成功事例の学び方

座右の銘ほど頻繁に使うわけでもない。また、ここぞというときの伝家の宝刀でもない。おそらく誰もが発しそうな、どこででも耳にしそうな格言。実際に使われているかもしれないが、一応ぼくの自作。「人は人からもっとも多くを学ぶ」というのがそれ。人物にひれ伏すように学ぶことではない。「偉人伝」に書いてある、いいことづくめで成功物語に酔いしれるのではなく、人物の功罪を学ぶという意味である。

平均的ビジネスマンがひも解く程度に企業と製品の成功事例や人物の成功秘話を研究したことがある。成功には最大公約数的な法則もうかがえるが、すぐれて顕在化する共通要素は少ないということがわかる。つまり、ほとんどの成功事例はそれぞれ固有であり特殊なのである。もちろん範とすべきビジネスモデルや理想の人物像は存在するだろう。しかし、長い歴史から見れば、普遍的な評価に浴するのは一握りであって、ほとんどは一過性の現象に終わる。また、世界を視野に入れれば、成功法則には軽視できないほどのバラツキがある。ケーススタディは一筋縄ではいかない。

近年成功美談にうつつを抜かすことはなくなった。懐疑的とまではいかないが、ほどほどに感心した後は丁重に流しておく。決して過度に思い入れをして秘訣を探って何とか生かしてやろうなどとは思わない。あまりいいたとえではないかもしれないが、ローヤルゼリーとプロポリスが蜂にとってスグレモノだからという理由で、蜂ではない人間が何かに憑かれたように摂取するのは考えものだ――という具合。蜂の成功、必ずしも万物の成功に通じず、である。


昨年12月にテレビで視聴した番組に成功事例につながる話題が二つあった。一つは、九州のDIYホームセンター。知る人ぞ知る「ムダな品揃え」を売りにしている企業である。どんなニーズにでも対応する覚悟の背景には強い顧客へのコミットメントがあるに違いない。顧客の欲しいものや必要なものが、たとえ量的に捌けなくても、たった一人のニーズに適うならば一個でも仕入れるという。頭が下がる思いだが、こうして「あの店に行けば必ず何かがある」という心理が顧客のマインドに醸成されていく。とは言え、この成功事例がそっくりそのまま活用できるとは考えられない。二番煎じというそしりを受けて真似をしても、多様化する顧客ニーズのすべてを満たすことなど常識的にはありえない。

もう一つの例は、「『できない』と言わない」を掲げる畳店の話だった。ぼくの見た場面は、ある居酒屋が注文した畳替えだ。畳替えはある種のリフォームである。店舗規模の大きい居酒屋が畳替えをしようと思えば、通常一日や二日の臨時休業を強いられる。だが、この畳の専門会社の売りは24時間対応。ものの見事に深夜の閉店時刻から翌日の開店時刻までの間に仕上げてしまう。旅館や料亭の大広間の畳の縁飾りもオリジナルなニーズにきめ細かに応える。感心ひとしきりのサービス精神である。

いずれの事例でも独創的な経営精神が余すところなく発揮されている。実際、顧客に向き合う商いの魂にぼくは強く鼓舞されもした。だが、正確に言うと、精神と道は違う。精神にならうことはできても、取るべき道には現実的にできることとできないことがある。少なくとも、ぼくのような企画業や講師業で身を立てる者がありとあらゆるニーズを満たすことなど不可能なのである。すなわち、ぼくの限界が市場の限界。えらく弱気なように響くかもしれないが、これまで持ち続けてきた諦念たいねんの一つだ。自らが得意とするところと「できないこと」を慎ましく明示してこそ、存在が意味を持つ。

二つの成功事例からぼくが学んだのは、顧客満足のための具体的方法論などではなく、何事も徹底する精神のほうであった。

問題、そして解決

問題と解決が一体化して「問題解決」という四字熟語になってから久しい。心理学の主題として始まりすでに1世紀が過ぎた。ぼくの場合、問題解決というテーマとの付き合いは30年前に遡る。ちょうど広告業界に転職した頃で、製品訴求メッセージにどのように問題解決便益を盛り込むかを思案していた。一番最初に読んだ本が『問題解決の方法』(岡山誠司)。本棚に残っていた。奥付には昭和五十六年十二月二〇日第一刷発行とある。

久々に傍線部のみ目で追ってみた。少しずつ記憶が甦ってきて、数ヵ所ほど現在も拠り所になっている文章に出くわした。たとえば、次の箇所。

「なぜ人間は、問題を解こうとするのか。これについては、『人間とは環境の中で生き残り、うまく機能していこうと努力する生きもの』であると仮定することによって、基本的には理解できるようである。」

