている。伝達と同時に、共有を目指している。このように解釈して、二十年ほど前から、「知識はストック、情報はフローである」と講演でよく話をしてきた。

☆     ☆     ☆

情報は空気のようになってしまったのか、調べたわけではないが、情報を含む書名の一般書がめっきり減ってきたような気がする。二十一世紀を前にしてピーター・ドラッカーやダニエル・ベルが知識について語ったとき、それは情報をも取り込んだ、高次の概念として復活した知識だったのだろう。昔の大学教授のように、ノート一冊程度の講義録で一年間持たせるような知識の伝授のしかたでは、おそらく共有化した時点で知は陳腐化しているだろう。

記憶するだけで誰とも知識を共有しようとしない者は「知のマニア」であって、学び上手と呼ぶわけにはいかない。知のマニアとは知の自家消費者のことである。誰にでも薀蓄する者は疎ましい存在と見られるが、学んだきり知らん顔しているよりはうんと上手に学んでいると言えるだろう。学び上手とは、どんなメディアを使ってでも誰かに伝えようとする、お節介な伝道師でもあるのだ。

プラトンが天才的な記憶力の持ち主であったことは明らかだが、彼が利己的な学び手でなかったのは何よりだった。一冊も著さなかった偉大なる師ソクラテスの対話篇や哲学思想は、プラトンなくして人類の知的遺産にはなりえなかった。プラトンはソクラテスに学び、そして学びを広く伝えたのである。イエスと弟子、孔子と弟子の関係にも同様の学習と伝達が機能した。言うまでもなく、誰かに伝えることを目的とした学びは純粋ではない。まず旺盛なる好奇心によって自分のために学ばねばならないだろう。そして、その学びの中に誰かと共有したくなる価値を見い出す。他者に伝えたいという抗しがたい欲求を満たすことによってはじめて、学びは完結するのである。