あれ、これは最近どこかで使ったぞと思い出す。昨年の私塾の『解決の手法』で紹介している。最初に読んだときにメモしていたカードから引用していたのである。

次の一文も現在のぼくの考えの一部を支えている。

「情報を取りこむのは、保有する知識と多少異なっているばあいであり、取り入れ(同化)られると、その情報は知識の一部を変形し修正(調節)する。こうして知識は、一段と洗練(再構造化)され、よりよく生きるのに役立つものとなる。」

強引に読むと、持ちネタが足りなければ、ぼくたちは外部の情報を取り込んで問題解決に役立てる、ということだ。新しい問題に対しては、定番の解法では不十分であり、その問題と共時的に発生している人間的・社会的現象に目を向ける必要がある。


問題解決という、こなれた四字熟語を一度解体してみる。それがタイトルの「問題、そして解決」の意図である。問題と解決を切り離してみてはじめて気づくことがある。たとえば、問題がなければ(問題に気づかなければ)、解決の必要性に迫られない……問題が起きたら、解決しようとする、少なくとも解決しなければならないと思う……自分の責任で問題を起こしてしまったら、当然のことながら解決すべきである……未曾有の問題なら解決すべきであると十分に認識しても、うまく解決できるとはかぎらない……。まあ、こんな具合に、「問題と解決」のいろいろな構図が見えてくる。

要するに、四字熟語として問題解決を眺めてばかりいると、問題と解決の間の距離に鈍感になってしまうのである(ぼくはかねてから”ソリューション”という便利なことばにその鈍感さが潜んでいると思っていた)。ところが、上記のように「問題、そして解決」と切り離してみれば、問題を認知し原因を探り当てることと、それを解決することが大きく乖離していることに気づく。前に、ヴィトゲンシュタインのことばを引いて「およそ問いが立てられるのであれば、この問いには答えることができる」と書いた。問いと問題には類似する点もあるから、「問題が見つかれば、解決することができる」と言えなくもない。しかし、問題の大きさと質による。問題を見つけるノウハウと解決するノウハウは、たいていの場合、まったく異質である。

問題解決で手柄を立てるには、放火魔消防士になるのが手っ取り早い。自分で火をつけ(問題を起こし)、第一発見者となって火を消し止める(問題を解決する)。本来問題でも何でもないのに、やたら問題視して処方するのがやぶ医者だけとはかぎらず、あなたの周辺やあなたの会社にもそんな連中がいるかもしれない。しかし、もっと手に負えないのは、自ら問題を引き起こしていながら、そのことに気づかず、解決の手立てを講じない輩だ。まるでお漏らしをしてただ泣いているだけの乳幼児である。

世の中には解決しなくてもいい問題もある。それは単なる現象であって、「問題」と呼ぶこと自体が間違っているのだ。問題を見て、「解決できそうだ」「解決すべきだ」「(何が何でも)解決したい」という三つの知覚が鮮明になる時、鋭利なソリューションへの道が開ける。さもなければ、解決の機が熟していないか、尻に火がつく問題でないかのどちらかである。    

只管音読という「素振り」

只管しかん〉ということばがある。禅の一宗派では「ただひたすら座禅すること」を只管打坐しかんたざと呼ぶ。只管ということばそのものはどうやら仏教語ではないらしい。「只管○○」と複合語にすれば、「○○のことだけに意識を集中し、もっぱら○○だけをおこなうこと」を意味する。ぼくが大学生の頃に、著名な英語教育界のリーダーが「只管朗読」を独学のエッセンスとして提唱した。「ただひたすら英文を音読する」のである。

もちろん、この種のトレーニングは独学に限定されるわけではない。英語圏には古くから”トータル・イマージョンTotal Immersion)という語学メソッドがあり、日本でも本場から進出して久しい老舗語学学校の看板教授法になっているほどだ。トータル・イマージョンにも「ただひたすらどっぷり浸かる」というほどのニュアンスが込められている。かつてはライシャワー駐日大使ら日本語に堪能なアメリカの高官たちが、本国で日本語トータル・イマージョンの日々を送っていたという話を聞いたことがある。

英語学習において、中学程度の英語をほぼ正しく音読できる成人という前提付きで、上記のような只管音読はきわめて有効な学習方法だと思う。今のようにヒアリング教材がほとんどなかった1970年前後にぼくは毎日欠かさずに何時間も英文を音読していた。「英語圏の人々と対話なり論争なりをする」という無謀な企みがあったので、手当たり次第にいろんな英文を声に出して読んだ。かなり高度なテーマも含まれていた。四ヵ月後には、抽象的な思考も伝えたいことはほぼ言語化することができるようになった。

なお、外国語学習における母語の役割については議論が分かれる。母語禁止と母語活用だ。ぼくはいたってシンプルに考えている。成人の知のほとんどが母語の概念で形成されているから、大いに母語を活用すればよろしい。語学学習者にはさまざまな学習目的があるだろうが、全員に共通する究極着地点は「母語並みの語学力」である。これは、裏返せば、母語以上に外国語に習熟するのはきわめて稀ということにほかならない。


美しい日本語を声に出して読むというのが一時的にブームになった。だが、ブームで終わるのは、それが「美しい」と称するほど生易しいものではないからだ。毎日毎日どっぷりと、ただひたすら音読を続けるのは過酷であり、たとえ母語である日本語であっても、日常会話に堪能なステージから縦横無尽な対話を繰り広げるステージへはなかなか達しない。日々生活を送る中でことばに習熟するだけでは、知的な対話をこなすことはできないのだ。

儀礼的な報告・連絡・相談ばかりで、少しでも骨のあるテーマについて意見交換することができない。来年還暦を迎えるぼくの周囲には年下が圧倒的に多いから、彼らも一目を置いて聞き役に回ってくれる。ぼくとしてはスリリングで挑発的な対話や討論を楽しみたいのだが、彼らの遠慮ゆえか、こちらが一方通行の主張ばかりしていることが多い。愚痴をこぼしてもしかたがないが、対話向きの言語不足、ひいては思考不足も原因の一つである。

言語は幼少期に苦労なく身についてしまうので、成人になると特別な練習をしなくなるのである。対話は何も特別な能力でもないし、数学者のように緻密を極めることもない。アリストテレスも言うように、「弁論家に厳密な論証を要求するのは誤っている」のだ。弁論家の部分を対話者に置き換えればいい。少しは励みになるかもしれない。何はともあれ、母語においてもう一段上の対話力を目指そうとするならば、対話そのものを実践するのが一番。しかし、その実践機会の少ない人にとっては只管音読という素振りが効果的だと思う。

取ることと捨てること

取り上げて用い、捨ててしまって用いない。今さらながらというテーマなのだが、これがなかなか奥深い。「取捨」は選択や択一という表現を随えて四字熟語にもなる。情報編集や企画の仕事にはきまってつきまとう作業である。取るか捨てるかのどちらに頭を悩ますかは人それぞれ。適当に取り適当に捨てるならば、取るのも捨てるのも気楽である。だが、最終段階で何かを取り別の何かを捨てるとなると、取捨の対象を絞る勇断が要求され、この作業は途端にきつくなる。

だいぶニュアンスは違ってくるが、捨てるを“give”の変形だと考えると、取捨は(順番を変えると)“give and take”に通じなくもない。徳の教えによるとギブのほうがむずかしいようである。これまたニュアンスは変わるが、取捨を「保存と処分」としてみれば、大掃除や引っ越しの際の処分へのためらいを思い起こす。取捨選択をしているつもりが、気がつけば何も捨てられなくなっている自分に気づく。捨てようと思ったら、精細な選別などしていてはいけないのかもしれない。

ぼくの場合も同様だ。「2日研修のカリキュラムを1日用にアレンジしてほしい」という要望が時折りある。2日が1日になるから当然報酬は半分になる。依頼する側も2日間のネタを半分に削るのだから朝飯前だと思っている。どっこいそうはいかないのだ。1日研修を2日研修に「希釈したり間延びさせたり」するほうがうんと楽なのである。いや、ぼくが水増しをするということではないが、一般論としてダウンサイズ化は高度な技量と大きなエネルギーを要する。ちょうど真空管からトランジスタ、トランジスタからIC、ICからLSIへとハイテクが進んだように。


ぼく自身にまつわるエピソードをもう一つ紹介しておく。これは2日を1日ではなく、1日内の時間短縮。実施していたのは17時間の研修で、この報酬の指数を10としておく。翌年、同じ内容のテーマでタイムテーブルを午後からの3時間半に設定したいとの申し出があった。そして、報酬も半額でお願いしたいと言うのである。ぼくだって講師歴30年以上のプロの端くれ。時給ベースだけで評価されては困る。なにしろ新幹線を使わねばならない遠方なのである。しかも、講義を計算づくめで縮減するには少なくとも一両日はかかる。捨てる編集は単純引き算などではない。行き帰りも含めて一日を要するという意味では、報酬は7でも8でもなく10に値する。「知の売人」に成り下がらないための必死の抵抗と言えば、ちょっと構え過ぎるか。 

学ぶ側からの話。「取る」を「学習」になぞらえると、「捨てる」のほうは「離学」または「脱学」と呼べるだろう。実際、ぼくは何十年も前から脱学という造語を使ってきた。もっとも簡単なのが「不学」。まったく学ばないことである。無学とは少し違う。無学は不学の結果、陥ってしまった状態だ。これに比べれば学習は辛抱を要する。「勉学」という用語などはそれを如実に表している。しかし、である。学びには何がしかの偏見が含まれているもので、組み合わせによっては性悪な固定観念につながる。だから時々「異型性知識」を切除するメンテナンスが必要なのだ。これが脱学で、一番むずかしい。

ちなみに、学習は知識の習得を目指す。習得とは固定化のことなので、すべての学習はある種の固定観念形成であるとも言える。なお、脱学だからと言って、完全忘却するのではない。いったん記憶域に刷り込まれた知識を完全消去することなどできない。脱学とは、固定観念化してにっちもさっちもいかない知から離脱して新しい知へ向かう、学びの再編だ。言うまでもなく、新しい知は未来だけにあるのではなく、遠い過去にもある。それを温故知新と呼ぶ。 

理想と現実のギャップ

「ある新聞記事を読んでいたら、『理想と現実にギャップがある』と批評しているのだけれど、言いっ放しで消化不良だった」

「どういうこと?」

「ざくっと理想は書いてあるんだ。そして理想を叶えるべく実行している現実の策も書いてある。しかし、そこにギャップがある! というわけ。読者にはそのギャップが何だかよくわからない」

「なるほど。ギャップって割れ目や隙間のことなんだが、落差や食い違いだよね。理想と現実のギャップとは、理想と現実が一致しないという意味だな。で、その記者はギャップが生じていることを書いてはいるが、ギャップを埋めるべきかどうかとは言っていないわけ?」

「まさしくその通り。ぼくは常々思うんだけれど、たとえば『意見の相違だ』とか『コミュニケーションギャップだ』などと言ってすました顔をしている書き手がいるけれど、それじゃ批評になっていないのではないか」

「その種の言いっ放し評論がないことはないだろうが、そもそも本人がギャップとは何かについてよくわかっていないのだと思う」

「と言うと……?」

「ギャップというのは、XYの差。人の場合なら、XさんとYさんの認識の相違とか。本来一致することを目指してはいるけれど、そこに埋められない差があるということ」

「人の場合ではなく、理想と現実の場合ならどう考えたらいいんだろう?」

「現実が理想に追いつくまでの距離になるのだろうね。やりたい趣味があって、長年ずっとやろうと思っているが、まだ着手できていない状況。これは理想と現実のギャップ。あるとき一念発起してその趣味を始めたら、理想に追いついたというわけだ。でも、追いついたら追いついたで、今度は上達したいという新たな理想が生まれるから、つねに何らかのギャップがそこには存在する」

「それなら、理想を低くすれば、理想と現実のギャップは小さくなるね。しかも、ギャップが存在する時間も短くなる」

「そうなんだ。朝出社する。3件のメールに返信をしなければならない。これは目標なりノルマと呼んでもいいが、一種の理想だ。まだ返信していない状態は理想と現実にギャップがある状態。しかし、ものの数分間も作業をすれば理想は叶う。こんな簡単な理想なら楽勝だ。けれども、ぼくたちが掲げる理想はふつう容易に実現できないことのほうが多い。だからこそ理想と呼ぶに値するわけだろう」

「たとえば婚活。理想の結婚相手が見つからないとギャップはあり続ける。埋めたければ、現実において見つける努力をするか、理想をうんと下ろしてくるかのどちらかと言うわけだ」

「ギャップが存在する原因を理想が高すぎることに求めるか、あるいは現実の策の不十分さや努力不足に求めるか……少なくともこのことをよく理解しておかないと、ギャップを埋めることはできない。また、絶対に一致しないXYを設定しても意味がない。死んでしまった愛犬を生き返らせるという理想に対しては、現代科学ではどんな現実的手段を講じることもできないからね」

「毎朝散歩をするとか毎日50ページ本を読むなどはほどよい理想と言えるかもしれない」

「たしかに。しかし、その場合は、『毎日』が重くなってくる。何かの本で読んだが、当時ケーニヒスベルクと呼ばれた小都市で生まれ育ったカントは、毎日きっかり午後3時半に家を出て、樹木の生い茂った『哲学者の小道』を8往復したそうだ。『明日小道を8往復する』という一度かぎりの理想なら現実的に可能だろうが、これが毎日となると気の遠くなるようなライフワークになる。カントは見事に理想と現実のギャップを埋め続け、『ケーニヒスベルクの歩く時計』とまで言われた。休んだのは生涯に二度だけだったらしい」

「その二回だけのギャップをカントはさぞかし悔しがったのだろうね」

「おそらく。話を結んでおこう。当たり前のことだが、ギャップが埋まるのは理想が達成されたときと、始めから理想と現実に差がないとき。後者は現実のみを生きているという状態だ。きみが読んだ新聞記事のように、理想と現実の間にギャップがあることをよからぬように評論する人が多いが、現実側から理想に近づこうと努力をしている過程ではいつでもギャップは存在する。ギャップがあるというのは、少なくとも何がしかの理想を目指しているという点では必ずしも悪いことではない」  

拠り所は出典不詳の知識

出典を承知している知識とそうでない知識を天秤にかける。言うまでもないが、圧倒的に後者の知識のほうが重い。ぼくなど、どこで仕入れてきたかわからない雑学的知識が生命線になっている。学者と呼ばれている友人や知人は20人やそこらいるが、彼らでも同じだろうと推理する。とりわけ知識が格言や名言である場合、手元に書物やノートがなければ、典拠を明らかにしたうえで正確に引用することなどままならないだろう。

しかし、論文を書いたり本を著そうと思えば、精度が問われる。当然どうにかして調べ上げねばならない。「どこで知ったか覚えていないし、正確に引用はできないが……」などという文章を学者が綴ることは許されないのだ。いや、ぼくだって適当であっていいはずはないと自覚しているが、学者のように神経質になる必要はない。不確かな、詠み人知らずの知識を軽いトーク調で紹介することが許される。

もちろん許されるからと言って、平気な顔して事足りるわけではない。ノートにきちんと引用して出典も書いておくべきだった後悔すること、絶えずである。たとえば、とても気に入っている、アイデアに関する古いメモ書き。

「アイデアは小声で話すので、喧騒の中では聞き取りにくい」

「期限が近づくと、つまらないアイデアを使い回ししなければならなくなる」

この二つの文章の出典はわかっている。本ではなく、ジム・ボーグマンのイラストに添えられたものだ。それはあるアメリカの大学の卒業記念に配られたファイル一式のうちの2枚である。ところが、出典である、その肝心のファイルがどこにあるのかわからない。だから、英語の原文と照合できない。上記の文章はぼくが訳してメモしたものだが、きちんと訳したのかどうか、今となってはうろ覚えなのである。


もう一つ。こちらは数年前までは研修のテキストにも使っていた。「発明は頭脳と素材の融合である。頭脳をうんと使えば素材は少なくてすむ」という、チャールズ・ケタリングのことばだ。ケタリングは生涯特許1,300件とも言われるエジソンほど有名ではないが、特許300件を誇る、知る人ぞ知る発明家であった。ここまでは確かだと思うのだが、どこでこの情報を仕入れたのか判然としない。ロボット工学博士の森政弘の著書で読んだような記憶があるがわからない。残念ながら、調べる気力がない。

出典を不確かなままにしながらも、ぼくは「発明は頭脳と素材の融合である」という、方程式のようなこのことばを名言だと思っている。そして、〈創造性=思考×情報〉という公式を勝手に作ってしまった。信憑性のほどはいかに? いろんな人に出会うたびに、その人の創造性指数をひそかにチェックするが、この公式は生きている。但し、「思考×情報」としているが、これら両要素を同時に大きくするのはきわめて難しい。この公式では、情報大のとき思考が小、情報小のとき思考が大になる傾向があるのだ。極論すると、創造性においては〈思考≒1/情報〉が成り立ってしまう。

「頭脳をうんと使えば素材は少なくてすむ」というケタリング。この文脈には、「知識や情報ばかり集めていると頭を使わなくなるぞ」という警鐘が隠れている。考えないから本を読んだりネット検索ばかりしなければならなくなるのだ。もっと言えば、簡単に情報が手に入らない、どこにもヒントがないという状況に追い込まれたら、人は必然的に頭を使うようになる。ろくに考えもしていないくせに、調べているだけで創造的な気分になることもあるから気をつけよう。

自己検証しない人々

相変わらず悪のささやきに騙される人たちが後を絶たない。手を変え品を変えての詐欺に悪徳商法。騙す側も懲りなければ、騙される側も懲りない。もしかすると、マスコミを定期的に賑わす事件はテーマは変われども同じ登場人物で繰り広げられているのではないか。オール前科数犯、オール被害数回という設定だ。道徳論的には騙すほうが悪いと言っておかねばならないが、騙される人たちの懐疑不足と検証不十分も大いに戒められるべきだろう。

ふと思う。騙されるためには、人的交流が前提となる。人付き合いしていなければ、他人に騙されることはない。「ネット上で知り合った」というのも新しい交際の形態にほかならない。ある種の「お人好し」には他人の影がちらほら見えてしまうものだ。他方、こういう人たちと対極を成す種族も今時の人間関係事情を照らし出す。直接的対人関係が希薄で、なおかつネットでの出会いも志さない人々。彼らは他人には冷ややかな視線を向けたり一言一句を懐疑したりする。まるで近世哲学のスーパースターだったデカルトの末裔のように、少しでも疑わしければ徹底的に疑う。

デカルトの演繹は、〈明らかに真以外は認めない〉〈小さく分けて考える〉〈単純から複雑へと向かう〉〈見落としがないかすべて見直す〉の四つの規則にしたがう。疑って疑って疑い続ければどうなるか。最後に一つだけが残る。「疑っている精神」である。「何から何まで疑い、すべてが偽だと考えていても、そう考えている自分だけは確かな何かだ」とデカルトは思い至り、あの哲学史上もっとも有名なスーパーキャッチ、我思う、ゆえに我ありコギト・エルゴ・スム」を生み出した。


デカルト懐疑主義はよく批判に上がる。「我思う、ゆえに我あり」なら「我食べる、ゆえに我あり」でもいいではないか、と。なぜ「我思う、ゆえに『思う』あり」というように導出しないのか、と。たしかに「コギト・エルゴ・スム」という響きのラテン語は17世紀の知性の心を過度に揺さぶったかもしれない。それでもなお、デカルト自身は幼い頃から身につけてきた自分の先入観や感覚をも排除して、肉体から何から何まで懐疑した。ここには強烈な自己検証も含まれていたことを忘れてはならない。

おそらくデカルトはすべてに辛かったのであろう。ところが、当世の懐疑主義者は「他人に辛く、自分に甘い人々」なのである。他人の失態は一事が万事とばかりに目こぼしすることはなく、自分のエラーは試行錯誤よろしく大いに許容する。言い換えれば、他人の過小評価、自分の過大評価……自分大好き、バーチャル完璧主義……。自分の回りに必ず一人や二人はいるし、自分自身の中にもそういう性向が少々あることに気づくだろう。

やむをえないことなのかもしれない。今こうしてキーボードを叩きPC画面上に文字を連ねている現実理解ほど、ぼくには確かな自己認識はできてはいないだろう。外に向けた鋭い懐疑の視線は、内に向けた瞬間、矛先を鈍らせる。自己検証というものは不足気味にして甘くなりがちな作業なのだ。こういう甘い習慣が形成されるとどうなるか。学ぶことができなくなり進化が止まる。では、どうすれば自己検証できるようになるか。相互検証を通じての自己検証というほかない。立場を入れ替えての論争術であるディベートにはその機能が備わっているのだが、そういう視点でおこなわれているのか、ぼくは懐疑的である。  

風土と食を考えるきっかけ

食への関心がきわめて旺盛なほうである。グルメや貪欲という意味の旺盛ではない。また近代栄養学的な視点からのマニアックな健康志向でもない。きわめて素朴においしいものをゆっくり楽しく食べたいと熱望するのであり、旬という季節感や土地柄という風土への意識が底辺にある。今ではまったく後遺症のかけらもないが、五歳のときに事故で腎臓を患い、その後の一年間、無味な食事生活を強いられた。塩分、糖分、脂肪分がほとんどなく、超薄めに味つけされた野菜とご飯ばかりを食べていた。「余分三兄弟」のない食生活であった。今の食への思い入れは、その反動のせいかもしれない。

世間で言う「飯食い」ではないが、米食民族の一人としての自覚はある。ぼくにとって、ご飯は必要欠くべからざる主食である。玄米や五穀米もいただくが、白飯が多い。但し、風土に忠実なので、本ブログでしばらく紹介していたイタリア紀行の折りには、“Quando siete a Roma, fate come i romani.”を実践する。「郷に入っては郷に従う(ローマではローマ人のように振舞う)」だ。だからパンとパスタとトマトと肉食中心の2週間でもまったく平気である。ミラノ名物リゾット頼みしてまで米を求めない。体調不良を来すこともない。

塾生の一人に米問屋の経営者Tさんがいる。給食業、弁当屋さん、飲食店向けに「おいしい炊飯」の啓発をおこなっている。米を買ってもらうための販売促進の一環ではあるが、情熱家はどこかで「損得抜き」の発想をするもの。彼のプレゼンテーションをお手伝いすることになった。彼いわく「炊飯技術が向上して家庭でのご飯が小量炊飯でも飛躍的においしくなった。米は大量に炊くほうがおいしいという通念があったが、業務炊飯はうかうかしておれない」。正直言って、おかずがおいしいけれど、ご飯が粘ってうまくないという店があって、がっかりする。これなら自宅の炊きたてのほうがうんとうまいと思ったりしていた。先週からこの仕事をきっかけに風土と食をあらためて考察している。


二十歳前後からの愛読書、和辻哲郎の『風土』に次のような一節がある。

食物の生産に最も関係の深いのは風土である。人間は獣肉と魚肉のいずれを欲するかにしたがって牧畜か漁業かのいずれかを選んだというわけではない。風土的に牧畜か漁業かが決定されているゆえに、獣肉か魚肉かが欲せられるに至ったのである。同様に菜食か肉食かを決定したのもまた菜食主義者に見られるようなイデオロギーではなくして風土である。

ぼく流に言い換えれば、主義主張で食材や調理を考えるな、ということになる。過食やバランスの悪い食事は「知識」によるものである。知識がバーチャルグルメを生み出して、わざわざ食べなくてもいいもの、さほどおいしくもないものに向かわせるのである。もう少し切実かつ禁欲的に語れば、その時期に手軽に手に入る食材の恵みに依存するということだろう。ちなみに食材には保存のきくものと鮮度勝負のものがある。米や小麦やイモなどは前者だから年中口に入る。ゆえに主食になりえているに違いない。

今日の話に特別なオチはない。以上でおしまいだが、昨日飛び込んできたキリンとサントリーの企業統合決裂のニュースは、めでたしめでたしである。食品製造業の企業がメガ化する必要などどこにもない。ましてや食と風土を持ち出すならば、キリンにもサントリーにも「飲食と企業風土」の固有の独自性があるだろう。もし統合が実現していれば世界一の規模だが、おもしろくも何ともない巨大企業に映っただろうに違いない。ヴィトンとシャネルが一つになると文化崩壊が想像できるように、食産業にあってももっとも重要な文化性がどちらの企業からも消えてしまうことになっていただろう。   

「義理チョコ」の是非

「義理チョコの是非」を本気で問うことは絶対にない。結論から言うと、是でも非でもなく、好きか嫌いかの話にすぎないと思っている。たとえ百害一利であろうと、はたまた百利一害であろうと、一人ひとりが義理チョコを贈るか贈らないか、あるいは貰うか貰わないかを、自分自身で判断するしかない。また、貰った義理チョコに対して一ヵ月後にお返しをするかしないかも男性諸君の判断に委ねるしかない。

バレンタインデーが近づいてくると、「バレンタインデーなんかいらない」という論題や「バレンタインデーの義理チョコをやめるべきである」という論題を思い出す。ディベートの議論のテーマを論題と呼ぶが、バレンタインデーとチョコレートは入門者向けの格好の価値論題になってくれる。実際、かつてぼくの2日間ディベート入門研修の初日に実施する「ミニディベート」では、バレンタインデーをネタにした論題をよく扱った(なお、ミニディベートとはぼく独自の簡易ディベートの命名で、ふつうは「マイクロディベート」と呼ばれている)。

バレンタインデーの由来にまで遡って論争するまでもないだろう。また、いつ義理チョコが始まったかを追及しても意味がない。国や地方自治体、あるいは職場で義理チョコを制度にしているわけではないから、嫌なら習慣に縛られなければいい。そう、義理チョコの是非は政策論ではないのだ。だいたいがチョコレートを贈るのに「本命」も「義理」もないだろう。ダイヤの指輪を義理でプレゼントする男性はいないだろうし、一人の愛する女性に贈るときに「本命ダイヤ」ということばが彼の脳裏をよぎることもあるまい。職場の好きな人にチョコを贈っていたが、その人だけに贈ると目立つので、カモフラージュするためにその他の男性にも配った。それを義理チョコと呼ぶようになっただけの話ではないか。お中元・お歳暮もよく似たものである。


繰り返すが、義理チョコの是非は政策論ではない。広く容認された社会的慣習やしきたりでもない。あくまでも個人の判断に委ねられる年に一回のパーソナルイベントにすぎない。ゆえに、是非を議論するのなら、価値論でなくてはならないだろう。価値論は「本来白黒のつかないことを、白黒をつけるべく相反する議論を交わす」。最終的には本人が決めればいいのだが、せっかくだから遊び心で是非の白黒をつけようじゃないか――こんなふうに構えて議論するならいい。アームチェアーに座ってのディベートならともかく、実社会では成人が真顔で義理チョコの是非を論争したり論評したりしないほうがよろしい。あまりにも幼すぎる。

新聞に次のような四十過ぎの男性の投稿があった。

「『義理チョコ』をもらった男性が甘いものが嫌いだったり、お返しとかで経済的にも精神的にも負担をかけたりする場合があるからです。(中略)バレンタインデーにチョコを贈るのは製菓会社の商戦と割り切り、商魂に踊らされた贈り物、特に『義理チョコ』の習慣はやめるべきではないでしょうか。」(傍線岡野)

反論の内容よりも、下線部の問いかけが詮無いことなのである。制度でも何でもないのだから、投稿者が何と言おうと、義理チョコの習慣をやめるかやめないかは当事者たちが決めればいいことだ。いや、この投稿者だって「やめるべき」という個人的な意見を述べたにすぎないという見方もあるだろう。それならば、「製菓会社の商戦」とか「商魂に踊らされた贈り物」などという社会的な理由にまで論点を広げなくてもいい。バレンタインデーシーズンに限らず、製菓会社はいつでも商戦を繰り広げているし、商魂に踊らされた贈り物を持ち出すのなら、ビールも海苔もハムも同じだ。そもそも企業は商戦と商魂によって商売を成立させているのである。甘いものが嫌いな男性にチョコレートを贈るように、アルコールを飲まない人にビールを贈ることだってある。それが社交や交際の常である。

義理チョコ。贈りたければ贈ればよろしい。貰いたければ黙って貰えばよろしい。経済的・精神的負担になるなら贈らねばいいし、お返しが経済的・精神的負担になるならば貰わねばよろしい。そんなことをすると職場の人間関係がギスギスするなら、つべこべ言わずに、その程度の人間関係の職場だと割り切って義理チョコを贈り贈られ続ければよろしい。なお、聞くところによると、バレンタインデーが日曜日だとほっとする人が多いそうだが、案外その点にこそ義理チョコへの本意がありそうだ。   

適者生存について

オフィスのぼくの椅子の後ろの本棚に、ジェームズ・アレンの『「思考」が運命を変える』がずいぶん以前から収まっている。最近はこの手の生き方の手引き書をあまり読むことはないが、若い頃はデール・カーネギーなどを英文でよく読んだものだ。アレンの本も二、三冊読んだ記憶がある。「思考が運命を変える」という主張に対するぼくのスタンスは賛否五分五分。思考要因もあるが、環境や風土などの構造要因もあって、思考もその枠内で決定されるはずとも考えている。

その本のまえがきには次のように書かれている。

進化論には「適者生存」という考え方があるが、思考や行動においても、よい思考や行動が環境にもっとも適した「適者」として生き残り、悪い思考や行動は滅んでいく。

人類の歴史全体で見れば適者生存してきたかもしれない。また、好ましい思考や行動をする者が適者として残ってほしいという願望もある。だが、悲しいかな、現実が必ずしもそのようになってはいない。馬鹿げた思考をしたり愚かな行動に出たりする者が案外うまく立ち回って生き残り、適者を従えて威張ったりしているではないか。アレンは「原因と結果の法則は完璧な法則」と言うが、部分的・個別に見れば、好ましくない原因が成功という結果をもたらしているケースが結構目立つのだ。


というふうに、一見アレンにイチャモンをつけたようだが、原因と結果の法則がほぼ完璧に当てはまる例がある。それは飲食業界である。「まずくてぼったくり」は不適店であり必ず淘汰され、「うまくてリーズナブル」は生き残る。顧客獲得競争にあって、前者は滅びてしまうのである。年が明けてから、出張も少ないので、プチマーケティング研究を兼ねてオフィス近くの飲食店をつぶさに観察し、実際にランチに立ち寄ってもみた。この界隈で創業してから23年目、飲食店事情には店舗側のオーナーや料理人以上に精通していると自負している。

アレンの適者生存論が見事に当てはまる。勝ち組と負け組の鮮明な構図が浮かび上がるのだ。現在は勝敗が明確になって、負け組が閉店・廃業しつつある。つまり、店舗減少期に差し掛かり、少数の勝ち組が生き残ってそれらの店に客が集中している状況だ。競合激化から寡占共存の様相を呈している、と言ってもよい。隣のビルの地下のテナントなどはこの一年で三回変わった。現在の店も風前の灯、まもなく消えそうな雰囲気だ。おそらく、しばらくは少数の勝ち組だけが客の常連化に成功し、客を奪い合うのではなく分かち合って繁栄していくのだろう。勝つ者は鬼のように勝ち続け、負ける者はあっけなく滅びてゆく。

ところで、朝青龍はどうだったのだろう。最後の一事は論外だが、ある価値観から見た好ましくない行動の数々にもかかわらず、彼は頂点に君臨してきた。そういう意味では絵に描いたような「最適者生存」の例であった。だが、意に反して相撲界引退という幕切れは、彼が結果的に適者ではなかったことを意味する。彼に同情することはないかもしれないが、記者会見を見ていて思ったのだ。世界に出て行き活躍しているわが国のアスリートたちの、いったい誰があのような場面でその国の言語で質疑応答がこなせるのか。わずかに中田がイタリア語でヒーロー会見したのを知っているだけである。

見誤ってはいけない。顔は日本人のようで同じアジア人と思ってしまうだろうが、彼は騎馬民族の末裔、大草原で生まれ育ったモンゴル人なのである。思考構造は日本人とはだいぶ違うのだ。その彼の言語能力にぼくは舌を巻く。問われているのは、彼の品格や身の振り方なのではなく、相撲界という鎖国社会の中途半端な規範主義なのではないか。国技なのか国際的格闘技か? 日本固有の古典的興行なのかオープンなスポーツなのか? 自らの適者生存の危うさに気づかねばならないのは、相撲協会のほうだろう。